嗚呼、悲しみの流山

 

 

 さて。

 この地の悲劇、近藤さん処刑の悲哀、徳川幕府の薄情、『大樹なにゆえに連枝をなげうつ』会津の血の叫び、につきましては、他の資料でたっぷり味わってください。(←ひーちゃんの真似)

 ざっと申し上げると流山はひーちゃんと近藤さんの別れの場所です。二人が集めたばかりの配下200人を軍事訓練に出した後、手薄なところを明治政府軍に包囲されます。「出て来いー!」と威嚇する明治政府軍。「腹切るしかねぇな」と咄嗟に覚悟をキメる近藤さん。絶体絶命です。

 このとき、ひーちゃんは「腹なんか切るな、バカー!」と近藤さんを必死に止めます。バカというならこの状況で、主将と副将が一緒にいたそのラブラブっぷりがバ……。(自粛)将棋でいえば王手飛車とりどころか、王将と飛車が揃って相手の成飛車(金将が成り上がった飛車)と竜王(飛車が成り上がった駒。飛車の上下左右に加えてナナメ進路可)にツメられたようなものです。かっこわ……。(自粛)

 ともあれ、切腹は思いとどまらせたひーちゃん。『燃えよ』では近藤さん自らが賊軍となることを怖れて投降したことになっていますが、実際はガッチリ包囲され、自決か捕縛か、という選択肢しかなかったようです。最近みつかった土地の庄屋さんの書き残しによると。

 

 

「いやー、穀物仲買商の長岡七郎兵衛さんちに、大将大久保大和(近藤勇)、内藤隼人(土方歳三)の二人とそのほかが居たんだけど、嗅ぎつけてきた政府軍が大砲とか裏にも表にもしっかり配置した後で本陣を取り囲んで合戦になったワケ。幕府方は不意をつかれて負けいくさ、降参したあと大将二人は、本陣の屋敷の中に追い詰められてにっちもさっちも動けなくて、軍用金、大砲、鉄砲その他は取り上げられるし、重だっ者七八人が捕らえられるし、他の隊士は残らず退散するわでたーいへーん」

 

 

結局ご存知のごとく、近藤さんは官軍側に出頭します。この時、ひーちゃんと近藤さんは喧嘩別れした、という説もありますが、いやいや、ひーちゃんが「もて自慢」の手紙を送った小島の鹿ちゃんが書き残してくれた「両雄士伝」によれば、

 

『近藤が罪を一身に負う覚悟で出頭しようとすると、土方は俺も一緒に行くんだといってゴネた。(いい加減にしろ34歳)近藤は困って、「程嬰公孫杵臼之忠邪」を持出し、一人を犠牲として一人は生き残り志を守なければならないと強く説いた。』

 

程嬰というヒトと公孫杵臼というヒトは友達だったのですが、敵の前で裏切りあったよーな芝居をうって主君の遺児を隠したのです。これにはもしかしたら鹿ちゃんの想像が入っているかもしれません。でも実際近藤さんは全滅を避けるため、部下を庇って出頭したのだと思われます。沖田は病臥、主だった幹部数人とは決裂、江戸城の偉いサンたちには厄介者扱いされて散々の近藤さんですが、彼が最後まで剛毅で男らしかったことは確かです。

近藤さんが捕まった後の流山は大混雑。でも近藤さんが出頭したおかげで大部分の部下たちは混乱に紛れ脱出に成功します。半数は逃亡、残り半数は更なる戦地を求めて奥州を目指すのですが、その道のりは長く困難でした。当時1314歳の田村銀之助さんの回想によれば、

 

『流山で武装解除された後、一旦引き上げた官軍の隙をついて逃げました。装備は官軍が取り上げて隠しておいたのを夜になってから盗んで取り返したりしました。指揮系統は崩れて、そりゃもう大混雑でした。途中の道道で、『会津の殿様に加勢しに行くんだ』という百姓たちに多く会いました。命からがら、なんとかお城下たどり着くと、仲間もおいおい、集まってきました』

 

とのことです。さてそんな中、我らの甘えん坊ひーちゃんは何をしていたか。

 

 

@     袂を分った近藤さんの背中を見送りながら『俺はやるぜ、最後まで』と決意。(「燃えよ」のひーちゃん。凛々しくてすてきぃ〜)

A     近藤さんの犠牲をムダにするまいと新選組の生き残りの隊士達を率い、奥羽・蝦夷へと転戦。(略歴の中のひーちゃん。男らしくってすてきぃ〜)

 

事実は。

 小説より(オタクの妄想より)奇なり。

 

B 捕まった近藤さんを案ずるあまり単身(お供は二人だけ)、流山を脱出。近藤さんを追って官軍の充ち満ちる江戸へ危険を冒して乗り込む(史実)(無謀にもホドがある)。勝海舟に縋りつくが江戸明渡しの交渉で忙しい勝に相手にされないとみるや、今度は幕府御殿医・新撰組を贔屓にしてくれた松本良順のもとへ駆け込み泣きついて近藤さんの助命を希う。(脚色なし)(オイしいがメメしい……!)

 

 そうするうちに江戸に居るのが明らかにヤバくなってきて(当たり前だよ)、旧幕軍が続々と集結する市川の国府台へ。こっちにも新撰組残党が寄り集まっていました。三千に上る幕府軍を、大鳥圭介と二手に分けて率いて、宇都宮城を落としたり奪い返されたり、大鳥と喧嘩したり陸奥に惚れこまれたり足に怪我をしたりしながら最終的には、ひーちゃんも会津にたどり着きます。その間、百人ほどの旧新撰組を束ねて率いてくれていたのは斎藤一(個人的にご贔屓)でした。既に変名して山口次郎、後年は会津のお殿様に『藤田五郎』という名前をもらってそれを凄く大事にしていたといいます。会津藩士の娘・時尾さんと結婚した時の上仲人も会津のお殿様で、ずいぶん可愛がられています。

新撰組初期からの幹部、隊内で一・二を争う腕前、とはいえひーちゃんより十歳も年下、まだ二十四歳です。永倉と原田が近藤さんへの反発から離反した後も(ひーちゃんの美貌につられて)残ってた三番隊隊長ですが、この時はさすがに、『いー加減にしろよオッサン!』とくらいは思ったでしょう。私だった思います。『このマダオめ!でも(顔が好みだから)捨てられない自分にガックリだ!』(ちょっと斎藤の気持ちになってみました)(Hさまの真似)

 

 足に重傷を負っていたひーちゃんは、何ヶ月も治療のために寝込み、その間、新撰組残党は斎藤一が率います。この間、ひーちゃんは肌身離さず、近藤さんの戒名を懐に入れていたそうです。会津には土方さんが会津のお殿様にお願いして立ててもらった近藤さんの墓が現存していますが、その中に納められているのは京都の三条河原から新選組隊士が奪ってきた首であるとも、また遺髪であるとも言われています。が、会津公に近仕していた方の証言によると、ひーちゃんが懐に抱いていた近藤さんの戒名を納めたそうです。

会津のお殿様に頼まれてひーちゃんが、松本良順や桑名藩の藩主(会津のお殿様の実弟)を警護して落ち延びさせているうちに、会津が落城しちゃったり仙台が恭順したせいで会津に帰れなくなったり、あれやこれやでひーちゃんと斎藤一はお別れになってしまいます。喧嘩別れした説もありますが、ここでも喧嘩別れできる余裕はなかった様子です。斎藤が率いていた一隊は会津藩降伏後も戦闘を続け、会津のお殿様から使者が来るまで抵抗をやめませんでした。ちなみに当時、隊は全滅、斎藤一も公式にはここで『戦死』したことにされています。

 のち『藤田五郎』としての後半生は『るろ剣』に譲るとしまして、豊後口警視徴募隊に抜刀隊として参加、その時の大活躍は新聞にまで載りました。

 

 

そんなこんなです。

 オタクの想像をハルカに絶する、史実ひーちゃんの横顔でございました。チャンチャン。