なんだか続きますが、本日のお題は『若先生・近藤さんのため息』です。
ちなみに沖田君はこの頃、13〜14歳。近藤さんの道場の内弟子としてめきめき腕を上げています。
トシちゃんは一旦入門していたという説もあり、まだだったという話もあります。呉服屋に二度目の奉公のために修行を中断したのか、それとも正式入門の前に何度か稽古に来たのかもしれません。
近藤さんはまだ家督をついでおらず、若先生の時期です。結婚もまだしていません。さて1858年4月、24歳の近藤さんは生家のおにーちゃんに、こんなお手紙を書きます。
『さて先頃、総司をもって分家へ金談の無心申し入れしところ、折悪しく御用立にも相ならず、酷く迷惑仕り候。余儀なく少々づつ、所々ニおいて融通は罷りあり候ところ、さて旧年来引き連れ暮れ、太物入り等相かさみ、甚だ難渋の場合、かつ此の度の金子はまた格別の事ゆえ、併せて只今迄親類ども等の世話に相なり候事は更に覚えこれ無く、今度始めて無心仕り候ところ相断りに相なり、もはや親類どもは当てにいたし候心得更に御座無く候。』
内弟子だった沖田君は近藤さんの借金申し込みの手紙を持たされ、近藤さんちの信施縁者を訪ねさせられたようです。が、結局、誰も貸してくれなくて、「俺だって一生懸命やってんのに、今まで一人で頑張ってきたのに、こんど必要な金は特別なのに。もう分家なんか信じないー!」
と、ヒスを起こしています。『此の度の金子はまた格別の事ゆえ』というのがよく分かりません。正式に家督を相続するために必要だったのでしょうか。幕府の剣道場の師範に採用されるべく頑張っていた運動資金かもしれません。結局採用は候補にはなったものの不採用、そのショックでしょんぼりな近藤さんをかんなで励まして、気分を帰るべく京都へのぼったという説さえあるほどです。
近藤さんの正式襲名は三年後、スポンサーたちが集まって試衛場英続講という後援会を作って(ひーちゃんの義兄・佐藤彦五郎さんは肝入りの一人)、お披露目試合なんかも派手にやりました。
『右に付き着類差し遣し候間、金拾両拝借仕りたく、もっとも拾両には品物不足に御座候や、いずれとも慮に任せ、しかるべき様願い奉り候。いずれ二十四、五日の内には総司郎差し遣し候間、それ迄の内に御用立の程、ひたすら相願い奉り候。貴顔を得、万々御はなし申し上ぐべし』
「そういう訳だから、着物をカタに入れるから10両貸してください。着物の価値が10両に足りないと思うけど、お願いします。近いうちに沖田をも一回お使いに出します。それまでに用意しといてください。よろしくです。近藤勇」
かわいそうなのは借金を申し込む方か、はたまた申し込まれる方か。
ちなみに近藤さんの襲名試合は1861年の秋、紅白の軍に別れてやりあいました。近藤さん自身は本陣で見届け役、沖田君も近藤さん本陣の一員だったので試合には不参加です。白組の大将はおなじみ、ひーちゃんの従兄弟で義兄の佐藤彦五郎。赤組は萩原糺。一対一の末、大将同士の一騎打ちとなり、彦五郎(1827年生まれ)氏が勝って白の勝利となりました。我らのひーちゃんは赤組の旗本として参加、でも大活躍したのは同じ赤組の山南敬介です。
ひーちゃんも一応(?)剣技披露なんかしています。正式入門からはまだ二年半くらいなのに不思議です。腕がよかったから説もありますが、私はスポンサーだった彦五郎氏への配慮と思っています。ちなみに、下記でひーちゃんが「ボク京都でももててます」と報告した小島鹿之助(1830年生まれ)(小野路村の名主)は体調が思わしくなく湯治中でした。
さて襲名披露の試合も終わって、紅白両組、70名余で府中宿の遊郭に繰り込み、どんちゃん騒ぎをしたらしいです。昨日の手紙の中の『府中宿での楽しかったこと』は、そのどんちゃん騒ぎかもしれません。きっと彦五郎さんあたりがたかられたのでしょう。その彦五郎さん、後日、小島鹿之助から、『ナニやってんだヨッ』と呆れられています。たかられた上に名主仲間に怒られて、こっちもお気の毒です。