その頃、別の場所でも、早朝の襲撃が為されていた。
「うっわー、せっまーい」
妻一人と恋人二人を持つ家主は寝室が四つあるフラットに住んでいる。さらにそれぞれの親や友人の為のゲストルームもあって、日本であれば豪華マンションと称される床面積だ。けれどあくまでも一般家庭のレベル。中世の砦を改築した、殆ど山ひとつ分の広さを持つヴァりアー本拠地とは比べ物にならない。
「こーんなところにボスとサワダツナヨシが住んでんのー?」
ケタケタと明るく笑う王子様を、シーッと、同行のオカマが唇に指を立てて制した。
「ダメよ、ボスもスクちゃんも奥で眠っているんだから」
ボンゴレ十代目からの略式ながら正式な招請によってイギリスにやって来た二人には、その十代目が暮らすフラットの合鍵も届けられて、夜明けの部屋にそっと滑り込むことが出来たけれど。
「なぁに言ってんだよルッス。寝てるはずねーじゃん」
眠っていたとしても目を覚ました筈だ。侵入者に気づかない二人ではない。
「起きてくるまでは眠ってることにしておくものよ」
優しいオカマは朝食を作るつもりらしい。失礼しますとつぶやいてキッチンの奥へ行き、肩に担いでいた、サンタクロースが持っているような大きな袋をテーブルの上においた。そうしてそっと冷蔵庫を開ける。
「家は狭いのになぁんで冷蔵庫だけ、すっげぇ大きくね?」
王子様どころかオカマの格闘家さえ難なく入れそうな大型の冷蔵庫。そうね、と答えながらオカマが大きな扉を開く。
「イギリス、だわねぇ……」
オカマは卵やハムが入っているだろう冷蔵スペースを開けたつもり。けれど一番開けやすく大きな空間は、手前に透明なカーテンが設けられ庫内の冷気を逃がさないよう工夫がされている冷凍スペースだった。
「さすが、主婦が週に一度しか買い物をしないイギリスの冷蔵庫だわ」
やさしいオカマは呆れるのを通り越して感心してしまった。家庭用冷蔵庫というモノにはその国の食文化が如実に反映される。イギリスでは週一回しか買い物をしない上に買出しの多くは缶詰や乾物や冷凍食品で『料理』の材料たる生鮮食料品はないに等しい。自然、冷蔵庫の一番大きなスペースを冷凍庫がしめる。
対してイタリアでは老若男女が料理や市場を愛している。毎日、その季節の美味しいものを求めて買い物をする家庭が多いので冷蔵室のほうが大きいものが通常仕様。イタリアと同じく味というものにこだわる日本の冷蔵庫も3ドア・4ドアが当たり前の多機能さを誇る。
「あらでも、ボスってば、わりとちゃあんと、お料理していたっぽいわねぇ。オリーブオイルとかバジルソルトなんかが減ってるわぁ。卵も殻が粗いしヨーグルトも日付が新しいわ」
オカマの見るところは鋭い。調味料の様子で生活状況を推察して、引き出しや戸棚を開いていく。
「お酒は相変わらず家飲みねぇ。日本のナッツをお気に入りだわね。小袋になっているから便利なのよねぇ」
「サワダツナヨシんじゃねーの?」
「お若い十代目がわざわざ、グレンフィディックの横には置かないでしょう。あら、ここにも瓶。ウィスキーの本場を満喫しているわねぇー」
うきうきと私生活を暴いていく様子は、一人暮らしの息子の部屋へ乗り込んできた母親のよう。
「手前においてあるパスタ鍋大きいわねぇ。ロングパスタが横にバラける理想的なお鍋よ。1キロの袋がこれだけ積んであるっていうことは、ボスもお若い十代目も、よく召し上がっていたのでしょうね。あらん、いやん、うれしーい」
冷蔵スペースにはオカマが作って銀色の鮫に持たせたセミドライトマトのオイル漬けのタッパーが置かれている。中身は殆ど残っていないけれど風味の残ったオイルも美味しいのでバターの代わりに利用するべくとってあるのだと、ヴぁリアーの主婦たるオカマには一目で分かった。
天日に干してドライフルーツのようにしたトマトをオリーブオイルと岩塩に漬けて作るルッスーリアご自慢のそれは、トーストしたパンや茹でたバスタの上にどさりと乗せるだけでおかずにもなり調味料にもなるという便利な代物。
「ふんふん、ららーん。気に入ってくれたのねぇ、ボス」
「あ、王子のグラッパも封切ってある」
「あらホントね。ウィスキーばかりで飽きておられたのかもしれないわ。いい選択だったわね」
言いながらオカマは空のタッパーを冷蔵庫から取り出して、代わりに持ってきた荷物の中から真っ赤なトマトのぱんぱんに入った新しいものを入れておく。
もちろん、やさしいオカマが持ってきたものは、そんな可愛いおかずだけではない。
「ベルちゃん、そっちの脚をあわせてちょうだい」
「へーい」
テーブルに置かれたサンタの袋からまず出てきたのは頑丈な木組みの台。ピオジトニーという名の、ハンドルで両側から生ハムを挟みこんで固定するタイプの、重量感のあるしっかりした生ハムホルダーを組み立てた上にどかりと載せられたのはイタリアの伝統的な生ハムの原木、プロシュット・クルー。
非加熱の生肉であるため検疫の問題があって個人での国外持ち出しは不可能。日本で俗に呼ぶところのプロシュートの、原木と呼ばれる一本の腿は重さが10キロはあるだろう。一抱え、という表現がオーバーでもなんでもない巨大さの骨つきハムは専用の台に置き板で挟んで安定させなければ到底、扱えるものではない。
「なんか、でかくね?」
「ウチに置いてあるのと同じサイズよ」
ルッスーリアが管理する幹部用のキッチンには生ハムの原木が常に置かれている。生、といっても乳酸菌発酵食品なので常温で半年は置いておける便利な常備食として。感想を防ぐために切り口にはカバーを掛け、硬い皮に時々オリーブオイルを擦り込んでやれば熟成の進行していく生ハムをいつでも食べ放題だ。酒飲みのボスが好むこともあって、10キロの原木を二ヶ月で消費してしまうのがヴァリアー幹部たちの平均。
「家が狭いとすんげぇでっかく見えるー」
王子様はご機嫌にまた笑う。
「アタシこれ、イマイチ得意じゃないのよねぇ。スクちゃんが起きてきてくれないかしらー」
出入りの食品会社が硬い表皮にはオリーブオイルを塗ってくれている。けれどそれでも、20ヶ月のあいだ冷温熟成された豚皮はカチコチに硬くて、生ハムを削ぐための平たい薄刃の専用ナイフを傷つけそうな不安がある。
「スクちゃんが起きてくれないかしら。ボスがお好きなクルーの原木があるのよー」
オカマの声は特に大きくはない。けれど早朝のシンとしたフラットで、置くの部屋に聞こえないほど小さくもなかった。
「ルッス、ずるくね?」
自分が起こそうとした時には止めたのにと、王子様はやや不満そうに唇を尖らせる。
細身だけれどしなやかで、抱き心地は悪くない。
遅い新婚旅行のようだった外国で二人きりの生活。特に何をするでもなく、起きて寝て食べて抱き合って、一緒に居るだけの休暇の時間が終わった、と。
「……、あー……、ルッスたち、来たなぁー」
男が考えたのと同時に、腕の中で眠っていた銀色が目を覚ます。
玄関の鍵が開けられダイニングからキッチンへ踏み込んでくる気配。パタンパタンと戸棚が開けられてなにやら楽しそうに話している。
「ったく、うるせぇなぁー、あいつら」
文句を言っているものの銀色の声音は不快そうではない。それは男も同様だった。騒がしいけれどなんだか妙な懐かしさがあった。擬似だが長く『家族』であった、同じ群れの仲間。
「あーでも、よかったぜ」
銀色はふだん裸では眠らない。常に動きやすい部屋着を着込んでいる。シーツの上に散らばった長い髪をまとめながら、妙なことを言い出す。隣の男はまだ起きようとしないが、身支度する銀色を目だけ動かして眺めた。
「こっから一人で帰んのがよぉー、ナンか……。おかしーだろ」
寂しかったと口には出さないがうっすら笑う目じりに書いてある。男がそれを一瞥で見抜いたのは男自身も同じ気持ちだったから。ほんの数日だったけれどかつてないほど近くに居た。愛情と恋しさがひどく積もって、かなり別れがたい。
「あいつらと一緒に、ギャーギャー言いながらイタリアに戻れンなら気が紛れらぁー」
銀色は喜んでいる。それが男には妙に気に食わない。
「オレもだ」
自分の気持ちが嫉妬だということを、聡明な男は敢えて『自覚しない』しないことにした。
「あー?」
「茶番は終わりだ」
男は口数が少ない。言葉数も少ない。
「ツナヨシと喧嘩したことにすんのかぁ?」
長年連れ添う勘のいい銀色は男の意図を正確に察した。この騒ぎを機に政略結婚を拒む為に始めた沢田綱吉との『同棲』を解消するつもり。
「いいころあいかもなぁ。まさかずーっと続けてる訳にゃいかねぇし」
ボンゴレの長老たちは震撼し婚姻政策を放棄したように見える。若いが怖いボンゴレ十代目の『お手つき』に配偶者を世話しようという者はしばらくあるまい。
「言うことはそれだけか?」
「……なに言わせてぇんだよ」
「聞いてやるぞ」
にやり、男が珍しく笑う。少し意地が悪くて面白がっている気配はあるけれど、凛々しい口元が確かに綻んだ。
「オレがオマエにベタボレだってことをイマサラ?」
つられて銀色は素直になった。
「そうか。それから?」
聞きたがる男も別人のように正直。
「一緒に帰れんならむちゃくちゃ嬉しいぜぇー」
「具体的には?」
「オマエが好きなウィスキー、好きなだけ買ってやるぐれぇだなぁー」
ベッドの上で上体を起こしていた銀色がそう言うなり男のカラダの上へ被さって来る。珍しく自分から唇を重ねてくる。何かを買って「やる」と言い出したのもそういえば初めて。
された男は悠々とそれを受ける。朝っぱらから熱烈なキスを繰り返す。髪を撫でてやると銀色は嬉しそうに鳴いた。本当に機嫌のいい猫のような泣き声を重なる唇の隙間から漏らした。
遠くから声がする。
やって来たオカマがどうやら、銀色を呼んでいる。
「行く、ぜぇ。オマエもそろそろ、起きろよォー」
部屋を出て行く銀色の、目じりに散ったうす赤い血の色が男にはひどく満足だった。