下記で書いていたネタの件で金曜日に、ゼミの教授まで『「新選組剣豪秘話」の作者・流泉小史ってナニモノですか?』と手紙を出していました。そしたら今日、『福地桜痴の弟子ジャーナリストだ。本名は……(ききとれませんでした)、詳しいことは資料を送ったから受け取るように』と留守録が入っていました。あおげばしとぉとしわがしのーおーん♪こんなサイトのネタになるとは思っていないんだろうなぁ、ごめんなさい。今年も就職売れ残りの学生さんがいたらほんのちょっとだけご相談にのります。
 なので、流泉小史および「新選組剣豪秘話」という文献自体の検証は明日にして、本日は『新選組剣豪秘話』に書いてあるネタを二つ書くだけにしておきます。一つは、明治の有名ジャーナリスト、福地桜痴による回想です。この人は1841年うまれ、土方より六つか七つ年下、沖田あたりとほぼ同じ歳です。長州藩剣術師範役・岸田家出身の父を持つ長崎の医家生まれ。少年時代から長崎では名の売れた語学の天才でした。同時期に長崎に留学していた榎本に可愛がられて、シーボールト再来日時の通訳も務めました。江戸へ出てきた後は小石川にあった森山栄之助の英語塾に通っています。牛込甲良屋敷地面内の試衛館とはご近所です。通訳だから剣術はしなかっただろうというとそうではなく、父方の素性もありますし、同じ英語塾に通い同じく外国使節に選ばれ、明治の御世には『双福』と呼ばれた福沢諭吉も、千葉栄次郎の道場に出入りして剣術修行したり仲間と時勢を語り合ったりしています。ちなみに最後の将軍が自ら「小姓の交代である」と味方を欺いて大阪城から逃亡した時の詳しい状況を語り残したのも、当時、幕府の外国奉行支配調役格通弁御用頭取だった福地源一郎(本名・桜痴はペンネーム)です。
 その福地桜痴イワク。『(近藤の剛直を褒め食客たちを語った後で)近藤と兄弟みたいだった土方は、ちょっと商人風のナンパな奴で、色白で、ちょっと猫背だったけど撫で肩ですらっとしてて、試衛館の仲間のなかではいい男だったよ。色男の上に愛想がよくって抜け目ない口を利いたから、キザでイヤミな奴だな、って毛嫌いする人もいた。俺も嫌いだったから、近藤の道場に遊びに行っても、伊庭八郎やら代稽古してた永倉、沖田、藤堂あたりとは仲良くしたけど、土方とはろくに口を利いたこともなかったよ』
 上記の状況証拠からすると、福地桜痴自身が試衛館に出入りしていてもおかしくはないのです。さらに後半には詳細に試衛館の間取りを語っておりますので、土方に会って「キザなヤな奴」と思ったのは本当なんじゃないのかな、という気がします。彼は文久元年12月(西暦になおすともう1862年かな?)に外国使節としてアメリカに行っています。文久3年の二月にはひーちゃんたちが京都へ旅立っていますから、親交があったとすれば1858年に17歳で江戸に出てきてから、文久元年12月に二十歳で外国に派遣されるまでの期間、です。さてこの文章で重要視すべきは『伊庭八郎』の文字。後年の隻腕の美剣士、心影流道場・「練武館」名門道場の跡取り息子は試衛館に遊びに来ていたのか?!どうなんだ!!
 そして同じく新選組剣豪秘話には、さらに突っ込んだ挿話が掲載されています。これはどっちかというと伝説・伝承に近いのでは、と思いますが、以下です。
 『試衛館の師範代(ひーちゃん)と伊庭の小天狗(イバハチ)は、愛刀を持っての試斬の会で会った。そんてナカヨシになった。(推測される年代は福地桜痴が遊びに来ていた頃〜試衛館メンバーが京都へ行く18632月、です)まもなく八郎は、三日と開けず牛込甲良屋敷地面内の試衛館に道場破りに対する助太刀も兼ねて遊びに来るようになった。(近藤さんは道場破りが来ると、大手道場に助けてコールをしている。斎藤弥九朗の練兵館の師範代も時々、頼まれてやって来たらしい。桂小五郎が練兵館の塾頭をしていたのは18531858。『燃えよ剣』で書かれているエピソードは実際にあってもおかしくない。ただし当時はまだ近藤さんは家督を継いでおらず若先生)

近藤勇の養父周斎は八郎がお気に入りだった。有名道場の跡取り息子だし、かわいいし。八郎が来るともりそば三枚をふるまって歓迎した。食べながら周作さんは軍談や剣術の薀蓄を傾ける。が、若い八郎はじじぃの長話に付き合いきれず、そばを食べ終わるとスッとどこかへ行ってしまう。つづいて八歳年長の歳三も場をはずしてしまう。が、お小遣いが欲しくなると二人はこの老人に「お願い」してお小遣いをもらっていた。(どっちも生家は豊かだが、どっちもまだ部屋住み、そうそうお小遣いはもらえません)。「周斎老人の財布は、大抵の場合中味が豊富で、それをねらうのがいたずら者の伊庭八郎とその頃店の名は忘れたが、吉原は江戸町一丁目辺りの混ざり店(呼び出し専門の高級遊女も顔見世をする遊女も居る注くらいの格式の店。まじり格子だからまじりみせ、と呼ばれた)(と、周作老人の真似をして薀蓄を傾けてみるナギンパ)に深いのがあった土方歳三の両人で、よく口実を設けては周斎老人に借款を申し込む。すると周斎老人は二分や一両はきっと出してやる。そして判で捺したように、『くだらない女などに引っかかるんではないよ。ことに病気のありそうな女にはなぁ・・・・・・・鼻の障子が取り払われるばかりでない・・・・・・・・・・第一かさ(梅毒)をかくと膂力がぬけて剣術が使えなくなる・・・・・・・・・勇には内緒だよ』と叱言付きで財布をはたいてやる」
 二人で二分(一両の半分。23万円くらい?)とすると、一人頭の予算は一分。吉原ではそれくらいしか持っていない客を「素一分」と呼んで軽く扱ったそうですが、この二人なら素一分でもモテモテだったでしょう。
 まさかこんな(私にとって)都合のいい話が本当の筈はないと思います。面白すぎるから多分きっと嘘です。でも万が一本当だとすると、この時期から10年とたたないうちに二人は数日の差で相次いで五稜郭で息を引き取り、兵糧庫裏の松の下に並んで葬られることに。『八郎君』『なんですか土方さん』『今生の思わぬ深い縁だったな』『本当にそうですね』まさか!どこの妄想同人誌ですか?!