どっさり届いた資料を読み終わりました。今なら『明治期のジャーナリズムと藩閥政治について』30分は余裕で語れ(る気がし)ます。

が、誰も聞きたくないでしょうし私も語りたい訳ではないのでパスします。読んだ証拠にちょろっと書いておくと、福地桜痴も福沢諭吉も反明治政権でしたが、福地の場合は明治の世にあっても佐幕系(のせいで明治最初の言論弾圧を受け、桂小五郎のとりなしでようやく釈放)、福沢は孤立系(きっと頭が良すぎたんでしょう。ちなみにこちら居合いの達人。千葉道場に何ヶ月も居候して修行したりしています)です。

福地が長崎関連・外国通の旧幕臣、特に榎本武揚に可愛がられていたのに対し、福沢は旧幕臣でありながら明治政府の顕職についた榎本や勝海舟を辛辣に批判しています。二人とも九州の片田舎出身(福沢の生まれは中津藩の大阪屋敷。育ったのは大分の中津)なんだから仲良くすればよかったのに。経歴も似すぎているので反感が強かったのでしょうか。
「新選組剣豪秘話」の作者・流泉小史は、本名・小原敏丸。昭和五年に発行した本書以外では、南海関係の出版活動に関与していました。あと当時の雑誌記事に、日本刀の試し切りに関する記事をよく載せています。戦前の文芸春秋の連載記事も書きました。

ただ、その、ナンというか……。出店が明確でないマユツバ、が多いよう、です。江戸で土方歳三が試斬会を主催したことなんかこの本以外で読んだことないです。それに沖田総司、清川八郎なんかが参加してたら、もっと有名エピソードの筈では。小塚原で処刑された罪人の首なし屍体を持ち込んで二つ胴というのを試みていますが、『沖田の和泉守祐定という江戸鍛治の新刀の切れ味は言語に絶し、爪を割るように二つ胴を両断した』……マユツバです。
 鸚鵡籠中記にも試し切りの話があるように、当時、実戦度胸をつけるため死体を斬ることは時々行われていたようですが、中堅道場の師範代が催すだろうか。それに当時はひーちゃんとは比べ物にならにない名士・清川八郎が来るでしょうか。

明治中期から武芸ブームが起こり、その関連のヨタ記事が世間に溢れる中で、自他共に認めるジャーナリズム界随一の立身流居合いの使い手・福沢は、『居合い刀は押入れの奥になおしたわい!(本当は晩年に至るまで修行を続けていた)』と、へそ曲がりらしい意地を通しています。

結論としてはやっぱり、下記のひーちゃんと伊庭八郎とのエピソードは、ガセの可能性が強そうです。いや多分そうだろうとは思っていましたが。伊庭八郎は二十歳で幕臣の子弟のうち腕利きを選りすぐった将軍護衛隊の一員に選ばれ、京都へお供してきて新撰組とはニアミスも多いのですが、当時のことを詳しく書き綴った日記にも、「新撰組に遊びに行った」記述は一つもないですから。(がっくり)
 がっくりだけではナニですので、榎本武揚とひーちゃんのエピソードを一つ。後年、明治政府の顕職についた榎本に、ひーちゃんの甥っ子が地酒を持って挨拶に来ました。榎本氏は大変に喜び(顔が似ていたのか?)その地酒を飲みながら、ひーちゃんのことを漢詩に書いています。『彼が部屋に入ってくると、室内に涼風が吹き通るようだった』(……)(涼風かぁ……)(艶然よりは、まぁ……)
榎本武揚といえばご存知、幕府脱走軍の司令官にして明治維新後、医師の松本良順(蘭医。将軍侍医。近藤・土方と仲良くて新撰組隊士の診療もしてくれた。会津まで幕府軍に同行し負傷兵の手当てを続けた)と並んでひーちゃんの熱烈な語り部です。