S・Sex・Nine
それは、勝ったという形だったかもしれない。
わたしが本当に、ちゃんとした女性だったなら。
大総統府に鳴り響く非常ベルの音。けたたましいそれに急かされるように、歩みを速めて寝室へ向かった。後ろから男がついて来ていた。最上階の廊下を曲がるなり、
「待って、エド落ち着いてよ」
「離せ」
「出て行ったにしろ、そうじゃないにしろ、大騒ぎになったら困るのはあんたでしょ。待ちなさいってば」
追いすがる女の子を、男が乱暴に払って歩き出そうとしている。少女に見覚えがあったせいで、わたしはそこで、声をかけることを躊躇った。昔の私を知っていた人間と会うことに、少し臆病になっていた。連中はみな、わたしを奇異な目で見たから。
立ち尽くすわたしの背中にが、そっとまるで、支えるように触れる。違う、仲睦まじい若夫婦の痴話喧嘩に傷ついているんじゃない。ただ、もしかしてわたしは、闖入者なのじゃないかと思えて。
「……、ロイ……ッ」
声を掛けていいものか、そもそもここに、わたしは居ていいんだろうか。そんなことを思いながら動けないで居たわたしに気付いた、エドワードが。
「ロイ、ロ……ッ」
向き合っていた女の子を押しのけて駆けてくる。真っ直ぐに。怒っているというよりも泣き出しそうに顔が歪んでいて、あぁ。
その表情には、見覚えがあった。五年前、十五歳になる直前のこの子に、同じ顔をさせてしまったことが、あった。
胸をつかれて動けないでいるうちにとらえられる。逃げようとも、ふりほどくこともしなかった。でも抱き返せなかったのは廊下の向うから、わたしを眺める女性からの視線が痛かったからだ。
たとえばわたしがちゃんとした女性で、この子をきちんと愛する権利があったら、これは勝ったという場面かもしれない。わたしを抱き締めた男はそのまま、わたしの胸の中に崩れた。つられて床に膝をつくと、なんだか様子がおかしい。
「エドワード?」
名前を呼ぶ。二の腕をぎゅっと掴まれているせいで顔がよく見えない。ヒュウッと空気が鳴る。この子の喉の奥で。
「エドワードッ」
「……どいてッ」
異変に気付いた女の子が駆け寄って、襟元を開いて応急処置を施す。喘息の発作だと言われるまで、わたしは何が起こっているかわからなかった。どいてともう一度、告げられて離れようとするが、
「……、メ、……、だ……」
離れるな、という風に左手に縋られる。処置の邪魔にならないよう、体は離してその手をぎゅっと握りしめてやった。指が絡む。繋いだ手の甲に頬擦りするような仕草をされて。
「……エド……」
可愛い。でもいたたまれない。手の甲への愛撫は全面降伏の求愛。それを目の前でされる『妻』の顔色が白さを増していく。
やがて医師がかけつけ、気管拡張のための注射を打つ。喉が鳴って苦しそうな音はゆっくりと収まってきた。様子が安定したのを見て、ハボックがそっと、エドワードの体を抱いて寝室に運び込む。ドアはわたしが開け、ベッドの毛布も、わたしが捲った。
「じゃあ、行くわ」
その様子を見ていた女性が言うのに、
「……ここに居ていただけ」
直接は言えず、ハボックに向けて卑怯に指示を出す。
「急病で倒れたのは奥方だ。エドワードは、それに付き添っている。いいな?」
最後の確認は医師に向けた。権力者の治療に慣れた一種の奥医師は、唯々諾々のイエスと返事を寄越す。進駐軍の総帥が神経性の発作を起こした、なんて知れ渡るのは、まずい。
大きな枕を幾つも重ねて仰向けの、いわゆる起座位の姿勢をとらせる。薬の効果か、うとうとしているエドワードはされるがままで、最後に毛布を肩まで引き上げてやったとき。
「……、くな……」
細く呟く。寝言のような小さな声で、わたしに、行くな、と。
行かないよ。
そんなつもりで、隣に滑り込んだ。『妻』の目の前で。
寄り添うと、そっと抱き寄せられて、目を閉じてその掌の、暖かさを頭に感じながら、いっそ。 このままもう、目覚めなければいいのにと、思った。
やがて日暮れ時に、金髪の権力者は目を覚ます。
「大丈夫かい?」
問いかけに答えもせず、わたしの懐に懐いてくるのはとても可愛い。何日も放置された飼い犬がようやく会えた主人の膝から離れないように、わたしに一途に懐いてくるのは、本当に可愛いけど。
「もうこんなことを、してはいけないよ」
「俺のこと信じてないの?」
胸元から見上げてくる視線が痛い。
「俺の女は、あんた一人だけだよ」
うん、まぁ、それはいいんだが。
「よくねーよ。信じてねーの?あいつは俺のじゃないってば。俺が愛してんのあんただけだから」
そう、か。でも、彼女は君のことを好きだよ。
わたしは平気だから。君の愛人でも、寝室でベッドを温めるだけの役目でも。
「……なに言ってんの?」
だからもう、嘘はつかないでくれ。
「嘘?あんたに、俺が?」
君を責めるつもりはないよ。わたしは君に大きな罪を犯しているから。償うためなら君になんでもする。セックスの相手も、戦場で楯になることも。
「ちょっと、待てよ。あんたいまナンてった?」
だから、頼むから、もう嘘はつかないでくれ。
君のそれはいつも、甘すぎて信じたくなるから、苦しい。