旋律

 

 

ひどい一日だった。

24時間勤務と24時間の非番を繰り返す、僕の一日は48時間仕様だ。だからひどい『一日』というのは、世間で言う二日間、だ。同僚の父親が危篤で急な休みをとった上に大きな交通事故が起こって、集中治療室に入ってる患者から目が離せなくって48時間、仮眠も出来ずに緊張して過ごした。

旅行中だった先輩がハワイから、殆どとんぼがえりで帰って来てくれて、ようやく白衣から解放された時は足元がふらついた。病院の食堂で食事をとって、次の24時間に備えて眠らなければならない。自宅に戻る余裕はない。だから寝場所を、庶務課長に頼んだ。

宿直室しか空いていないと言われて頷く。いいですか、と念を押されたところで、他にないなら仕方がない。畳の部屋に布団を敷いて、眠るのは嫌いだ。だから普段は差額ベッドの部屋を使っている。バストイレ付きで一泊、7500円の部屋。セミダブルの、広いベッドで、眠る。

畳の部屋に布団を敷いて眠るのはキライだ。夜明けに必ず、見る夢があるから。目を閉じたのは夜の9時。首都高速を流していればまだ、宵の口でもない時刻。

部屋の明かりを消してから寝床までの距離が遠い。部屋はこっちが狭いけど、屈む距離が、多い。50センチの落差が僕に悪い夢をみせる。

いつも。

 

 

 

 

最初は本当に気づかなかった。

とぼけていたんでも拒んでいたんでもない。僕は、本当に分からなかった。仲間の中で気づかなかったのは、どうやら僕だけ、らしかった。

『オレ、イッショーケンメー、アピールしてたのにな』

 あとからあいつにも責められた。冗談半分に、だったけど。

 ……そう。

『なぁ、お前って、ナニ着て眠ってんだ?』

 車と道の話をしていて、不意にそんなことを尋ねられて。

『……寝巻き』

 とりあえず答えたら、あいつはおかしな顔をした。時々そんな、顔をすることには気づいていた。

 眩しいような、照れたような、そんな表情を、僕にだけ、時々、見せた。

『寝てんのは?やっぱ、ベッドかよ?』

 そうだったから頷く。ただ、それだけ。なのに。

 なのに、あいつは嬉しそうに笑った。とても明るく、少しだけ照れたように目を伏せて。

『オレさぁ、ベッドで寝たこと、ないんだ。ずっと布団。昔、うち、畳の部屋しかなかったから』

 そういえば、僕は布団で寝た事がなかった。大昔、祖父母の家で見たことは、あったようななかったわうな、そんなことを考えていたから、

『いつか、寝せろよ』

 不意に言われた言葉の意味が、咄嗟に分からなくって目線を上げる。僕が正面から見返すと思っていなかったらしいあいつは、不意をつかれたように瞬いた。

 僕の悪いクセだ。

 じっと相手を凝視してしまう。

 親しかったり、興味があったり、する対象に限るけど。

 視線を定めて直視することは中程度の威嚇を意味する。敵意というより警告。その時も、僕の目線はそんな色だったのかもしれない。

 あついは、不意に、強く、キツク僕を見返した。

『寝てみたい』

 真っ直ぐ過ぎるほどの、言葉にされてようやく、僕は気づいた。

 呆然と、瞬く僕を救うように。

『……ベッドで』

 あいつが付け加えてくれて、ようやく僕は自分が随分と長い時間、優しく見逃され甘やかされていたんだと、分かった。

 

 

 

 

 そうして。

 僕は、あいつを僕のベッドには寝せなかった。

 代わりに僕が知らされた。布団で寝ることを。

 あお向けで、手足を広げると天井がとても遠くて。

 押さえられると、貼り付けられた気分になった。

『……、痛くない、か……?』

 お互いの荒い呼吸と、汗と唾液の混じる音。なまなましい接触の隙間で囁かれる睦言。

『ア、      つい……』

 ハジメテだった。だからその感覚が痛みなのか違うものなのか、よく分からなかった。

 だから感じてる感覚を、イチバン近い言葉であらわした。僕の髪を梳きながら、ますます隙間を埋めるように。

『ッ……、っ、……』

 僕たちは抱き合って、途中で僕が力尽きてかは一途に抱き締められていた。

 そうなってからの方が気持ちが良かったのは、自分でも少し不思議だった。

 怪我を。

 やっぱり、僕は、少し、してしまって。

『痛い、か?』

 シンパイそうに尋ねられかぶりを振る。本当に、たいした事はなかった。

 さなかの灼熱に比べれば。

『まぁ……、そのうち、慣れる、よな……』

 自分がか、僕が、なのか曖昧なまま、あいつは言って。

 下肢だけに軽くシャワーを浴びて戻った僕に、腕を伸ばして抱き締めながら、

『具合、悪くなったりしたら起こせよ?』

 そんな事を、言われたのを覚えてる。

 昨夜のこと、みたいに鮮やかに。

 

 

 

 

 結局。

 僕は、あんまり、慣れはしなかった。

 あいつも。

 そんな時間が、僕たちには残されていなかった。

 馴染む間もなく切り離されて、二度と会えない。

 でも、あいつは僕の中からは消えない。だってあの時に、僕たちは溶け合った。

 僕の中のあいつは死んでいない。多分、僕がこうして息をしている限り、ずっと。

 

 

 

 

『達也。あなたも忘れてください』

 

 

 

 それはムリだよ、えりこ。

 僕は永遠に降りられない。僕の中で、あいつが言うんだ。足りないって。

 まだ、あいつは走り足りなかった。

 僕もまだ、足りてはいなかった。

 優しくつむがれる、言葉じゃない愛情の唄に、包まれる安息。

 僕は、あれに、包まれて居たかった。

 あれを知らない君は可哀相だ。だけどだからこそ、強い。

 僕は、ダメだよ。知っているから、止められない。

 

 人気のない深夜。

 狂気じみた速度で車を運転していると、錯覚が、起こる。

 あいつの腕に抱き取られているような、幸福感が、ほんの少しだけ。

 

 

 

 畳の部屋で布団で眠るのは、やっぱり、嫌いだよ。

 暖かかった記憶があるから、一人がすごく、冷たくて。

 寂しくなってしまうんだ。……とても。