賎の苧環
三日に一度、通わせる。
緊張と、敵意。憎しみと、隠しきれない脅えを抱きながら、訪れる相手を俺は、待ちわびた。
大藩の家老の跡とり息子。家老といっても万石の、大名並の大身だ。徳川家からやって来た主君の妻に気に入られ、その直々の命を受けての、書画の買い付けのために浪花に、やって来た。
徳川家も四代目。政治の中心は江戸に移ったとはいえ、文雅のことは未だに、西の都が優れている。商人たちの接待を受けながら潤沢な、予算でもって絵画を選びに来た奴に、俺を引き合わせたのは京阪きっての塩商人。
俺は、奴の顧問として推薦されたのだ。
画商が持ち込む数多い書画の、真贋の鑑定のために。
「知識と眼力では、この都でも屈指の男です」
という紹介の言葉に、相手はふんと頷いて終わった。それから、何度か大寄せの会に、供して参上した。何本課の絵を選んで買わせた。松竹梅や鶴の絵の、めでたい図柄の、引き出物に向いた巻物を。
「他には?」
大名買い、という言葉どおりに、多くの数量をそろえなきゃならない奴はもっと、という顔をいつもした。が、俺は頭を横に振る。金を出す価値のない絵に、代価を払う事は出来ない。それは絵師のためにならないから。
「お前、絵描きあがりか?」
うっすら、美貌が綻んだ。タチの悪い笑い方で。
「なりそこなった鑑定家ってのは、一番、意地が悪いんだってな」
……憎らしい言葉。
藩の京屋敷で過ごしながら、こいつはあまり、藩の人間たちと親しむ様子はなかった。画会や売り立てにまめに顔を出すのも、実は藩屋敷に居づらいからじゃないかと、薄々、俺は感じていた。
ある寒い、冬の日。
郊外で、とある大家の、書画があった。他の連中は荒れた空を仰いでそのまま、会場の料亭に泊まり込んだが、翌日が前藩主の忌日でどうしても帰らなければならないという奴と、俺と、その書画会へ招待した画商だけは夜道をついて洛中へ戻った。
左京の下級公家たちの屋敷が並ぶあたりで、吹雪はいっそう、激しくなった。
「こりゃ、ヘタすりゃ大路で遭難してしまいますよ」
画商が言った。俺も同感だった。油紙の風除けを羽織った奴はヤワな見かけによらず、健脚に歩いていたが地元の俺たちが躊躇するのを見てさすがに不安げに立ち止まる。
「どっかで吹雪の収まるのを待たなけりゃ。そうだ、須藤さんのお住まいは、ここの近くじゃないですか」
その通りだった。俺は、とある公家の離れを借りて生活していた。
公家といっても幕府と繋がった武家伝奏衆以外の生活は細々と、苦しい。伝来の家屋を人に貸して、ようやく生計をたてている。といっても、その性質上、一般の町人を邸内に住ませることは出来ない。医者や儒者、絵描き、坊主がオンナを囲うための別邸、なんかがこの辺りには、多い。
「須藤さんの、お宅で一休み、させていただきましょう」
嫌とも言えずに、渋々、俺は二人を自宅に案内した。あの時は本当に嫌だった。そんな俺の内心に頓着なく、築地の公家屋敷が珍しい奴は面白そうに俺について来た。貧乏公家の裏門には、掛け金さえもない。すっと通って、離れに上げて、
「……寒いな……」
震える奴を放ってもおげず母屋に、火をもらいに行く俺の背中に、
「これを」
気のきく商人が丁銀を握らせる。勿論、出所は奴の予算だ。下女部屋の前で咳払いして下働きの水仕を起こし、炭櫃の用意を頼む。寒い夜半に起こされて不機嫌だった女は銀を見るなり飛び起きて、裾をはだけながら、埋め火を掻きたてに厨ま竈前に行く。
「酒とメシを、用意してくれたら、もう一つ、やるぜ」
「あいよ。よっぽどカワイイ、女を連れ込んだね」
水仕女の軽口を聞き流し、俺は真っ赤に熾った炭櫃を受け取り離れへ戻る。貧乏公家の炭は木質が悪い。すぐに崩れるから、慎重に運んだ。
離れへ、戻ると。
「……おい」
若様は、油紙の雪除けも脱がずに、離れの寝間と広間を区切ってる屏風に目を当てていた。
「脱いで、置けよ。畳が痛む」
「これは誰の筆だ?」
「いいから、こっちへ来い」
俺はわざと乱暴な口を聞いた。商人がハラハラするほどに。けれど若様は怒りもせず、俺が手招くままに、雪除けを脱いで炭櫃のそばへ寄る。
「……温かいな……」
手をかざして、呟く頬が、温気に煽られて薄く紅潮していた。
「とても、温かい」
嬉しそうに、安心したように呟く美貌から、俺は目をそらした。
画商はぽーっと、正直に見惚れていた。
そこへ、
「須藤さま」
聞いた事もないような、すかした声音で水仕女が、渡り廊下に面した商事の向うから声をかける。俺は立ち上がり、差し出される盆を受け取る。
五徳にも、炭火が埋けられて、酒と、鍋。鍋の中には、湯豆腐が八つに切られて二丁分。わきの器には味噌汁。味噌汁の具の残りだろうが、青ネギのみじん切り薬味に添えられて、いた。
醤油と、小皿も。
「おぉ、これは有り難い」
座敷に運ぶと、商人は嬉しそうに声をあげる。
「……いいのか?」
若様は、少し心配な顔をした。
「こちらは、家人の朝食ではないのかな……?」
おそらくはそうだろう。明日、家内は揃って浅漬けのメシだ。けどまぁ、それはよくある、ことさ。
「ゼニを出しな」
言うと若様は逆らわず、直接、俺に丁銀を手渡し、そして。
「ご家内なら、ご挨拶をしたいが」
そんな気配りが、大身の武家らしくない、とは思ったっけ。
「水仕の下女だ」
公家の女が店子の来客にこんな深更に、起きて来るはずがない。武家の妻なら主人の客には、夜明けだろうが、湯を沸かすだろうけど。
「いいから、ほらよ」
湯豆腐の鍋にひたして温めた酒器を引き上げ、ぐい飲みの一番大きいのを、若様に持たせた。素直に受け取った。なみなみと注ぐとそっと口をつけて、
「……温かい」
切なくなるほど嬉しそうに、呟く。
ゆっくり、唇に含んで、するすると飲み干す。白い喉が上下する。空腹と寒さに凍えたカラダに熱燗が染みたらしい。ぽうっと、肌全体が、うすく桜色を刷く。
「若君、わたくしにも、注がせてくださいませ」
画商がにじり寄るのを制して、
「それより、喰え。空き腹だと具合、悪くなっちまうぜ」
湯豆腐を小皿にとって、好みも訊かずに薬味を振って、醤油を掛けて渡した。
「……おいしい」
箸で食べながら、若様は、また笑った。
俺の気分が悪くなったのは、多分、昔の悪い夢を思い出したから、だ。
顔は似てない。けど美貌と家門の高さと、それでいて本人に飾り気がないところが。
「とてもおいしい」
よく、似てた。
酢に近いような酒でも、呑めば酔う。まわってきた若様を、
「お着物を、緩めて差し上げなければ」
画商に言われるままにそうして、奥の、俺の寝床に寝かせた。
潰れた画商には着物を掛け、俺は、布子を引っかぶって、床に転がった。
酔いも眠気も、少しも来なかった。
翌朝。
吹雪は収まり、空も晴れたらしい。雨戸の隙間から明るい陽がさす夜明けに、奥で若様が起き上がる、気配。
俺は、あえて眠ったふりを続けた。
若様は物音をたてないよう気をつけながら身支度して、やがてそっと、俺の枕もとを通り過ぎる。タタキで皮雪駄を履いて、その時。
……アリガトウ
小さな声が聞こえた。
気のせい、だったことにしようと……、思った。
高家のオンナに惚れるのは、もう、コリゴリだったから。
「脚を、もっと、披け」
そのときはこんな風に、絵筆を握りながら命令できる日が来るなんて思いもしなかった。
「腰、浮かせ。肝心の場所が見えやしねぇ」
屈辱と羞恥に泣きそうな、崩れそうな顔でそれでも、若様は俺の要求に応える。
「そのまま、じっと、してな」
これは復讐。俺に向かって微笑んだこいつへの。
「動くと後で、酷いぜ……?」
俺の胸の、内側へ斬り込んで来た、奴への。
やつあたりじみた、報復。
♪ 賎や賎 賎の苧環 繰り返し 昔を今に するよしもがな