被・支配願望

 

 海峡を見下ろす丘の上、唐草模様のはめ込まれた回廊を幾つも渡って辿り付く、トプカプ宮殿の最奥、宗主の居間。

部屋についてる家具がなにかみたいに、外に出さずに囲って半年あまり。夏バテで体調を崩した俺に優しくしてくれたから、

「なんか欲しいもの、ある?」

 尋ねた。彼が、何も欲しがらないことを承知で。

 ないと返事が、返ってこないのに不審を覚えてあげようとした目蓋を、優しい手がそっとおおう。

 広い寝台の上で、身体をまるで、添わせるみたいにされて。

「よっぽとマズイもの、欲しいのかよ?」

 からかうように言った俺の余裕は、

「……自由」

 その一言に霧散して、激情のまま、敷布に引き倒す。覚悟していたらしい彼は逆らわなかった。

「俺があんたを、放すと思ってる?」

「違う、啓介。そういう意味じゃない」

「俺と寝るのがイヤだなんていわせないぜ」

「……言わないさ」

 呟く彼の表情は、諦め。

 名実ともに支配者となって、ハレムの住人に対する生死与奪の権限を手に入れて半年。殆ど毎日、抱いて馴らした体。義務で女の部屋へ行かなきゃならない時は昼間、執務室おくの仮眠室に連れて来させて、含ませた。慣れないうちは痛そうで辛そうで、見ていて俺まで辛くなった。ようやく最近、そうすることになれて、時々、ほんとうに時々だけど俺に、昔みたいな仕草を見せることも、あるのに。

「そうじゃなくって、啓……」

「聞かねぇよ」

 くちづけて言葉を奪う。諦めて、彼は目を閉じる。着せていた服は脱がせやすいガウンで、前を開けばそのまま、柔らかな藍色の生地は彼の、白い肌を飾る縁取りになる。

 白い喉と肩口にかじりつく。鼻先で愛撫して唇で辿っていく。愛してる、なくせないヒトを、逃がさない意志をこめて抱くと、

「逃げや、しない」

 囁くように告げられて、与えられる口付け。それだけで簡単に俺は誤魔化されてしまう。

何度、だまされても。

「逃げるとか、そんなんじゃないんだ。もっと……、もう少し、俺の好きにさせて」

「ナニをどーしたいの?なんでも好きに、させてやるよ」

「うん……、好きにしてるけど」

 部屋の内装も食事も、寝台に敷くシーツも。衣装に焚きこめる香りも、燭台の飾りも。

 興味のなさそうな彼に無理矢理、選ばせて決めた。

「いつも、見張りが居るし……」

「居ないと思えよ。スキにしてればいい」

 無言で彼は頭を左右に振る。思えない、という意思表示。

「ずっと一人で、居たから」

「ずっと?ガキの頃は違っただろ」

「そ。お前と二人きりだった。あの頃は、俺もお前も子供で」

「まぁ、こんなキスはしてなかったけどな」

「時々一人になりたいんだ。お前が居ないときだけでいいから」

「具体的に言え。なにしたいのか」

「鎖……、外して」

「だめだ」

 即答した。

 彼の細い足首に嵌めた輪と、それに繋いだ鎖。先端は鋼鉄の飾り柱に結びつけ、錠前の鍵は俺の、執務室の机の中にある。宦官頭にさえ持たせていない。連れてこさせる時だけ貸して、すぐに戻させる。

俺のにべない拒絶に彼は少し傷ついた。が、気を取り直し、

「じゃあもう少し、長くしてくれ。……せめて庭に出たい」

 鎖は寝室と浴室を行き来できる距離しかない。

「庭?出てどうすんのさ」

「どうもしない。ただ出たいだけ」

「逃げる目算でもたててるんじゃねぇの?」

「俺が、ここから、何処にいけるって言うんだ……」

 静かな、けれど深い呟き。すんなり腕に馴染んでくる身体を暫く抱き締めて、頬を寄せたら口付けてくれたから、

「わかった」

 覚悟を決めて、許可をする。

「けどちょっと待って。庭に塀、たてるから」

「……塀の中には、もう飽きた。鎖つきなら、構わないだろう」

「そうだけど、心配だから」

「なら柵にしてくれ。……乗り越えられやしない」

「いいよ」

 無茶苦茶を言っているのは俺の方なのに、妥協点を自分から見つけていくヒトがいじらしい。そうやってどんどん俺につけこまれてんの、分からない筈はないのに。

 宦官がやって来て来客を告げた。びくっと、彼の身体が竦む。男であっても雄じゃないこの連中を、俺は本気でモノ扱いできる。慣れているからだ。けど彼は、違う。

 彼の周囲に宦官は居なかった。宦官は、主にアジアとイタリアからやって来る。時々はヨーロッパの、教会の歌手だったのが食い詰めて自分から売り込みに来る。去勢手術は死亡率が高くて宦官は高価だ。それに反して女は市場で、金さえ出せば幾らでも買える。

 だから、彼の周囲は女ばかりだった。宗主の地位を告げない宗主の息子や弟たちが閉じ込められる宮殿の一角。高い塀で囲まれて外界との交渉はなく、海も山も知らずに石女の侍女だけを与えられて、生きて老いて死んでいく男たち。

 

俺も彼も、以前はその一員だった。

 

物心ついた頃から狭くて暗い建物に、二人きりで居た。

 七部屋ほどの天井の低い、暗い建物に身の回りの世話をする無学な年取った女が二人。爺とか教育係とか、そんな立場の人間は一人も居なかった。鳥篭の鳥にこ言葉を教える必要はないから。だから隔離されたその一角には、血筋は尊いが知恵と知識は動物並のイキモノがごろごろしてる。

それでも俺たちが比較的、幸運だったのは、隣の建物の妾が俺たちを気にかけてくれたから。女はもと、身分のある藩主の娘だった。その藩主が謀反の疑いで処刑されて、子女たちは奴隷として宗主の所有に帰した。整ったけど少し寂しい顔立ちをしてて、そのせいか、キレイなわりには地味で、隣の鳥篭の男たちの、共有の慰み者だった。

彼女にも辛い事が多かったのだろう。逃げ込むように、俺たちのところへやって来た。まだ子供で、男じゃなかった俺たちに、字を教え本を読んで、外の話をしてくれた。父親が宗主だという意味もここに閉じ込められているという自覚も、俺は、彼女の話から、えた。

ある日を境にふっつりと、彼女はやってこなくなり。

アニキに尋ねると、

『外に行ったんだよ』

 と、彼はそう答えた。瞬間、俺の腹からわきあがったのは、不条理さに対する怒り。

 素朴な疑問。……どうして?

 どうして俺はこんな所に居なきゃならないの。

 どうして俺は外にいけないの。

 アニキの上に、俺にはもう一人、兄が居たらしい。そいつは次期宗主として外で豪奢な生活をしている。当時はガキで、贅沢ってのがどんなものか知らなかったけど、外には、本当に行きたいと思った。

 無茶を、した。

 壁に縄を渡して上ろうとしたり。

 壁近くの木から、壁に飛び移ろうとして失敗し、怪我をしたり。

 そのたびに彼を泣かせた。二人でいいじゃないかと。外は愉しいことばかりじゃない。このままここで、ずっと一緒に生きて行けるのにどうして、と。

 ……俺は、彼を、当時から抱いてた。

 本番はまだ出来なくって、ガキの遊びだったけど。女をそうするように撫でて、隣に寝かせてた。彼は最初は嫌がったけど、やがては受け入れた。俺にとって彼が全てだったように、彼にも俺が全てだったのだ。……当時。

 彼の言葉に、俺は耳を貸さなかった。外の世界は素晴らしいんだって思っていた。無茶ばかりして警戒させ、締め付けがきつくなってゆくばかりの日常にだんだん、嫌気がさしていた。

 日常を構成する、彼にも。

 逃げようとする俺に嘆く彼に、ここに閉じ込められているような気さえして。

 彼の嘆きの、意味を俺は、少しも分かっていなかった。

 

 俺たちの母親は宗主の随分なお気に入りだった。俺がはじめて『会った』時、彼女は四十を越えていたはずだが、三十過ぎにはとても見えない、本当にいい女だった。美しくって野心家で、頭が良くて残酷な赤毛のロシア女。三人の息子をこの世に生み出して、したの二人は生まれたその日に鳥篭に入れて一顧だにしなかった。

 役人どもと手を結び長子をまんまと宗主の地位につけた。……しかし。

 そこで女は失敗を悟る。当時、上の兄は十四歳。その歳でアル中でヤク中の、とんでもない放蕩者に育ってた。政治や軍事、経済に興味を持たないよう、快楽に浸して育てたのは母親自身だったけれど、……我慢、できなかったらしい。

 上の兄が『突然の、不幸な事故』によって息を引き取った後、母親は鳥篭から別の息子を引き出した。それが、俺。彼が選ばれなかったのは聡明すぎる言動を警戒されたせい。鳥篭の中の会話さえ知り尽くす。そうでなければ宗主のハレムで跡取の、母親にはなれない。あと、彼の見事な黒髪が、赤毛の女を死ぬまで馬鹿にし続けた俺たちの祖母に、そっくりだったせいもあったらしい。

 彼は、俺を抱き締めていかせるまいとした。立てこもった部屋の飾り窓から叫んだ。本当に長兄は死んだのか証拠を見せろ。でなければ啓介は渡さない、と。

 中庭に運び込まれ、横たえられた死体はぶくぶくに太っていて、少年だとはとても思えない、疲れ果てた顔をしていた。

 遺体を確かめてようやく、彼は俺に向き直り尋ねた。外に行きたいのかと。うん、と俺は頷いた。彼はそっと、辛そうに腕を放して。

『……元気で』

 泣きながら、彼の方から最初で最後の、優しいキスをくれたのに。

 俺はろくすっぽ味あわなかった。迎えに来てくれた母親の懐に、飛び込みたくって気もそぞろだった。外に出してくれる母親が味方で、とどめようとする彼は敵、みたいに思えて。

 逆だった。

 階段を駆け下りる俺の背後で泣き崩れた彼は、知っていたのだ。俺の知らないことを。

 あれが、永遠の別離だったこと。

 優しかった女は、子供をはらんで海に棄てられたこと。

 上の兄も、おそらくは殺されたんだろうって、こと。

 元気でいろと俺に泣いた、彼にもう一度会えたのは十年後。首尾よく母親を地方のパシャに、『下賜』できたあと。

 自分で迎えに行った。金の鳥篭というより母貝の中で、真珠みたいにきれいになっていた彼を。彼は俺に、笑ってくれた。……すぐに泣いたけど。

 抱いて、犯して。そのまま俺の、部屋に連れ込んで、半年。

 

「痛々しいな」

 筆頭秘書の史浩がそう言った。周囲を柵で覆い尽くした中庭で、それでも嬉しそうに風を受けるヒトを見て。

「ハレムの女を痩せさせるのは男の沽券にかかわるぜ」

「わかってっけど、ナニ食わせても太らねぇんだよ、あのひと」

「お前が無茶させすぎじゃないのか。たまには、手足を伸ばして寝せろよ」

「……いまだけさ」

 ぱらっと書類をめくりながら答える。

「じきに、我儘で俺をキリキリ、させるようになる。俺が痩せるぜ」

 優しいキスを、彼は思い出した。

 だからじき、別のことも思い出すだろう。俺が、彼に、決して逆らえないこと。

 

 彼がいなけりゃ生きていけないこと。

 

 彼が、俺の、支配者であること。

 

 俺の視線に気づいた彼が、振り向いて微笑む。

 キスするために、俺は机から立ち上がった。