ひーちゃんと小島のあにさん

 

 

小島鹿之介氏の略歴……天保元年(1829)〜明治33年(1900)。生年には異説ありますが、『小島資料館』公式資料にのっとって天保元年説をとっております。尚、旧暦を西暦に直すと日付によって年が変わるので、ちと難しいのです。ま・ひーちゃんより56歳年上、それだけで貪食細胞的にはジューブン、です。

ひーちゃんの義兄・佐藤彦五郎(以下彦ちゃん)より一つ二つ年下、近藤さんより45年上、です。武蔵国小野路村寄場(34ヶ村)名主。天然理心流門人。土方歳三の叔母・考の娘婿。(要するにひーちゃんの従兄弟のお婿さん)(ひーちゃんちの血統の女の子はほんとにいいトコに嫁いでいる。美人だったんでしょう)

近藤勇、佐藤彦五郎と義兄弟。息子は『両雄逸事』『慎斎私言』を著した小島守政。近藤 勇、土方歳三の顕彰活動に奔走し、『両雄士伝』を著す。写真は彦ちゃんとなんかよく似ています。隣接宿場の名主ですから、代々の婚姻関係があったのでしょう。目元の涼しい頬の引き締まった男前です。後年は自由民権運動活動家(当時としては反薩長活動の要素あり)になりマス。

 

 

生まれた時にはもうお父さんは亡くなっていた寂しいひーちゃんです。が、神様はその代わり、優しいおにーちゃんをたくさんくれました。実兄は、23才年上の長兄(盲目の趣味人)、家督を継いだ次兄、医家に養子にいったその下の兄。そして義兄はおなじみ・猫かわいがりしてくれた彦ちゃんの他に、近藤さんと、この鹿ちゃん、です。鹿ちゃんと彦ちゃんはともに試衛館の後援者にして多摩地方の名主、双方、自邸に試衛館の出張道場を持っていました。いわば牛込が本社である江戸試衛館・『武術指導教室・多摩支店』のオーナーたちです。師匠が月に二三度、本店から通ってきて門弟を集め指導して月謝を貰っていく、その教室の大家さん、否、提供者ですから、近藤勇という若い剣客の『贔屓の旦那衆』ともいえるかもしれません。

二人の道場には沖田も近藤さんも、山南さんも永倉新八も稽古をつけに来ていました。馴染みでした。沖田は小島さんちの道場ではしかにかかってて倒れてしまい(文久二年・1862年七月。京都へのぼる八ヶ月ほど前)、牛込の道場まで送ってもらったこともあります。その時の日記に鹿ちゃんは、『沖田君は将来絶対、超一流有名イケイケな剣客になるよ、才能あるもん。心配だなぁ、早く治るといいな』なんて書き残しています。試衛館一同が京都に行く前には、近藤さんとひーちゃんが来て鎖帷子と刀『借りて』行ったかと思えば、翌日には沖田と山南が連れ立ってやって来てます。多分挨拶のため、そしてお餞別くれるだろうという下心で。江戸試衛館師範代・食客一同、多摩の後援者たちにはお世話になっていたわけです。

 

さて、いい歳になって婿養子にも行かず奉公もしないひーちゃんを、彦ちゃん・鹿ちゃんの二人はだいぶ心配していたと思われます。きっと、「いいじゃないか彦さん。近藤に鍛えてもらって、いざとなったら天然理心流分派たてさせて、俺とあんたんとこの道場の面倒みさせれば」「そだなー、いざとなったらなー。でもなー」なんて話していたことでしょう。

 そんな小島鹿之助に、土方歳三は28才の春、年賀状を出しています。まだ多摩の一青年だった立場で出した、最後の年賀状です。

 

 

(尋常な新年の挨拶の後で)『尚々申上候。両三日前ニ江戸表より申参しニ、文武両様ノものニ候ハゝ、百五拾石より弍百石まて、壱通りにてハ五拾石つつ被下候趣申来り、如何候哉。若思召有之ニ御人も御座候ハゝ被仰聞被下候。(あのね、二三日前に江戸からそーゆー話が伝わってきたんだけど、文武両道の者なら150両〜200両、そこそこでも50両くれて、幕府が浪士募集してるってホント?小島のあにさん、詳しいこと知ってる?)(名主のもとへは代官からの通達文書が届くので、あてにしたのでしょう)

一 日野井上源三郎江、諸公より御上洛御供として三拾俵弐人扶持つつ被下候。御帰城之後、御高ハ被仰下申可候由、御壱人口となり先は為御年玉奉申上候。以上。(源さんの話じゃ将軍警護で京都に行って、江戸に帰ってきたら302人扶持の(薄給ですが)御家人か諸侯の家臣にとりたてられるって。給料は帰ってきてから通知されるって。ホントかなぁ、本当だといいなぁ。本当だったらこの話、お年玉になるね!)(この部分の解釈は異説あり)

小野路 小島鹿之助様 己下

石田 土方歳三』

 

 浪士募集の風聞を耳にして50両の支度金の噂に胸をときめかせつつ、将軍警護で京都へ行って将軍とともに江戸へ帰ってきたら、八王子同心・臨時雇用枠、みたいなものに採用してもらえるんじゃ、とドキドキ期待している土方・まだ一介の青年・歳三でした。このアンチャンが1年後には月給40両の会津藩お預かり新撰組副長、7年後には旗本として陸軍奉行並にまでのし上がるのですから動乱の歴史はおそろしぅございます。

 

 さてその小島さんちに、同じ年の11月、京都で新撰組の基礎を固めたひーちゃんは『もてて困ってまーす♪』のお手紙をおくります。さらに翌年の元治元年九月二十一日、この頃、近藤さんは隊士募集と江戸城登城のため江戸に帰っていて、ひーちゃんが局長代理を務めていたのですが、その頃、またしてもはおちゃめな手紙を送っています。

 

『(前略)一 京師形勢可申、いさひ近藤氏奉申上候。乍末章、御一同皆々様江宜敷被仰上被下候。「京都のことは、詳しくは近藤さんから聞いて下さい。(←面倒なことから逃げるトシちゃんであった)みなさんに、どうぞよろしくお伝えください」猶貴兄ニ入もの無之候間、婦人恋冊さし上候間、御一見被遊被下候。「小島のあにさんの気に入るお土産なんかないかなー、って考えましたが思いつかなくって、とりあえずボクがもらったラブレターをお送りします。みんなで廻し読みしてね。トシちゃんより(後略) 』

 

 この、ひーちゃんイワク『婦人恋冊』、マジ本当に送ったようです。この手紙とは別に小島家に伝わる話として(古記録『両雄逸事』より)「石田のトシが京都から小包送ってきた。なんだろうと思ってあけたら、「娼妓艶書」が入ってた。あのヤロウめ、と、みんなで大笑いした、というのがあるからです。

 

 そうして、これは後年、甲州征伐の途中ですが故郷に立ち寄ったときの話として日野に残っている伝承です。幼馴染のダチを尋ねましたが留守、帰ろうとしたひーちゃんにそのおうちのばばさまが、「ぼたもち作ってるから食べていきなさい」と言います。いや、急いでるので、と、一旦は断ったひーちゃん。しかしおばばさまに、「ぼたもちの出来る間も待ちきらんで戦にゃ勝たれんばい」(博多弁ではなかったでしょうが、私には多摩言葉が分かりません)と決め付けられ、仕方なく待ち、出来上がったばたもちをはぐはぐ、食べていった、といいます。

 伝承ですがその伝承のある家に、ひーちゃんが残していった遺品が伝えられています。立ち寄ったことまでは確かな訳です。そーするとぼたもちはぐはぐの新撰組副長にも真実味が出てきます。ひーちゃんの手紙を読んでいると、

 

 『鬼副長』は後世の創作で、土方は優しい男だった。増長し、幹部・隊士からの支持を失った近藤と隊士の間を誠意と諫言(と顔のよさ)で必死に繋いでいた。

 

 という説をつい、採りたくなってしまう史実ひーちゃんの横顔です。