Love or Lust」 

 

                  蓮見 ゆら   さま

 

 

 

 

 雨は嫌いだ。

 鼓膜が、無意識に雨に混じる足音を探す。

 来るはずがないと分かっていて、尚。

 振り払った手の熱。

 驚きに見開かれた瞳。

 ほどかれた手が、所在なげに中空を彷徨った一瞬。

 すべてを投げ打って、自分を掴んでくれないかと願った。

 結婚すると言った、彼女を捨てて。

 親友という、枠を壊して。

 スローモーションのようにゆっくりと動いた唇から紡がれた言葉は雨の中へと吸い込まれて消えたから、彼がその時何と言ったのかはわからない。

 灰色に煙る、小さな雨滴の緞帳に包まれた空間。

 忘れたい光景はしかし、網膜の裏に焼きついて離れず。

 瞼を落とすたびに、聴覚が雨を捉えるたびに、何度も何度も繰り返す。

 せつなくて苦い、情念とともに。

 

 

 

 

 

 

 

「――…っ…!」

 ひと際強く打ち付けられた衝撃に、浮遊するように手放そうとしていた意識を強引に呼び戻された。

 ぐらりと揺れた視界に吐き気さえこみ上げて、咄嗟に伸ばした手が、机の上に置いてあったクリスタルの文鎮を弾く。

 床で響く、硬質の音。

 背中に落ちる、あからさまな溜息が憎憎しい。

「やれやれ、それは高かったんだがね…。」

「――は…っあ…」

 低い笑いを含んだ声が、耳元を嬲る。

 体のラインを辿る指先によってもたらされた感覚に、みっともないほど肌が粟立った。 ぐちゅりと、繋がったままの箇所が濡れた音をたてる。

 上体を机に伏せて腰を突き出すという不自然な体位をとっているせいで、胸の下にある腕は痺れてしまって感覚がない。それでも姿勢を変えてくれと懇願しないのは、自分なりの最後のプライドだ。

 生殖器ですらない場所で動物のように交わって。

 しかしここに、人間らしい愛しさとか慕情だとかいうものは存在しないのだと。

 決して自ら望んでこういう行為を行っているのではないのだと。

 心ではなく肉を欲したこの背後の男に、思い知らせてやるために。

「誰を思い出している?」

「な――っに…を…」

「気付かないとでも思うかね?」

 こんなに長く、腕の中に抱いていて。

 朦朧とするほど欲に溺れていながら、その視線は空間を通り越して過去を見つめていることに。

 違う姿を、体温を、追い求めていることに。

「気…っに――…なり、ます…か?」

 閣下とも、あろうお人が。

 嫉妬めいた含みに、小さな高揚感が胸元に生まれた。嬉しいとかそういった正の感情とは異なる、高みから敗者を見下ろす心境に似たそれに、口の端を歪めて振り仰ぐ。

 強引な動きは苦痛を伴いはしたが、それよりも好奇心が勝った。

 体の中心を熱に昂ぶらせながら尚も、冷徹ともいえる光を失わない瞳。

 そこに何がしかの感情の細波を読み取ろうとして、しかし、直ぐにロイは諦めて溜息を吐いた。

 この状況下にありながら、鉄面皮もかくやと言うほどの無表情。

 時間をかけて観察すれば、そこに僅かな差異を認めることが出来るかも知れないが、だからといって、何になるというのか。

 自分が心の底から欲しいと思った相手はただ一人。

 自分を選ばず、決して手の届かない場所に行ってしまった人だけ。

 それ以外の男に、何の興味を持ってやる義理もないのだ。

「そういうわけでは――…いや、そうだな、君のその視線を、私に向けさせてみたいとは思うが?」

「はっ…お戯れを…」

 腰に添えられていた手に、顎を掴んで上向かされる。覗き込む視線に、捕らえた獲物をいたぶる肉食獣の光を見て取って、唾を吐きたい思いに駆られた。

 自分を見て欲しいなどと、よくも言う。

 心の在り処など、どうでもいいと言い切ったその口で。

 

――そんなものが、それ程重要かね?

 

 初めて素肌へと触れられた、あの時。

 嫌悪感に身を竦ませた自分を哂った、あの表情を忘れない。一方通行の思いでしかない以上、身を保つことに何の意味があるのかと、切り捨てられたあの冷たさは、今も身の内に染み込んでいる。

「戯れなどではないさ。」

「く…っ――…」

「これ程体温を分け合っていながら、見てもらえないというのはなかなか歯がゆいものだ。」

 誰の腕の中にいるのか見なさい、と。

 顎を掴んだままだった指に力が篭り、漆黒の鏡のような窓へと向けられる。

 映し出される、室内。

 深いワイン色のカーテン。

 重厚な樫の木の机。

 そしてその上の――…

「――っ…!」

 繋がった箇所まで暴くように見せつけられて、羞恥心に肌が火照る。内側から掻き回されて、太腿が小刻みに震えた。

 叩きつける雨滴が、ガラスに筋となって流れる。

 おしゃべりは終わりだとばかりに激しさを増した抽送に、悲鳴が喉の奥で引き攣れた。 飽和量を越した感覚に、室内灯の明かりが滲む。

 ああ、こんなにも。

 彼のいる場所は遠く、此処からは届かない。

 振り続ける雨に、懐かしい足音は混じらない。

「っあ――…!」

 全てを断ち切るように瞼を閉じて、掌を押し付ける。

 ほぼ同時に体内へと注がれた熱に、快楽のうねりが背筋を上り詰めて弾けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「帰るのか?」

 皺になったシャツをのばして、上着を着る。淡い間接照明の中、乱れた髪を手櫛で撫で付けていると、随分前に身支度を終えた男が椅子に腰掛け脚を組んだ。

「ええ。泊まっていくわけにはいかないでしょう?」

 皮肉を込めた声に、にこやかな笑みを浮かべた相手は僅かに片眉を上げて答えた。

 サイドテーブルにワインを注ぐ姿は既に「大総統」のそれであり、先刻までの情事の片鱗もない。

「どうだね?いいワインだよ。」

「結構です。明日早いもので。」

 差し出されたグラスに首を振って断り、書類の入った鞄を手に取る。仕事だから飲めないというのは半分本当で、半分は嘘だ。

 明日視察のために早いのは事実だが、これがもっと他の相手であれば一杯くらいは飲んだだろう。

 体は許しても、打ち解けはしない。

 それが自分を支えている、つまらない意地だ。

「そうだ、マスタング君。」

「はい?」

「君、来たくないなら、来なくてもいいのだよ?」

 穏やかに、だがしかし、自分の意思で来ているのだという意味を言外に滲ませた声に、鞄を持つ指が微かに震えた。

 一瞬の逡巡。

 それから細心の注意を払って、柔和ともいえる笑みを顔にのせる。

「――…来ますよ、閣下のお呼びとあらば、何時でも。」

 全てと引き換えても、欲しかったものはただ一つ。

 他は何も、いらないのだから。

 受け取り手のいないこの想いを、自分だけが抱えていればいい。

 

 総統府の裏手から人目を避けて外に出ると、いつの間にか雨は上がっていた。

 しめりを帯びた空気が、肌の周りを取り囲む。

 

 雨音は、聞こえない。

 懐かしい、彼の音も。