反省したのか慕わしかったのか・土方さんの武田街道における現場中継
禁門の政変後、多忙にとり紛れ連絡をとらないでいるうちに故郷では戦死の噂が流れ、義兄や親類から買い切りの早飛脚で、『無事ならさっさと一筆よこせー!』と怒られてしまった近藤さんとひーちゃん。その後、ひーちゃんが釈明と謝罪をした記録はありません。が、「あれは悪かったナァ」と思ったらしき痕跡があります。手紙が残っています。
時は元治元年7月2日、宛先は義兄の佐藤の彦ちゃんち。これより八日ほど前、真撰組は長州藩兵の上洛に備えて竹田街道に出陣しています。禁門の変(蛤御門の変)を二週間後に控え、緊張の高まる洛中、使命に燃える土方のトシちゃんです。
その武田街道の陣地から、ひーちゃんは彦さんにお手紙を書いています。もしかしたら明日は戦争、そして討ち死に、遺書になるかもしれない、というお手紙です。「ヒトツ・クサリキコミオサシダシクダサレタクソウロウ」の一筆だけで高価な鎖帷子をねだったひーちゃんにしては、珍しく長く丁寧な手紙です。
『どうも、トシです。近況をお知らせします。6月22日には、長州藩兵は伏見まで攻めてきてます。大将は福原越後です。それからだんだん増えて、今では2000人ぐらいになりました。
敵の陣地は山崎と天王山の間に1ヶ所、本陣は嵯峨天龍寺と亀山の間にあります。ナンか赤と白の旗を揚げてどんどん活気づいています。やる気みたいです。
ボクの新選組と会津の藩兵は、京都の竹田街道東九条(九条河原)と言う所に出陣しました。そのうち戦争になるのはマチガイなさそうです。要地はボクたちが警備を固めています。書いておきます。
〜幕府軍の布陣図〜こんな感じです』
ここまではまぁ、甘えん坊ひーちゃんにしてはまともなお手紙です。戦陣の緊張がそうさせたでしょうか。しかし、それも最後まではもちませんでした。
『暑中お見舞いを出そうと思っていました。ちゃんと思ってたんですが、戦争はじまっちゃったので出せませんでした。ごめんなさい。親戚にもみんなにも、くれぐれもよろしくお伝えください。』
結局は筆不精を、毎回謝っているひーちゃんです。この年の旧暦7月2日は現在でいえば8月の頭になります。間近に迫る長州藩との決戦を前に緊張を高めつつ、それでも親類縁者への不義理が気になる新撰組の鬼(?)副長です。このアンチャン、本当に鬼の副長やっていけたのかな。『あんな優しい男が』とひーちゃんの活躍を聞いた多摩の皆様と同じキモチを抱く、余計なお世話の林凪です。
『御所からそのうち命令が下る(宣旨が出て官軍に認定される)事になっているので、こっちの隊士たちはとっても喜んでいます。戦争が始まって終わって、命があったら、続きも詳しく伝えます。それでは。
7月2日 東九条の陣所より 土方義豊 佐藤兄さんへ』
最後が泣かせるひーちゃんのお手紙です。命があったら、もそうですが、天皇に象徴される正義はこっちにあると喜び勇んで気焔をあげていただろう、ひーちゃんを含む新撰組のみんながたまりません。
この戦いで長州は負けて、前途有望な人材が多数、命を落とします。長州出陣の火付け役とも言える真木和泉守(久留米水天宮の神官)も天王山の陣地に火をかけて爆死、桂の小五郎さんは包囲を切り抜け(……どうやって……?)但馬に潜伏します(ヤバくて長州にも帰れなかった)(帰っていたら間違いなく粛清されていたでしょう)。
さて、禁門の変の当時、桂と高杉は上洛反対派でした。
高杉なんかはこの過激派代表な男が、鉄砲玉おっさん来島を説得しようとして果たせず、この年の一月に脱藩→京都潜伏→二月に桂に発見され説得されて帰国→脱藩の罪で投獄→六月に仮出所・自宅謹慎→七月には長州が禁門の変で破れて賊軍に→八月には赦免されて外国相手に和議交渉→九月には幕府討伐軍を巡って揺れる藩政に翻弄され→十月には福岡市南区の平尾に亡命→長州藩家老の処刑を聞いて下関へ戻り→十二月には下関で挙兵、内戦状態の藩内を武力制圧して翌年の春には権力掌握に成功。
という、トンデモ一年を送ります。改めて書き出すと本当に凄い一年です。1864年の長州にだけは生まれたくないです。内ゲバの嵐です。コワイ。ちなみに高杉の挙兵当時、奇兵隊は彼に追随しませんでした。創始者でありながらお坊ちゃんらしく下への情の薄い高杉に、庶民出身の騎兵隊員らはついていけなかったのでしょう。伊藤俊輔(伊藤博文)率いる力士隊、石川小五郎率いる遊撃隊のみです。博文君はつきあいのいい男だなぁ。
奇兵隊は、隊員たちに人望があったと伝えられる(隊員の士分取立てを藩に上申したりしていた)奇兵隊三代目隊長・赤根武人(超ハンサム。桂が幕末二枚目西の横綱なら、大関はまず間違いない)が政治状況の変化で大阪へ亡命した後に、しぶしぶ、高杉に従います。この時の恨みもしくは嫉妬が、赤根武人の処刑に続いたのかもしれません。高杉と赤根は女を取り合った説もありますが、高杉は女のことでここまで狂乱はしないと思うのです。彼はゼッタイ、男尊女卑だったし。
我らのひーちゃんが自分から新撰組(と、勇さんの愛)を奪いかけた伊藤のカッシーに何をしたかを考えるとき、高杉が赤根に対して行った残虐にも同じ熱があると思います。男は自分が作った『組織』という力を奪われるのが一番、ガマンできないナマモノらしいです。
さらに言えば、高杉さんの人望のなさは相当のものだったらしく、脱藩の罪で野山獄に繋がれていた時期、誰も面会に来てくれず、「俺には人望がない……」と、さすがにしょんぼり、落ち込んでいたとか。もっともこれには仲間たちに桂さんの、「晋作ははねかえり過ぎだ。ちょっとシメたいから、みんな見舞いに行くな」令が出ていた、という話もあります。
でも人望が本当にあれば一人くらい、桂に隠れてそっと励ましの手紙くらいくれた筈です。
さて、高杉晋作という男の本当の凄みは狂人と見紛う無茶な挙兵そのものにはありません。それも相当の度胸ですがこの男の、背筋がぞわっとくるほどの真価は、「俺には人望がない……」から、狂乱の末にようやく握った長州藩の実権を桂に、ぽいっと、投げ渡したところです。クーデターに成功した後、余所に潜伏していた桂を呼び戻して政権の統率者に迎えます。君らどこまで信じあってるんだ。
ホモか?(←冗談です)
史実でいえば狂乱貴公子の名称はどこからどう見ても高杉晋作のものです。
……えーと、えーと。
(話の本筋を思い出すべく巻き戻し中)
時間に置き去りにされて錦の旗という正義は敵方に移った訳ですが、1854年の7月2日、この手紙を書いていた時のひーちゃんの正義への忠誠は、140年後の現在も曇りなく鮮やかです。
※ 参照・2006.11.27の更新記録より
本日の『私の幕末ご贔屓イロオトコ』は長州です。
桂の小五郎さんがハンサムだったことは現存する写真が証言しております。そして高杉さんがキレたアブナイお方だったことも、数々のエピソードが証明しております。
関所を破り将軍の行列を野次り師匠の遺体をまだ政治犯扱いされているときに掘りおこし取り戻した、「動けば雷電のごとく、発すれば風雨のごとし」といわれた彼は、内部クーデターで混乱する長州の政権を握るのですが、その直後、村田蔵六に書き送った手紙は泣かせます。
「ひそかにおたずね申し候。桂小(全然仮名になってないと思う)の居処は、丹波にてござ候や、但馬にてござ候や。また但馬なれば何村何兵衛の処にまかりあり候や」
藩主親子にさえ手を焼かせた幕末の歩くニトログリセリンが、潜伏中の桂さんに戻ってきて欲しくてオロオロしている様は可愛いやら情けないやら可愛いやら。歳は確か、高杉の方が七つほど年下です。実際に自身で迎えに行くつもりだったらしく、『ちょっと俺、城之崎行ってくるから!』という手紙も残っています。
でも、どうも口だけで終わったようです。我が家のうさぎイワク、『オトコが口だけなんてサイアクゥ〜!』というコメントに対する、弁護も届きました。
『
史実のあの場面での「口だけ」になっちゃった顛末は、本当に行き違いもあり(桂がひょっこり戻ってきた)、高杉自身も追われていて安穏としていられなかったこともあり、あんまりドラマチックな展開にならなかったんじゃないかな、と思ってます。久しぶりに顔を付き合わせた当人同士の心中がどれだけ盛り上がっていたのかは、さておいて。高杉さんさいあくぅぅと言えば、正妻と愛人の問題なんかもございますしね・・いい悪いとかケリがつくつかないの問題じゃなくて、なんか高杉さんご本人が途方に暮れて丸投げできる第三者を探してるような・・・かといってこの御仁に「不器用」という修飾は似合わないように思えて、ああ気まぐれなんだな身勝手天才くんなのかななどなどソッとしておこうという妄想曖昧ポジションに安置していたのですが。 その点、銀魂の高杉はよろしいですね!潔いですね!素敵です。これなら妄想ガンガンいけそうです。はりきれそうです。ありがたい。もっと桂にイライラしてくれるといいと思います。だって銀魂の高杉が「ちょっと城崎に湯治に行ってくる」なんて桂の潜伏先を目指したら、こりゃもう血か涙か生臭い白い液体かなんか流れずにはすみませんものね!銀魂では桂も美人の元芸妓なんて連れてないし。エリザベスはそばにいてくれるけど。サービスショットはヅラ入浴場面で充分ですし!うっは〜。
』
銀魂の桂さんの入浴シーンがあったらうっはー、は心から同意です。