ざっとシャワーを浴びて汗を流し、パリッとしたシャツとスラックスを着込んだ銀色がリビングに現れる。

「まぁスクちゃん、お久しぶりね」

 くねるオカマは白々しい。けれど憎めない。

「おはようございます。今日も素敵に美人だわぁ~。ほっぺつやつやしちゃってぇ、妬けるわねぇー」

「あ、センパイ、おはよー。ボスは?」

「まだ寝てやがる。って、おぉーい!」

 オカマの戯言は適当に聞き流し、王子様におはようと挨拶を返した銀色の視線がキッチンのカウンターに置かれたハムの原木に吸い寄せられた。

「ルッス、オマエ、ナンてものを……」

 持ってきたんだと呆れた顔。

「うふ。美味しそうでしょ、素敵でしょ?」

 非難がましい視線を向けられてもオカマは怯まず、掌を頬に当てくねる。

「そりゃ美味そうだけどよぉー、でかすぎるぜぇー。ここ普段は人間少ないんだぞぉー」

「そうだけど、このまま半年は置いておけるもの。殿方二人なら余裕でなくなるわよ」

 味はついているし火も通さなくていい。切って口に入れるだけの完璧な保存食よと胸を張るオカマの主張が間違いでないことは銀色も分かっている。ボスさんは帰ってくるってよ、というサプライズはまだ黙っておいた。

「スクちゃん、お願いできるかしら?」

 生ハム用のナイフは幅広の薄刃で、ケーキに生クリームを塗りつけるときに使うパレットナイフに形が似ている。ただしこちらは切れ味のいい鍛錬された刃物。そして刃物の扱いにおいて、銀色の右に出る者は居ない。

 オカマに皮剥きを頼まれるのはいつものことで銀色は慣れている。さくっと無造作に骨つきハムの足首近くに刃を垂直に入れ、次に斜めに入れてV字にカットする。とたんに透明な脂が染み出し、生ハム特有の香りが漂う。

「きしし。うまそー」

 椅子の背もたれを抱くように座り、作業を見守る王子様の口から思わず感嘆が漏れた。切り目に刃を差し入れ、今度はカチコチの皮と平行にナイフを滑らして上部を一気に削ぐ。

「いつもお見事ねぇー」

 皮の下は2cmほどの脂肪層。生ハムは脂も美味いのだが、皮に近い部分は酸化していて食べられない。黄色くなった部分を切り捨て白く色艶のいい層まで達すると、隙間にお馴染みの赤味が見えてくる。

「はい、スクちゃん」

 そこでオカマが手を伸ばし、ナイフを一旦、受け取って流しで刃にお湯をかける。パンやケーキを切る時と同様、刃を暖めたほうが作業しやすいのだ。

「ベルぅ、皿ぁ出せぇー」

「へいへーい」

 生ハムを食べたい王子様は珍しく素直に銀色の言うことをきいた。さっき開けた戸棚から大きな白い皿を取り出す。オカマは用意していたモッツァレラチーズとトマトをその隅に配する。チーズには当然、オリーブオイルをまわしかけ刻みパセリを散らした。

「オマエラもかぁー?」

「そだよーん」

「そうよーん」

 オカマと王子様の声がハモる。

「ボンゴレのジジイたちにバレないよーに夜行で着いたばっか。助けに来てやったんだからセンパイ、感謝してよねー」

「たくさん切ってちょうだいな、スクちゃん。よろしくね」

 オカマがサンタの袋からチャパタを取り出す。フランスのバゲトを平べったい資格にしたような形状だが、バターもミルクも使わず粉の味だけで勝負するそれは皮はパリパリ、中身はしっとりで、生ハムの脂身と実によくあう。

「おー」

 見事な手際でスライスされた生ハムが大皿にこんもりと盛られる。白と赤のコントラストが美しい。オーブントースターでパンが温められる。ハムが大量なので卵料理はなし。冷蔵庫の中に入っていたミルクとオレンジジュースをグラスに注いだとこで、彼らのバスが奥から姿を現した。

「おはようございます、ボス」

「おはよーございまーす」

 二人の挨拶に軽く頷き席に座る。王子様がその目の前に生ハムの大皿を恭しく置いた。

「……」

 やや驚きというか、呆れた表情の男に。

「持って来やがったんだぜ。なぁ、びっくりだなぁー」

 銀色が明るく話しかける。浮き浮きした口調のまま、優しい手つきで皿から男に、しっとりとした生ハムをとりわける。暖められたパンがトースターから出てくる。それにもさくりと、銀色が切れ目を入れる。

「あー」

 はぐっと一口、その瞬間に銀色は思わず正直な感嘆を漏らした。

「うめぇー」

 もっちりのパンにしっとりの生ハム。無塩のパンにチーズとハムの塩気がたまらなくあう。口の中に唾液が溢れてくる。舌の上に広がる脂身は甘さを感じるほど上質で、それ自体にしっかりとした味がある。安い飼料いでぶくぶく水太りした豚と、ドングリ育ちの野飼いとの一番大きな差は、その脂身の味。

「……」

 男は何も言わない。けれど目の前の生ハムが消費されていく速度は美味いと思っていることを言葉以上の雄弁さで語りつくす。イタリアから離れて一週間足らずの銀色さえ母国の美味にハッとするような衝撃を受けているのだ。二ヶ月を超えてイギリスに滞在している男の衝撃はそれどころではない。

「トマトもちゃんと食えよぉー」

 と、言いながら、銀色は空になりかけた男の皿に生ハムをまた、取り分ける。

「はい、ボス。パンのお代わりもー」

「ランチはパスタを手打ちしましょうか。カルボナーラにハムをたっぷり入れて。ニョッキのほうがいいかしら?」

「いいなぁ。んじゃ、まずは仕事を片付けるとすっかぁー」

 健啖に朝食を食べ終えた一堂はテーブルの上の皿をざっとキッチンへ持っていく。それからそれぞれ、武器を構えてフラットの玄関を見つめた。人の気配がある。

「骸ちゃんなのよね?」

「ルッスー、ちゃんって呼ぶなよ、キショイから」

「事情はどこまで知ってんだ、お前ら」

「ゴックンが骸ちゃんに誘拐されたってことだけ知っているわ」

「それにナンか、王子の腕時計がカンケーあるんだってー?」

 王子様はそのことが癇に障っているらしい。指先でナイフを弄ぶ準備運動が妙に気合が入っている。

「てめーのせーじゃねーよ。もともとボスので、その前はイエミツのだ」

「そーだけど、あいつにやったのは王子だからさー」

「責任感じてんのかぁー?」

「責任カンジさせられそーなのに腹が立ってんのー」

 自分の心理状態を正確に分析できる王子様はあんがい頭がいい。心の片隅でアッシュグレイの美形を心配しているのではないかどうだろうかと、オカマと銀色は思ったが口には出さなかった。

 ピンポンパンポン、と、たいへん能天気な音が流れる呼び鈴が押される。

「なに、ふざけてんの?」

 襲撃を予想していたのに来訪を予告されて王子様は顔をしかめる。珍しくマジな迎撃体勢をとつていたのに肩透かしを食らったような気分。

「どーする?」

 銀色は男に尋ねた。インターホンに出るべきかと指示を乞う。男は頷き、銀色はマイクのボタンに触れた。

『チャーオ』

 王子様の十八番を奪うような愛嬌のある挨拶。

『開けるぜ。撃たないでくれよ?』

 誘拐された本人の、たいそうふざけた態度での、帰宅。