みんなの戦後・その2

 

 

 戦争が終わりました。旧幕臣・幕府軍にも恩赦がくだりました。あだ討ちはもう犯罪です。秩序を守って新生日本のたるに仲良く頑張りなさい。

 

 という布告を明治政府が出したところで血が乾くまでは、生臭い臭いが漂うのは仕方がないことです。特に、新撰組の面々は長州及びその周辺に生息していた倒幕浪士らの恨みを買うことが深く、行動には注意が必要でした。

そして新撰組旧幹部・主だった面々には、もとの浪士たちより身近でかつ情念的、おそろしーぃ復讐者が居ました。旧高台院派、伊藤甲子太郎氏の一党、油小路で決戦した、あの方々です。血は水より濃く、組織というより個人、寝起きをともにして顔も声も知って居るがゆえに、情念的な復讐になります。士道のエロティシズム。

伊藤のカッシーは有名な美男子でした。文武両道で仲間に愛される色男でした。そういう人物の背中に熱烈なファンが張り付くのは、我らのひーちゃんと同様です。仮にひーちゃんがこんな殺され方をしたとしたら、新撰組の面々や日野のおにーちゃんたちが犯人にナニをするか考えれば、旧高台院派の復讐心の強さも納得できるところです。

 何でも、骨が固かったのは安部十郎。この人は腕も確かだったようですが史談会においても昔の仲間・篠原(監察・山崎や永倉と比較的仲良し。高台院派から抜けた斉藤一を資金持ち逃げして新撰組に戻ったと非難)が近藤勇銃撃事件の手柄を吹聴したことにブチ切れ、爆弾発言をしています。

意訳すれば、

「昔のことと思ってフカすんじゃねぇザケんなよテメェ。近藤を撃ったのはてめぇじゃなく薩摩脱藩の富山弥兵衛だ。しかも近藤が落馬せずに駆け抜けたとき、てめぇと加納が逃げたからあそこでヤツをヤリ損ねたんじゃねぇか」

 という感じです。証言当時、彼は65歳。それまではあまり過去を喋る男ではなかったらしく、史談会でも仲間の恥を言おうか言うまいか逡巡しつつ、黙っていられず口を切ったようです。その後、篠原とは絶交しています。

 この阿部十郎氏は戦後、ひーちゃんの最後を看取った安富才助(函館戦争時の新撰組指揮官)を暗殺した、というのがおおかたの定説になっています。安富氏は土方の戦死を遺族伝える嫋々とした長文の手紙を書き残し、それは現存しています。こっちは彦ちゃんちではなく、石田の生家にあったかと。まだ五稜郭降伏前、でも落城秒読みという中、

「土方大将はコレコレの状況で戦死されました。ご立派な最後でした。でもザンネンでたまりません。わたしは無事ですが大将が亡くなった今となってはもう何もかもおしまいです。戦死の覚悟を決めています」

という手紙を書いています。ちなみに総大将は無事なのですが安富氏の目には入っていないようです。いっそお見事です。

 

 そうして、わたくしご贔屓の斉藤一さん。会津で最後まで戦い抜き会津のお殿様に可愛がられ、お殿様の上仲人で会津藩の偉いサンの娘を嫁さんに貰い、会津藩士(転封後は斗南藩士)としての士籍を与えられ、『はじめちゃんをみんなで庇う会(座長・会津のお殿様、世話役・家老の佐川 官兵衛氏)』でも結成されてたんか、というくらい手厚い庇護を受けたこの人さえ、維新後に何度も何者か知れぬ者に襲われた、と、ご子孫に伝わっています。

 まぁそこはさすがの斉藤一、維新後は藤田五郎、西南戦争の大活躍が警視庁抜刀隊の指揮官として新聞に載った腕利き、戊辰戦争時は満で24の若さ、後年45歳に達しても尚、警視庁剣術四等級(一等なし。二等・三等は功績。実力は四頭が花形)師範であった男、剣を振らせりゃ日本一、の斉藤一さんですからなんとか切り抜けます。

 この人は一時、高台院派に身をおいていたので、その一党からの復讐感情も激烈でした。高台院派の毛内有之助(油小路で闘死)は「斎藤だけは許せない」と書き残しています。ことを考えても、襲撃者はそのあたりではないか、と推察されます。

 

 敵勢力から相手にもされない男より、「日野の彦五郎だけは逃がさぬ」とギリギリ歯を噛み締められた彦ちゃん同様、「あいつ、あいつ、アイツだけはッ」と敵に名指しを受けるのはある意味、名誉と言えないこともない仕儀です。迷惑だったでしょうが。

 

 では本日のシメは、安富さんの涙の戦死のお知らせを。

 

「急ぎでお知らせいたします。土方大将のご生家のみなさまお元気ですか。大将は江戸を脱出した後にお怪我をされましたが会津で全快、蝦夷では陸軍奉行並を務めておられました。函館での戦争でも二股口で大勝利、そりゃもうものすっごい大活躍でした」

(一筆啓上つかまつり候。雨天の節に御座候得共、揃われてご安泰、賀し奉り候。しからば土方隊長御義、江戸脱走のとき伝習第一大隊を率い野州宇都宮に戦われ、この後戦のとき手負い、会津でご養生ご全快、(中略)榎本和泉殿と誓い蝦夷に渡られ、陸軍奉行並海陸裁判を司られ後、巳の四月、瓦解のとき二股という処に出張、大勝利。)(注・なにせ官軍が、「もー二股口はイヤーッ!土方歳三コワーイッ!」と音を上げ、大遠回りの新道を作った、と伝わるほどの大勝利)

「でも五月十一日、一本木関門で討ち死にされました。ご立派な最後でした。でもザンネンでたまりません。わたしは無事ですが大将が亡くなった今となっては、もう何もかもおしまいです。戦死の覚悟を決めています」

(そのほか数度戦い、松前表街ついに利なくしてついに引き揚げ、同五月十一日函館瓦解のとき、町はずれ一本木関門にて諸兵隊を指揮遊ばされ、ついに同処にて討死せられ、誠にもって残念至極に存じ奉り候。拙者義いまだ無事、何の面目やあるべく候。今日至り候よう篭城に軍議あい定まり、いずれも討死の覚悟に御座候。)

「この手紙を持参する立川主税は、土方大将の最後を看取っています。お宅へ差し向けますので、どうぞ詳しくはこの者から聞いてください。色々差し迫っていて、汚い字でごめんなさい。どうぞお元気で。土方大将ご係累のみなさまに、なにとぞよろしくお伝え下さいませ。あぁそれにしても、土方大将がなくなって、もうボクの心は真っ暗です。うえええええぇーん」

(ついては立川主税義、終始付き添いおり候間、城内を密かに出してその御宅へ右の条々委細お物語いたし候よういたしたき存念に御座候。いずれその御宅へまかりいで候間、さようご承知くださるべく候。右は城中切迫に取り紛れ、乱筆ご容赦くださるべく候。まずはお知らせのみ、別に貴意を得、かくのごとくに御座候。恐惶謹言。
五月十二日
安富才助 正義(花押)
土方隼人様

なおもって、おりがらご自愛お厭い、かつお目に係り申さず候得共、ご総客様方へよろしくご伝言くださるべく候。 隊長討死せられければ、「早き瀬に力足らぬか下り鮎」)

 

 最後の一句、「早き瀬に力足らぬか下り鮎」はひーちゃんの作とも安富さんの句ともいわれています。鮎といえば多摩川の名産、詠み方にちょっとひーちゃんの匂いがする気もしますが。でも安富さんがそのことを思って詠んだ追悼句かもしれません。合掌。

 

 この手紙の宛先、『土方隼人』さまはひーちゃんの実兄の隼人さんではなく甥っ子の隼人クンです。ひーちゃんちの家督を継いだ次兄はひーちゃんが京都に行く前に病死して、甥っ子が幼かったため一旦、家督は盲目の長兄が預かります。三番目のおーちゃんは医家へ養子に言っているから仕方ありませんでした。さしもの豊かな土方家も当主の病や洪水による転居その他で財政危機に陥りかけたらしく、彦ちゃんが筆頭になって親戚一同から寄付を集め、よいしょと家運を立て直しています。もっともこの甥っ子も、同じく甥っ子の佐藤の源ちゃんと同様に叔父さん・ひーちゃんを慕うことはなはだしく、後年、元海軍奉行の荒井郁之助に送ったお礼状が残っています。

 

『箱館脱走軍の墓(碧血碑)の写真1枚を、相澤氏に託してわざわざ贈ってくださり、大変感謝いたしております。さっそく義豊(歳三おじさん)の碑前に供えました。天国で(歳三おじさんも)喜んでいることでしょう』

 甥ごさんの優しさにほろり、です。

 

 その碧血碑、「碧血碑は多くの戦死者がいる中、土方君に最も重きを置いており、言うなれば、土方君のために建てたと言っても差し支えない」と榎本のカマちゃんが言った話もあり、どこまで愛されれば気が済むのかモテ男め、です。

 

 ちなみに。

ひーちゃんの遺体がどこにあるかは今もって不明、しかし不明であることが、当時の事情を考えれば『みんなの愛情』です。近藤さんの遺体と首級が官軍にどんな扱いを受けたか考えると、戦場から持って帰って来た遺体は、安富くんや立川くんその他が『そーっと、そぉーっと』埋めて、『誰にも言うなよ、ゼッタイ秘密だぞ、ぜったいだ』と申し合わせた、と考えられます。多忙を極める総大将・榎本のカマちゃんも知らないうちに埋葬されたようです。

そんで、『もしかしたら』の写真を一葉、わたくしも手に入れました。あおげばとぉとしわがしのおーん♪

明治十一年の北海道の新聞記事です。画像つきですが、骸骨なのでちょっと、アップは出来ません。内容は、五稜郭の土塁の補修工事をしていたら遺体が幾つも出た、という、噂のアレです。なんせもと戦場、埋められていた遺体は一つ二つではなく、多分、今も、泉下にはお柱がお眠りのことと思います。まぁそれはともかく。

 気になるところは、『金モールのついた軍服の武士の遺体』という箇所です。土方さんはおそらく、伊庭八郎や春日さんあたりと一緒にねむねむの可能性が高そうですが、戦傷や病に伏した後ではなく戦場で即死、現場直送の遺体(……)だったのは幹部クラスではひーちゃんだけだから、です。

 

 しかし、まぁ。

 行方不明のままでいいじゃないか、と。

 140年後の我々に、ひーちゃんの遺体はよく見えませんが、当時の、リアルひーちゃんを愛した方々の、それこそ命がけのガードに阻まれて見えないのだから、それはいいことなんじゃないか、と。

 函館にまた行きたいと思いつつ、考えたりする日々です。