ひーちゃんのおにーちゃんたちの戦後・板垣退助とのけっこう深い縁

 

 

 近藤さんとひーちゃん、わけても我らのひーちゃんを大変かわいがってくれた、郷里・多摩の彦ちゃん&鹿ちゃん。幕末の政変に伴い、この二人の運命も転変します。

小野道の名主であった鹿ちゃんが後に自由民権運動に魂を燃やし、義弟たちを逆賊にした薩長の明治政府に牙を立て続けた(オトコらしい!)ことは以前にも書きました。その中で板垣退助とのかかわりも出てきます。板垣退助は、「多摩は自由民権運動の東の砦だ」と言っています。西はもちろん、故郷の高知です。

板垣は後年、郷里の中学校で後援した時にもひーちゃんにわりと好意的で、「新撰組は怖かった。わけても副長の土方は怖かった。あのイロオトコが馬に乗って向こうから来ると、志士連中は、こそこそ裏路地へ入って隠れたものだ」と、述懐しています。これには鹿ちゃんとのお付き合いの中でなんとなくひーちゃんにも親しみを感じている気配が、なきにしもあらず。

貪食細胞にご来訪いただいている皆様には今更、言うまでもありませんが鹿ちゃんはひーちゃんの、従姉妹のお婿さんです。

板垣は明治も十年近くを過ぎて自由民権運動の総帥になりつつある時期、鹿ちゃんをはじめとする多摩の名士たちと交流を深めます。その過程で鹿ちゃんたちから、「ほら、これも、こっちも」と、かつて近藤さんやひーちゃんが郷里に送った山盛りの手紙を膝前に積み上げられて読まされ、「近藤・土方がわたくしと同じく尊皇の士であったことがよく分かった」と、『もう分かりましたから勘弁してください』的な音を上げてもいます。二人の顕彰碑や顕彰活動に、ずるずると引きずり込まれてもいます。政治家の付き合いは今も昔も大変です。1873年(明治6)ごろに完成した鹿ちゃんの著作・『両雄士伝』のお披露目の場にも同席していた可能性が高いのです。

彦ちゃんが元気イッパイ武闘派だったのに比べると、ややインテリかつ謹厳実直、儒者の気配が漂う鹿ちゃんです。でも小野路農兵隊を組織したりもしています。新撰組は坂本竜馬殺害の疑いをかけられ土佐勢力に目の仇にされていた時期もあるのですが、粘り腰で板垣相手に、鹿ちゃんは二人の冤を雪ぐべく頑張っています。自由党総理になって以後、明治も十数年を経てから板垣さんはちょこちょこ、多摩へ遊説に来ては鮎を食べたり懇親会をしたりしています。鹿ちゃんと兄弟同然の仲良しだった石阪昌孝(近藤さんにお金貸してあげたりもしていました)が多摩の自由民権運動の最高指導者で、1890年(明治23年)の第1回衆議院議員選挙以来、数回当選して活躍しているため、鹿ちゃんもその席には多々、同席しています。

さてこの、板垣退助。

土佐では上士、わりといい家の息子でした。本来は乾退助という名前でしたが、官軍の一翼を担い甲府出陣の将となったとき、板垣と名を改めています。先祖が武田信玄に仕えた武将・板垣信方だという伝承を持っていたからです。

既にこのへんから、板垣退助の政治力は発揮されています。戦争に関しても、戦上手だったことは周知の事実、将才という意味では正直、近藤さんとてもかないません。問題外です。実際、甲府で、ぐちゃぐちゃに負けています。板垣さんは剣の腕前もなかなか、小具足(柔術)の腕は相当だったとか。後年刺客に襲われたとき、「板垣死すとも自由は死せず!」と叫んだかどうかは不明ですが、負傷しつつ襲撃者に肘で当身をいれ突き転ばしたことは確かな事実です。

さて、この板垣さん、実は鹿ちゃんのみならず、彦ちゃんとも、ふかあぁーい縁があります。

 

 幕府の瓦解、官軍の関東進軍。官軍の中でも土佐藩勢力は坂本竜馬の仇を討つべく、新撰組への復讐心に燃えていました。新撰組に坂本竜馬暗殺の嫌疑が濃くかかったのは、分派した伊藤カッシーたちの謀略であった疑いが濃厚ですが、まぁそれは後日。

幕府の瓦解後、春日盛と変名、春日隊という農兵部隊を組織して甲陽鎮撫隊に参加し(て板垣退助にコテンパンに負け)た彦ちゃんへの探索は厳しく、『日野の彦五郎だけは逃がさぬ』と、ギリギリ歯軋りされながら行方を追いまわされます。

 捕まったら大変です、にげろー!

 それは慶応4年(1868)3月の11日前後の出来事です。この頃、ひーちゃんが何をしていたかと言うと、甲州鎮撫の敗戦の処理で、江戸を駆け回っていました。甲州鎮撫自体には幕府の息がかかっていたのですが(でなきゃ新撰組にそんな軍資金はない)恭順を選択した将軍を護るべく、あれは近藤のスタンドプレーだ逆賊はあいつ個人だと幕閣にシラを切られ、トカゲの尻尾として切り離されようとしています。永倉・原田が離反したのはこの時期です。しょんぼりしたり激昂したり不安定な近藤さんを励ましつつ、ひーちゃんたちは、再度の決起を行うべく五兵衛新田に集結しています。流山での離別、はやがて目の前、です。

 さて、『彦五郎だけは逃がさぬ』と、キアイを入れる追っ手から、彦ちゃんは逃げます。一家逃走です。幸いにして地元の支持を失っていなかったため匿ってくれる親戚・知人はたさん居ました。山寺に駆け込み、やれやれと息をつけばそこへ、「大変、官軍が追ってきてるよ!」と急報されて、さらに山奥へ逃げます。人脈を頼りつつ、おむすび齧り齧り、頑張って逃げます。しかし長男の源之助俊正さんだけは病み上がりだったためこの過酷な逃避行には同行せず、別の場所へ匿われていましたが露見、身柄を官軍に捕らえられてしまいます。

 そこで尋問。の、内容は。

 

第一 おとんの彦五郎どこに逃げた!

第ニ 彦五郎と近藤勇、土方歳三とはどういう関係だ?

第三 日野宿に大砲小銃の弾薬が隠してあるだろう、どこだ!

第四 日野宿及び附近一帯に近藤勇の弟子は何人ぐらい居る?そのうち、鉄砲を撃てるのは何人?

 

 ひーちゃんには甥っ子にあたる源之助ちゃんは当時、十九歳。実は日野農兵隊の隊長の一人(実質の指導者は父親の彦ちゃん)で、あまり知られていませんが浦賀奉行の下、銃砲の扱いと練兵術の指導を受けています。

鉄砲の腕前はかなりのものだったらしく、帰省した時にそれを披露されたひーちゃんが、「すげぇ。隊のみんなにも教えてやってくれよ。京都に来いよ、俊」と招き、本人は「ほんと?行ってみたい!」と喜び、彦ちゅんも「あぁ、まぁいいだろう」と了承、話はきまりかけましたがおかーさかんののぶさんから一喝、男三人の合意は一瞬で否決された、というエピソードもございます。

 その源之助ちゃん、知る限りのことは正直に答えました。「おとーさんと近藤は、小野道の鹿おじさんも混ぜて三人で、三国志の真似して義兄弟の誓いをしています」「土方はおとーさんの従兄弟でおかーさんの弟です」とか言ったのでしょう。でも、おとうさん・彦ちゃんの転々と逃走していった先は知りませんでした。

 戦争後のぴりぴりした軍隊の中、知らないですまされるはずは無く、あぁ明日はきっと殺されるんだろうなと、源之助ちゃんは辞世の歌を心の中で吟唱し覚悟をきめていた、といいます。尋問は数日、続いたようですが、そこに現れたのは官軍の土佐隊士の隊長・板垣退助です。

 

「喋ったことに嘘はないな?ならまぁ、いい。父親の行く先なんか知っていたって喋らないのが息子ってもんだ。見れば年齢も若い。許してやるから、これからは朝廷に逆らうな。親孝行しろよ」

 

 歴史は皮肉なものでして、板垣退助は上士の出身であったため、坂本竜馬とさほどの親交は無く、ために熱狂的な復讐心を持っていなかった、の『かも』しれません。坂本竜馬自身、情熱家ですが理性的な性質で、天誅騒ぎを繰り返す血腥い時代の狂気とは一線を画していました。命の助かった源之助クンは父親と再会もかない、父親の彦ちゃんもやがて親類縁者の哀訴、幕府の口利きもあって甲州鎮撫隊に属して戦った罪は不問にされ、日野宿名主として公職に復帰します。よかったね、彦ちゃん。

 この時、板垣退助が源之助ちゃんを助命・解放した行動を当然、鹿ちゃんも鹿ちゃんの友人知人・郎党も知っていました。多摩自由民権運動の板垣退助支持に、この一件は無関係ではないでしょう。

 

 歴史は皮肉ですが愛情は不滅で、『なさけはひとためならず めぐりめぐってわがみのため』を地でいく板垣退助さん・思わぬ多摩との縁、です。