ひーちゃんと山南さんの確執

 

 

 本日のタイトルもちと重ぅございます。しかしながら、これは外せないことでございましょう。山南さんという方はその素性が現在に至るもよく分かっていません。仙台藩浪人といわれているのですが、これだけ名を馳せて尚、親戚縁者の名乗りがないのが不思議です。ひーちゃんなんかは、兄貴たちに甥っ子たち(たくさん居る)、加えて親戚筋の沢山の人が思い出を書き残しています。

近藤さんだってその仲間の一人としてたくさん手紙をやり取りしています。ひーちゃんの親戚の一人が後年、『勇さんの首探してくる!』と、まだ逆賊扱いをされていた頃だというのに、ネット検索どころか電話もない時代に、『首級探して三千里』関係者を尋ねるたびに出ています。愛されています。

多摩地方は、確か昔は神奈川県だったけど、自由民権運動が激しすぎて、『こっちじゃもー面倒みきれねーよ、引き取れ!』と、東京都へ移管された、というようなことが先日、送ってもらった資料の中にもありました。当時の自由民権運動といったら、「薩長藩閥なんかクソクラエッ!(失礼)」という運動の側面がございまして、中でも、小島の鹿ちゃんが頑張っている様子には、「俺のカワイイ義弟たち(近藤さんとひーちゃん)逆賊にしやがって!」という怒りがほの見えます。

そんな二人に比べると山南さんには孤独の影があります。これは同じく、少年期ともいえないような幼児期に、試衛館に内弟子として入った沖田の寂しさにも一脈、通じます。沖田はまぁひーちゃんよりずいぶん年下、そして周作→勇→沖田という試衛館嫡流、『牛込本社・次期社長』の流れにあると推測されますから、せいぜい『多摩支社・支社長』どまりのひーちゃんにそれほど深刻な嫉妬はなかったかもしれません。史実の沖田さんそーとー気が荒いから、ストレス内面に募るタイプでもないし。

実際、近藤さんは長州征伐で小倉まで来た時、日野の彦ちゃんに向って、『俺にもしナンかあったら天然理心流の宗家を沖田に継がせたいと思うんだけど、彦五郎さん賛成してくれるよな?』という手紙を出しています

しかし山南さんにとってひーちゃんが「目障り」だったのは確かでしょう。歳も近いし、同じく師範代といっても腕は明らかに山南さんの方が勝っているのに、ひーちゃんは『流儀後援者の縁者』として厚遇されています。多摩出張所へ出稼ぎに行っても、ひーちゃんにとっては義兄の家だったり従姉妹の婿さんだったり祖母の実家だったりして、のびのび・わがまま、『ちょっと座敷で寝かせてくれよ』『おおー、俊、(甥っ子)一緒に風呂はいるか?』『橋本のおばちゃーん、沢庵出してー、茶漬けたべさしてー。俺おばさんの沢庵が一番すきー』なんて言って、可愛がられているのですから。

 

近藤さんが四代目を継いだ時の試合で大活躍、赤の大将・佐藤彦五郎を討ち取る手柄をたてていますから、けっこう長い付き合いだったことは確かです。彦ちゃんちにも、鹿ちゃんちにも、道場の師範代として出張しています。沖田とは本当に仲良しです。京へ上がる前に一緒に鹿ちゃんちに遊びに行き、一泊して(多分お餞別をもらって)帰ってきたりしています。

上洛当時は、明らかにひーちゃんより上の、近藤派閥ナンバーツーでした。歳も近藤さんより一つ上、ひーちゃんより二つ三つ上、です。証拠に近藤さん・芹沢さんが揉めて喧嘩両成敗になった後、一時、浪士隊三番組の組頭をしています。(18632月初旬)(永倉新八の回想)京都で会津守護職お預かり浪士組として認められた時も序列は、

 

芹沢→近藤→新見(芹沢の腹心)→山南さん→ひーちゃん(1863315日前後の記録)

 

この年の4月に会津のお殿様に上覧試合をお目にかけたり(詳しいことは後日書きます)、井上の源さんの実兄に近藤さんが天狗になってることをひーちゃんとともに愚痴ったり(他に同席していたのは沖田・井上・斎藤)(井上松五郎日記ヨリ)しています。そんなこんなでその年の8/18、禁門の政変です。まだボスは芹沢さんです。(彼が殺害されるのは約二十日後の9/8

 子母沢寛氏の「新撰組物語」によりますとこの時、山南さんは自分に甲冑がないのをひどく怒ります。これは、篠原泰之進(伊藤カッシーの門人。油小路の戦いで生き延びた)が永倉から聞いた話とされています。篠原泰之進は長生きして史談会にも顔を出し、斎藤一のことを「密偵?ちがうよ。女にいれあげて金持って逃げたんだ!」と深く恨みかつ罵っています。永倉直筆の『浪士文久報国記事』の中では全員が甲冑をつけたことになっていますので、子母沢寛氏の「新撰組物語」の方が創作じゃないか、という説もあります。しかし、当時、甲冑(鎧兜ではなく鎖かたびら)は高価でして、どうだろう、本当に全員に渡ったのかどうか。後年、新撰組の資金が潤沢になってからは全員に支給されたようですが、この時点では『新撰組』という名前もまだつけられておらず、そんなにお金があったのかなぁ、という気もします。永倉さんが嘘をついているとかではなく、池田屋の時とかとごっちゃにしてるんじゃないかなぁ、と。
ちなみに『禁門の政変(8/18の政変)』は1963年8/18、『禁門の変(蛤御門の変・元治甲子の変)』は翌・1864年7/19、です。本人の記憶と編集者の意図がずれた可能性も指摘されています。『禁門の変』には山南さん出勤していないので、『俺にはナンで鎖かたびらがないんだよ!』とゴネたとすねると、『禁門の政変』でのことになります。

 ちなみに、伊藤カッシーと永倉は仲良しでした。斎藤一もコミで三人、正月早々、遊里に乗り込んで門限破り、「どうせ切腹になるんだからもう一日、もう一日」と流連をキメて、怒り心頭の近藤さんに呼び戻されたりしています。喧嘩売ってます。(詳しい話はまた後日。この時もひーちゃんが『永倉切腹じゃー!』という近藤さんを必死に宥めてます)

 

関係ないですがウィキペディア(Wikipedia)』に、『出隊する時、近藤や土方は甲冑に身を包んでいるのに総長である山南には甲冑が渡されず、怒ったが、松原忠司が間に入り山南をなだめたらしい。』とありますが、山南さんが総長になるのは芹沢一派を排除した後ですから、これちょっと表現がおかしいと思います。まぁ副長上席ですので、話の流れに矛盾はありませんが。(←エラソー)これももしかして、『禁門の政変』と『禁門の変』とが混じってる?

 

 ともあれ、私がこれが本当かも思うのは、有り得る話だからです。そしてこの挿話に山南さんの孤独が内在しています。まず、近藤さんの鎖かたびらについては、出所がはっきりしています。何度も出てくる小島鹿之助さんがくれたのです。乱世の中、地方自治を預かる名主・鹿ちゃんは自身の屋敷に道場作ったりして腕も磨きますが武装にも熱心です。田舎の多摩ではそういうのが手に入らなかったらしくて近藤さんに、『鎖帷子が欲しいんだ、江戸で注文して送ってくれよ、二着』と、お金を渡して頼みました。そのうちの一着を、近藤さんが京都に行くことになった時、『これもってけよ』とあげているのです。

 ひーちゃんが鎖帷子を持っていたのにもバッチリ証拠があります。上洛間もない18633/26、近藤さんは郷里に向けて長い手紙を書きます。あて先は17人も列挙してあって、それが『多摩後援会ご一同様へ』の公式報告だったことを示しています。京都に落ち着くことが決まった報告や上方情勢の後で、

 

「あのね、うちに置いてある替えの刀とね、八王子宿の谷合弥七さんがくれるって約束してた刀をね、すぐ送って欲しいんだ。あと鎖着込及び頭巾を二つも。(鹿ちゃんがくれたものでしょう。旅路には重いので家に置いていたのだと思われます)ボク頑張ってるもんで、刃こぼれしちゃって大変なのー。京都ではいろんな人たちが暗殺されてます。怖いところだよー!」

 

 と、訴えています。こう書いておけば後援会の連中からあと二三本、寄付が来るんじゃないかなー、という下心があるような、ないような。3/26前後にはまだ、本格的な戦闘も力士との喧嘩沙汰も起きていないのですが。その同じ書簡の中で、「世話中さま」あてに、

 

『近藤勇 土方歳三 井上源三郎 山南敬介 沖田総司 永倉新八の剣術道具と竹刀稽古着袴等を早々に会津公へ名札をつけて送ってください。浪士文武場を建てたから早く欲しいの、お願いします』

 

 とも書いています。練習着や竹刀や面胴も、旅の荷物には重かったから、牛込の道場に置いていたのでしょう。さて、更にその後で。

 

『佐藤彦五郎さんへ。あのさ、トシに鎖かたびら送ってやってよ。堂嶋新地浜四丁目会津蔵屋敷の鈴木宗語様名宛でよろしく!』

 

 という追伸があります。ひーちゃんが鎖帷子を持っていたかどうかはわかりませんが、持ってなくてもこう書かれたら、彦ちゃんはすぐ買って送ってくれたでしょう。自分が持っていたのを譲ってくれたかもしれません。原文はビミョーな書き方でして、近藤さんの書簡にひーちゃんの伝言を書き足した、ともとれます。

 

「       土方 歳三

一くさり着込御差出被下度候

   佐藤彦五郎様

 

ぐっと下げた『土方歳三』の文字といい、このそっけない用件の書き方といい、この一文にはひーちゃんの口調がプンプンします。(筆跡は近藤さんですが)近藤さんが鹿ちゃんにもらった着込みを取り寄せると知って、『俺も鎖着込みが欲しいよー!送ってー!』と、義兄に「おねだり」しているひーちゃんの姿がなんだか、まざまざと見える気がします。気のせいかな……。

 

 子母沢寛氏の「新撰組物語」に書かれた山南さんの怒りが事実だとすると、この憤激はちょっと悲しい。なぜなら禁門の政変で近藤さんとひーちゃんが身につけた『甲冑(鎖かたびら)』は明らかに私物です。なのに、「俺が土方より上席なのに甲冑ないってどーゆーコト?」と、彼が怒ったのならば、その怒りは的外れです。的外れだからこそ、あぁ、きっとそれまでに色々、募るものがあったんだろうな、と推察される訳です。

 近藤さんは故郷に養父と妻子を残しています。その世話を彦ちゃんが細々とみてくれています。留守宅の屋根も修理してもらいました。弟子の指導もしてくれています。お金も借りています。彦ちゃんの義弟にして従兄弟・ひーちゃんの株は近藤さんの心の中でどんどん、上がっていったことと思われます。隊内での立場も同様でしょう。

 私はもちろん、ひーちゃんの贔屓です。しかしながら山南さんには、後ろ盾や縁者を持たない寂しさがあります。永倉新八の残した記録には、山南vsひーちゃんの対立、というより、増長した近藤さんへの反感があったと書かれています。

 心の中で何がどう作用したのかは当人にか分からないことですが、ひーちゃんに比べると頼る人のない寂しさを引きずる、山南さんの影、です。われらのあまえんぼ末っ子・ひーちゃんが頼りすぎなので、影の深さは余計に顕著です。

 

寂しそうな人だな、と思います。