ひーちゃんの剣の実力

 

 

 反省。

 「演武に出たのは後援者だった義兄のコネだ」「剣で桂の相手にはならない(腕相撲ならイケルかも)」などと好き放題かいて居ましたら、嘆きのお言葉をいただいてしまいました。いや、まさかひーちゃんが弱い男だとは私も思っていません。もちろん思っていません。

ただ、伊庭八郎・桂小五郎・坂本竜馬・永倉新八・斎藤一(個人的にご贔屓)、伊藤のカッシー、男谷精一郎、あたりと比べるとそのぉ、というだけです。第一ほら、将は孤剣に頼らずと言ってありますし。

ちなみに高杉晋作も剣術は一応ひととーりやったけどあんまり上達しなかったそうです。でも彼は奇兵隊を組織し、維新最強の剛腕となります。きっと剣術の練習が嫌いだったんでしょう。彼が江戸へ出てきた1858年、長州藩士が通った練兵館の塾頭は桂です。生家も近所で松蔭の弟分だった桂は懇切丁寧に特別扱い、手をとって教えたそうですが、高杉は悪い弟子だったようです。

ひーちゃんの場合、名前自体が研ぎ上げた刃のような凄みを持つ超一流剣客ではありませんでしたが、多分高杉よりは強かったと思われます。試合すれば勝ちます。でも口喧嘩では確実にま……。(ごほごほ)

 

 とりあえず、ひーちゃんの腕前について同時代人たちの証言を!

 

     武術英名録に名前が載っている!

万延元年(1860)真田範之介が編んだ、江戸を除く関東八カ国と甲斐の一部の剣術武芸者一覧です。約600人が載っています。「天然理心流土方歳三」の名前が載っているのです。よかった、よかった。ちなみに佐藤彦五郎さんも載ってます。免許もち(印可・師範免許はまだ)ですから彦ちゃんの場合、載ってて不思議はありません。ただこういう本に名前を載せるにも寸志が……、彦ちゃんがひーちゃんの分も……(あっ、いつものところにオチてしまう!)。

でもあんまりヘタクソを載せると本の信憑性も問われますから、そうそうムチャをするはずも無く、多摩では通った名前だったのは確かでしょう。

 

     八木為三郎老人壬生ばなしより

『(ひーちゃんの)剣術は強いという事でした。なにしろ剣術は、誰にしろ、みんな相当以上に使ったもので、実際これは下手だという人はいなかったようです。前川方の表長屋を少し直して、ここを道場にしてしばらく稽古をしていたが、その稽古は物凄いぐらい烈しいもので、打倒れてそのまま動けなくなっている人などをよく見ました。芹沢だの近藤だのは、高いところに座って見ていました。いつ行って見ても胴をつけて、汗を流していたのは土方歳三で、隊士がやっているのを、「軽い、軽い」などと叱ってました。』

こちらは京都へ出てきた当初、1863年の春〜の頃、です。

     「隊長(近藤勇)や土方先生などは殆ど出たことはなく、沖田総司、永倉新八などという先生方が稽古をします」(慶応3年(1867)11月に入隊した池田七三郎の証言。「新撰組聞書」より)

まぁ副長としての仕事が山積みで、道場にマメに顔を出すことは出来なくなったのでしょう。

 

 

 ちなみにひーちゃんの面紐は真っ赤だったそーです。これは故郷に伝わっている話なので1863年以前のことになりますが、普通は白か黒です。紺色・茶色もありえるようですが、真っ赤なんて目立ちたがり屋は『見たことが無い』(光輪の誰かさんに憧れて剣道部に入りかつてインカレにまで出た友人・現在は小学校教師にして放課後は少年少女に剣道も指導しているヤツ・談)小学生がチームカラーで揃えていることはあるそうですが。

 現代のみならず、昔も目立っていた証拠に、140年後まで「面紐が赤かった」ことが言い伝えられています。気障なヤツー!(が、そこがいい)

 

 

剣の腕より真っ赤な面紐が、今も昔も注目されるひーちゃんでございました。チャンチャン♪