日本の廃墟はすぐに廃屋になる。少なくとも伝統的な建築物は人がすまなくなれば滅びていく。木と紙と土で出来た建物は高温多湿の気候に晒されて緩み、緩んだ根太は台風の襲来で潰れ、やがては土に還る。

Buongiorno!」

 その点、石造りの建物が多いヨーロッパとは事情が違っている。数世紀も前に放棄されたイギリスの古城は壁も柱もしっかりとしていた。

「早朝で申し訳ありませんが起きていただきます。お仲間のところへ戻れますよ!」

 厄介な人質をはやく『戻し』たくてたまらない誘拐犯のボスは危機として獄寺隼人に与えた寝室のドアを開けた。もとは城主夫人の寝室であったらしいバルコニーつきの部屋。内部の調度品は使える状態ではなかったのでエアマットと寝袋、毛布を持ち込んで仮の寝床を作っている。

「沢田綱吉からコンタクトです。直接ではありませんが誘き出されている。さあ行きますよ!今日はいい日になりそうです!」

 ごそ、っと、毛布の下で人影が身動きした。その名前を聞いては無視も出来ないという風に。

「……朝っぱらから、うるせぇぞぉ、骸ぉー」

 いかにも低血圧、朝は調子が出ないといいたげな緩慢な動きで毛布の下から腕を伸ばし伸びをして頭を出す。少し乱れた髪といつもより油断のある表情、そしてイタリア男らしく裸で眠っていた肩から背中の動きは猫科の動物のようなしなやかさに満ちている。枕元のタバコを手に取り腹ばいのまま口に咥えて火を点けるしぐさ、何もかもが一々艶で、婀娜っぽく魅力的だった。

 けれど、六道骸はそれを観賞するどころではない。

「何時だ?」

 美味そうに紫煙を吐きながら獄寺隼人は無意識に手首を確認しかけ、そこに腕時計がないことに気づく。ああ、という表情でつぎにした動きは毛布の中に腕を突っ込んで自分のものではない手首を探すこと。

「うわ。まだ五時じゃねぇか。勘弁しろよぉー」

「……獄寺隼人」

 掴まれた手首の持ち主は時計を見られることには逆らわない。けれど毛布の下で本体が身動く。

「あー、ナンだぁオマエ、ヤニ嫌いかぁー?」

 タバコの煙を避けようとしているのだと獄寺は思った。掴んだ手首を離し、口に咥えた煙草を左の指先に挟んで共寝の相手から遠ざける。そうして額で隣の膨らみを押さえる。消すからまだ起きるなよ離れるな、と、甘えているしぐさ。

 若い男の我儘な可愛げは女神の心さえ溶かすだろう。

「ん?」

 けれども今回に限っては的外れ。腕時計の巻きついた手首は毛布の下の持ち主によって肘を返され、遠ざかった紫煙を指先が覆うとする。

「ああ」

 なんだ、という安堵の声とともに獄寺隼人は毛布を捲る。現れた黒髪の向こう側に火のついた煙草を差し出す。吸いつけ煙草を相手が美味そうに一服する間に枕元から眼鏡をみつけ、つるを広げて、耳に掛けてやる。

「なにを、しました、あなたは」

「ナンにもしてねぇよ」

 エアマットの上に起こした上半身は裸、美味そうに煙草を吸う後ろ髪を、自然な仕草で撫でてやる指先はひどく優しい。

「ツラはいいのにオマエ意外とゾクブサだなぁー。くっついてりゃすーぐヤったと思うのはもてない証拠だぜぇー」

「人類の経験に則しているだけです」

「ミズカラの体験に則しやがれ」

「食べられるから近づくなと、あれほど言ったのにッ」

 部下が毒牙に掛けられたことを心から悔やんでいる六道骸の様子に。

「何もされていません」

 いつでも変わらぬ落ち着いた口調で柿本千種という名のヨーヨー使いは答える。

「夜中に寒さと空腹を訴えられました」

「退屈だから骸の首でも獲りに行くかって寝静まった後に部屋からでたらコイツに見つかってよ」

「暖房器具がないので暖めていただけです」

「ほっつき歩かねーよーに見張られてただけだ。ワンマンかと思ってたけどよ、実はしっかりしたサブついてんだな、骸ぉ」

「なんて息の合った釈明でしょう。泣きたくなってきました」

「骸様が悲しまれるようなことは何もありません」

「ではなぜ服を着ていないのですか」

「ゲストの希望でした」

 人質のことをそう呼ぶのは湾岸戦争以来のお決まり。

「下着はつけています」

「だよなー。パンツはいてるぜ。見るか?」

「いりませんっ!」

「ボンゴレに動きがありましたか」

「そ、そう、です」

 この部屋へ来た理由を思い出し、落ち着こうとして、六道骸は深呼吸。

「時計の、というか、時計に仕込まれた石が波動を発しはじめました。位置は並盛財団ロンドン支部ではなく澤田綱吉のフラットです」

「罠ではありませんか」

「はっきり罠でしょう」

 毛布から出てきた半裸の二人は、昨夜ぬいで椅子の背もたれに掛けていた服を着込んでいく。このシャツはオマエの、こっちのスラックスはオレの、と、やり取りをする様子が仲むつまじく見えるのを意思の力で骸は黙殺した。

「はっきり罠でしょう。今、あちら側に居る嵐の持ち主といえばヴァリアーのザンザスです」

 なぜザンザスがイタリアの本拠地を離れて澤田綱吉とともにイギリスに居るのか、六道骸にはいまひとつ理解できていない。分からないままの方が幸福だという漠然とした感覚があって、深く考えないことにしている。

「待ち構えられている罠でいい。山本武が到着する前に、いっそこちらから嵌りに行きたい」

「だよなー。あいつうぜぇかんなぁー。乗り込んできやがる前にカタつけっかぁー」

「骸様、ゲストに私物を返却してよろしいですか?」

「そうしてください」

 柿本千種は部屋を出て行き、すぐに戻って来る。手にした袋には獄寺が身柄を拘束されていた時に身に着けていた指輪とボム、脇の下用のガンホルダーに38口径のオートマチックの拳銃、財布と携帯電話、などが入っている。

「どーも」

 まるでロッカーに預かってもらっていた貴重品を受け取るような仕草で獄寺はそれらを身につけていく。財布の現金やカードは一瞥もしなかったが携帯電話だけは、やや慎重ロックがかかったままなのを確認。そして赤外線の送受信部を千種に向ける。

「……」

 お互いに無言のまま、アドレスの交換がなされて。

「今、ボクの目の前でナニが起きているのでしょう」

 当代きっての幻術士を心から嘆かせた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 その頃、別の場所でも、早朝の襲撃が為されていた。

「うっわー、せっまーい。こーんなところにボスとサワダツナヨシが住んでんのー?」

 ケタケタと明るく笑う王子様を、シーッと、同行のオカマが唇に指を立てて制した。

「ダメよ、ボスもスクちゃんも奥で眠っているんだから」

 ボンゴレ十代目からの略式ながら正式な招請によってイギリスにやって来た二人には、その十代目が暮らすフラットの合鍵も届けられて、夜明けの部屋にそっと滑り込むことが出来たけれど。

「なぁに言ってんだよルッス。寝てるはずねーじゃん」

 眠っていたとしても目を覚ました筈だ。侵入者に気づかない二人ではない。

「起きてくるまでは眠ってることにしておくものよ」

 優しいオカマは朝食を作るつもりらしい。失礼しますとつぶやいて、そっと冷蔵庫を開けた。