史実新撰組・書簡 〜若かりし頃〜
その一
さて、土方さんと近藤さんの超ラブラブは史実が証明していますが、なにせべったり一緒に居るので、なかなか二人の間の手紙は残っていません。
唯一、見たことがあるのは、24〜25歳の近藤さんが、
『今日これから、佐藤彦五郎さんちで稽古納めするんだー、お前も来いよー、みんな連れてさぁー』
というものです。
『御差し繰り御出張下されたし』(用事なんかほったらかして来いよー)
というあたりに、『お前が居ないとつまんねーよー』という近藤さんの声が聞こえます。
いわゆる日野宿、佐藤彦五郎邸(土方さんの従兄弟にしておねーちゃんの嫁ぎ先・名主のお金持ち・自邸に出張道場を作って近藤さんちの流派の後援者でもあった)にはよく、土方さん転がり込んでいたようですが、この日は年末の12/15、さすがに石田村の実家で色々手伝っていたのかな。
『まずは皆々様へしかるべき様御鶴声賜るべく候』(そっちの連中に声かけて来いよー)というのに、土方さんが石田村の若いのの中ではばをきかせていた様が浮かび上がります。
ちなみに私の卒論は『戦国武士の書簡』でした。
その時の指導教授に言われたのですが、手紙というのは愛情がないと残らないのです。
古文書として残りやすいのは先ず借金の証文、土地や商権の権利証、契約書、武士なら君主からの感状(表彰状)、免許皆伝の許認可、です。
貰っても一文にもならない『手紙』が残っているのは、貰った人が嬉しくてそれを大事にとっていたから、です。
織田信長がネネちゃんに送った、『そもじのみめ、かたちにいたるまで、十のものニ十にも見えたり。〜、そなたほどの女房、かのはげねずみ、二度ともとめがたし』(久しぶりに会ったら倍も美人になっててびっくりしたよ)(かの信長にして女には舌をつかう)が、450年近くを経て読めるのは、貰ったネネちゃんが嬉しかったからです。
あの有名な武田信玄の、『俺は源三郎とは寝ていない、無実だ!』というのも、高坂弾正が大事にとっておいたから。
で、私がナニを言いたいのかと申しますと、まぁつまり、ナニでございます。ちゃんちゃん♪
その二
『近藤さんから土方さんへの手紙』が好評だったので、調子に乗って第二弾を。
これも史実上有名な、土方さんが故郷の親戚に宛てたお手紙です。
手紙の日付は1863年11月、ひーちゃんは28歳。同年2月に清河八郎に率いられて京へ上り、二ヶ月前芹沢鴨の一派を粛清して新撰組の実権を握ったばかりの頃、故郷から親戚の若者がひーちゃんを頼って京に出てきました。若美のらしく都会にあこがれて、上京して職探ししようとしたのです。
が、その若者が一人息子だと知っていたひーちゃんは、手紙を持たせて故郷へ送り返したようです。
『とりあえず本人帰すからそこらへんよろしく。ご無沙汰しててすいません。こっちはまぁ、なんとか上手くやってます。色々あったけど、俺にはなにをどう書いたらいいのかよく分からなくて、それでご無沙汰になりました。すいません』
(久々御無音に罷り過ぎ、何とも恐れ入り候えども、小子の筆にては京師形勢申し上げかね候間、承りたき折ながら、これ御無音申し上げ候。御推察の上御許し下さるべく候)
『無音』(ご無沙汰)を二度繰り返しているあたり、相手に遠慮しぃしぃ手紙を書いている姿が浮かびます。
ちなみにこの手紙の相手、小島鹿之助氏に、ひーちゃんは日野を発つ前、刀を借り(るという口実で強請り)ています。
さてここからが史上有名な一説。
『追伸・京で(も?)女に騒がれて困ってます。色町でももてて大変です。『報国のこころを忘るる婦人かな』なんちゃって、トシゾー間違いました。『朝夕に民安かれといのる身の こころにかかる沖津しらなみ』えへへ。今上陛下のお作を借りてみました。(←ちなみに間違ってます。)「尚々、拙義ども報国有志と目がけ、婦人慕い候事、筆紙に尽し難し。まず島原にては〜馴染みの名を列挙〜北の新地にては沢山にて筆にては尽くし難し、まずは申し入れ候。報国のこころを忘るる婦人かな 歳三いかがわしき読み違い今上皇帝朝夕に民安かれといのる身の こころにかかる沖津しらなみ一 天下の英雄御座候わば、早々御登らせ下さるべく候。以上小嶋鹿之助様 」
ばかな子ほど可愛いのかもしれません。
その三
土方さんのモテモテ自慢の手紙の後は、これしかないでしょう。タイトルは『近藤さんのため息』です。本文を先に。
「さて、先年府中宿おいて御同様はじめ、楼に登り、妄戯仕る事時々思い出し申し候。ついては、当節婦人と戯れ候事いささかもこれ無し。局中しきりに男色流行仕り候。なお帰府の上、申し上げたし。」
あて先は故郷の門人にして縁者、中島次郎兵衛です。日付は1864年の五月、土方さんのモテ自慢から半年後、です。
「あんたらと府中宿の色町でバカやってたこと、時々思い出してるよ。楽しかったなぁ。最近は隊内でホモ流行っちゃって、なかなか俺に付き合ってくれないんだ」(超意訳)
府中宿とは東海道ぞいの宿場町(現在の静岡県富士市柚木あたり)の方ではなく、甲州街道の府中宿(現在の東京都府中市)と思われます。
前年の二月、近藤さんたちが清川八郎に率いられて京へ来たのは中山(中仙)道ですから、静岡の宿場の楼に登ったはずはないからです。
天然理心流と縁の深い八王子宿の次が、ひーちゃんの従兄弟が名主をしている日野宿、番場宿、新宿、ときて次が府中です。
八王子の遊郭に近藤さん通ってた時期があったそうですが、府中にも繰り出していたのですね。
まぁ当時の若い衆、素人に手をつけない限り(土方さんは手をつけ義兄と姉に叱られたことあり)、女を抱くには遊郭に行くしかありません。また、宿場の遊郭は幕府公認の施設で、江戸府内の岡場所とはかなり色合いがちがいます。宴会場・社交場としての性格がある『繁華街』だったため、商談・その他がここで行われることもありました。上記、『府中宿の色町でバカやった』のは、近藤さんが流儀を継承したお披露目試合のことと思われます。
七十人を越える人数で乗り込んで、ハメを外したどんちゃん騒ぎを繰り広げたそうです。
そうして男色は義兄弟と並んで武家の古風ですが、この頃は割と珍しかったのでは。
隊内で男色が流行った理由は女を買う金がなかったから、とは、ちょっと思えないです。
この時期の平隊士の給与は月に十両。当時は1両2分あれば、親子5人が楽に暮らせたといいます。
現在の貨幣価値に無理やり押し込めば30〜70万といったところでしょう。幕末には物価高騰し、貨幣価値はだいぶ混乱していくのですが。
下女は年収2〜3両、腕のいい大工さんで月給3〜4両。隊が食住つきだったこみとを思えば独身者には不自由ない額です。遊所の妓も買えます。
ちなみに近藤さんの月給は50両、ひーちゃんは40両、沖田君や山崎君たちは30両です。税金ドロボーです。