正餐
どうしてここに、という俺の質問に、
「……祖父が」
俯いて彼が答えたとき、俺が先ず思ったのは、
『しまった、財布持ってきてねぇよッ』ということだった。
健康診断のためにやってきた保健センター。会社の健康診断の日に、たまたま遠出の配達に行っていた俺は受診ができなくて、一人でここへ来ることになったのだ。
車で来たし、診断料は会社もちだから、俺が持っていたのはポケットの小銭入れ。五百円玉が一つと、あと幾らあっただろうか……。ここに入院しているのだろう彼の祖父に、見舞いの果物籠一つ、買うことが出来ない。
「父に病院を譲った後、ずっとここに居るんだが」
「はぁ」
「学会でな」
「……は?」
「一週間くらい留守にするんだ。だから、俺はその間の、代打」
「……」
言われてみれば、彼の服装はスラックスにシャツにネクタイ。その上に、白衣。
左の胸元にはドクターと入った写真付きの身分証。脇には、書類がぱんぱんに詰まったクリアーファイル。見舞いに来たという格好じゃないし、そうだ、ここは病院じゃなかった。看護婦さんや受付の制服、清掃が行き届いた雰囲気なんかがそれっぽくて錯覚していたけれど。
「お勤め、なんですか、おじいさん」
「うん。まぁそんなものだ」
廊下の隅で話していたところへ、
「高橋先生、記入終わりましたッ?」
顔色を変えた人がやって来る。あぁと答えて彼がファイルを手渡すと、その人はばたばた走っていった。……なに?
「今日が締め切りだったんだってさ」
「はぁ。……なんの?」
「船員保険協会の、保健検診の書類の締切日。うちの祖父がころっと忘れていて、昨日はそれで大騒ぎだったらしい」
全快も締め切りを忘れて居て、今度やったら指定検診機関の指定を外しますよと脅されていた。指定を外されると、船員保険の検診は自己負担となる。もちろん、船員保険加入者たちは別の医療機関へ行くだろう。ドイツに居る祖父をいっそ呼び戻したいくらいだったけど、そういう訳にもいかなくて、十日ぶりの休みを不意にして彼は出てきた、らしい。
「藤原、お前、検診は?」
「えっと、あの、あと、レントゲンだけです」
「終わったら一緒に、行かないか」
指差された先にあるのは、二十四時間営業のファミレス。時間はまだ十時過ぎだったけど。「腹が減ったろう?」
その通りだった。レントゲンのために朝メシが食えなかったから。学生時代は食わないこともよくあったけど、就職してからはきちんと食べていた。でないと体が持たないから。
「はい。……是非」
「じゃ、終わったら来てくれ。俺は医局に居る」
あそこのドアだと、指差されたのは待合室の奥。はいと答えて、立ち去る人の背中を見送って、俺は浮かれ、レントゲン室までの道のりを走ってしまって、看護婦に怒られた。
ランチのセットに、和風パスタ。
それを一人で注文したら、彼はくすくす笑い出す。そういう彼は、コーヒーだけだった。
「しょーがないじゃないですか、腹へってんですよ」
先に来たパスタをばくばく食べてると、
「悪い。若いんだなって、思っただけだ。お前普段、ぽやんとしてる……、時もあるけど」
「涼介さんは、メシ食わねぇの?」
「あぁ。他のドクたちに、血を抜かれることになってるから」
新しい機器の精度を審査するために、午前と午後の、血液を血清蛋白分画するのだと、言われても意味は良く分からない。ただ、難しいことをさらっと告げる人に見惚れるだけ。
「俺、すごく腹、減っていますよ」
「たくさん食べろよ。なんなら受付で弁当も頼めるぜ」
成人検診者用の、低コルステロール高タンパクの身体にいいのがと、彼が笑う。
「メシは足りるよ。餓えてるのは、別のトコ」
首をかしげた、頭がいいのに鈍い人をじっと、見詰める。彼は悟って、ふいっと目をそらした。目尻がうっすらと赤い。……可愛い。
その横顔が、みるみる凶悪に変貌して。
「……自分だけだと、思うなよ」
声には、凄みがにじんでた。
「俺だって、お前よりはそりゃじじぃだけど、かといってまだ、干物になる歳じゃないぜ」
「すっげー、花盛り、ですよ」
「腹がすいてるのはお前、だけじゃない」
「はい」
フォークに巻きつけて差し出したパスタに、彼は首を横に振る。
じっと見られる。分かっているくせにと。餓えは、胃とは違う場所。
「どうします?」
押して引くこのタイミングは、俺が最近、覚えたテクニック。挑発に敏感で仕切りたがりのこの人は、差し引きのタイミングを間違うと面倒なことになる。
「急いで、食べろ」
けど。
「時間がない。十二時半には問診が終わって、じじいどもが医局に帰って来る」
ツボにはまると、面白いくらい、思い通りに、なる。
深い瞳の横顔に、うずく自分の欲望はコントロール、できなかったけれど。
医局、という、机と×線写真を見るためのボードがいくつか並んだ部屋を、通り抜けた奥。
所長室、と書いてある部屋。そこの鍵を、彼はポケットから取り出した。入れと俺を先に入れ、自分も入って振り向き鍵を掛ける。八畳くらいの部屋を仕切った、衝立の奥が応接セット。ソファーがあるのに、うすく笑った。その前に気づいた。机の上に、写真。
それは、見違えようのない二人。
ふだんのスタイルが逆のせいで気づかないけど、その写真ではよく似てた。やっぱり、彼は上品で弟は野性的で、でも、二人とも、たいした美形だった。
「……藤原?」
俺の視線に気づいて彼が振り向き、あぁ、という表情。
「なに見てるんだ、バカ」
照れたように、俺の手から写真立てを取り上げようとする。させずに俺は、
「なんで?」
あなたと弟の写真がここにあるの、そんな意思をこめて尋ねると、仕方なさそうに目線で示される、壁面。所長らしい白髪の医師の、写真と、資格証明と……、氏名。
『高橋 大雲』
……つまり、所長が祖父、ということか。この部屋の主が。
俺が写真を机に戻すと、彼はほっとして衝立の向こうへ。シャツを脱ぎベルトを外してく手際の良さ。その背後から、俺はひたっと、胸元に手を這わせた。
「……藤原?」
背中をそらして、うっとりした目でキス、してくれそうな人の唇を避け、
「痛み、とかは?」
「ッ、ア……」
キュッと突起をつまみあげもみ潰した。
「痛いみたいだ。しこりとか、赤い汁が出たりは、しない?」
「バカ。ナニ言ってんだ」
「オイシャサンごっこ、だよ」
待合室に張ってあったポスターの真似。
「ニュウボウ検診か?……女性にしか、しないんだよ」
「あんたが誰かにこんなこと」
「ひぅ……ッん、」
「されたら俺、気が狂うかもよ?」
「バカ……」
くすくす、笑う声がやがて切羽詰って。
「……フジワラ……」
すがりつかれて、掌で包み、思い直して口に含んだ。
「……イヤだ」
それはイヤだと、彼が鳴く。後で自分もさせられることを知ってるから。聞かなかったことにして、俺は彼の欲望に仕えた。そうして彼にも、仕えさせた。
十二時、十五分。
少しけだるい感じで彼は服を着ていく。
その手を止めて、胸元にもう一度かじりつく。最初からずっとそこだけ狙っていた、左の飾りに。彼は俺の、髪に指を突っ込んで絡ませながら、
「もう……、ヤメロ。イタイ……」
うん、そうだろうね。
あなたの薄い透明な表面が膨れて擦れて腫れて、ちょっと血なんか滲んでいたりして。
甘い味が、した。
「なんでお前……、意地悪なんだよ、こんな……」
あなたの、弟の写真を見たからさ。今は外国のチームに居る、あなたの最愛の。
「啓介は、弟だ。お前とは違うよ」
違わない。あなたはあいつを愛してる。寝ていなけりゃ家族愛だ、なんてことにはならないよ。
あれは、この世でただ一人。俺が嫉妬を、感じる相手。
「サーキットを嫌ったのはお前じゃないか……。チームから誘いもあったのに、……ッン、蹴って……」
だって。
レース場って、なんかイヤなんだよ。
同じトコをぐるぐる回ってるなんて、まるでハムスターが歯車を廻しているみたいじゃないですかと、言ったらあなたは、呆れて笑ったっけ。そして言ったね。おれにはラリーが向いているかもしれない、って。
あんたが言うならきっとそうだと、思ってプライベートでレースに参戦中。戦績はなかなかで、来期は多分、どっかのプロチームに入れる。
吸い上げて、舌で嬲って、散々に愛してから離した。外したシャツのボタンをはめてやる。そして、彼の身分証を安全ピンで、留めた。
彼の、左の胸元に。
「……ッ」
刺激に彼が、息をのむ。
「俺、今日、午後は内勤なんです。五時に終わります」
ここの勤務が終わったら携帯に電話、してください。
「一緒に夕飯、食いましょう」
そう、イれずに慰めあった、これは簡単なランチ。
夜はもっと、ゆっくりと、豪華なご馳走を。
涙目で、俺を睨む人を。