T・Sex・Twelve
夜空を厚い雲が、急速に埋めていく。
流れが速い。上空で大気が巻いている。地上を吹きぬける風も重く、降るな、と思う間もなく雨が落ちて。
世界が雨音で満たされる。それはほんの短い時間、手錠をかけられた重罪人が背中に少年の嘆きを聞きながら襟と肩の階級証を剥ぎ取られ、二階からの階段を降りていく間での出来事。
「待て、ロイ」
屋敷のホールから部下が支えた扉を抜けて、停めた護送車に乗り込む寸前、別の部下が上官の為に用意したレインコートをするっと、手に取って。
「イシュヴァールの英雄が台無しだ」
軍服と同じ色の厚手のレインコートを罪人の手に掛けて隠す。前で揃えてかけられた手錠を。
失踪した親友を冷徹に捜索した情報部中佐。公私共に、あんなに親しい友人だったのに、その峻別は見事なほどで、眼鏡の中佐は切れ者の評価を尚更に高めた。そしてその、人情味のなさをなじる声も、士官学校の同期や逃亡者の部下からは滲み出した。あんなに仲が良かったくせにどうして、と。
同じ事を、自分から『出頭』した『友人』も呟く。
護送車の後部座席に、並んで座った相手に、どうして、と。
答えず、中佐は前髪を掻き上げた。一筋の乱れもないそれをそうする、仕草をする時はこの男が、相当に重大な決意をするときだと、長い付き合いの『旧友』は知っていた。
「……何回、言ったっけな」
うっすらと、静かに笑う。いつもこの男は静かだ。大声で喚いたり叫んだりはしない。沈黙のうちにすらりと、ことを為す。
「結婚とお前とのことは別だ。グレイシアとお前は全然、別の次元のことだ。って、な。これで何度目になる?」
百回は言ったかな。そう言って笑う。
雨音が激しく、男の言葉は、抱き寄せる近さで囁かれるような、罪人の耳にしか届かない。ハンドルを握る軍曹もその隣の少尉も、背後の気配を感じているだろうにぴくりとも首を動かさない。彼らは彼らの上官の凄みを知っていた。
「お前を愛してる」
言葉に重なって、雷鳴。一瞬世界が白く浮かび上がる。眼鏡の奥の、男の目の、光は雷光よりも強く、鋭く、そして激しかった。
「俺の愛情は一グラムだって減ってないんだぜ、ロイ」
男の手が罪人の手首に触れた。カシャンと、固い金属音。鍵は外されていた。レインコートを掛けられたあの時に。最初から、それは憲兵が使う本物ではなかった。鍵穴はあったがフェイクで、レバーを押せば外れる、オモチャのような簡易手錠。
でも、見かけは、本物にそっくりで。
男はそれを、最初から用意していた。
いつから、男の手元に用意されていたのか。最初から?
男は罪人を真剣に捜索していた。
「お前は一度も信じなかったけどな」
最初から、逃がしてやるために。
「証明、してやる。……今から」
雷鳴の隙間、闇に紛れて、男が罪人に顔を寄せる。驚愕に目を見開いて、殆ど呆然としていた罪人の、抵抗は遅れた。唇が重なった後で押し返しようとしても、捉えられた顎を強い指先で掴まれてしまえば動けない。噛み締めることも出来ずに侵略を、許してしまう。
何年かぶりのくちづけ。
絡み合う舌の濡れた音は雷鳴にかきけされた。
そして、轟音。
今度は雷でなくて。
「襲撃です。十四時の方向!」
数台にわたっていた車列が乱れる。先頭のジープは砲撃を受けてボンネットから白煙を吹いていた。人影がわらわらと飛び出して、しばらくしてからボンッ、と、ボンネットが膨れて火を吐く。闇夜に油性の焔が赤く、雨を拒んで禍々しく立ち上がる。
「護送車輌は狙撃を避けてわき道に入れ。それ以外は迎撃」
まるで決まりきった訓練の台本を読むように、眼鏡の中佐は、そう言って腰のホルスターから銃を引き抜く。安全装置を外すカチリという音が、雨音を圧して車内に重く響く。
「……ロイ」
レインコートの上から、本当はもう、自由になっている罪人の手首を押さえて。
「走れるな?」
尋ねるその目は、多分いちばん、真摯で優しかった。