沢田綱吉は朝に弱い。

「お……、はよ……。はや、い、ね……」

 食卓を神聖視するマフィアの習慣に則り一応服装を整えてはいるが、目は半分開いていないし言葉も不明瞭。

「ごはん、作ってくれてんの?ありがとー」

 今朝の当番は自分だったのにキッチンに立っている男の背中へ礼を言う。専業主婦である母親に構われて育った一人っ子には、悠々とした度胸のようなものがあって、それは好意的に解釈すればおおらかと、いえないこともない要素だった。

「……、もしかして、遅いの?」

 男の背中に視線を当てたボンゴレ十代目は、缶詰の封を開けオーブントースターで暖める男の横顔を見て徹夜だと察する。そうだと男は返事をしないけれど、否定しない事は肯定。

「お疲れさまー。何に、そんなに、夢中になっていた?」

 自分だけが喋り、相手の『気配』と会話をする、そんな遣り方に沢田綱吉は最近、馴れてきた。極端に口数の少ない男に言葉を言わせようとする努力は最初から放棄している。犬猫のようなものだと思えば沈黙も気にならず、腹も立たない。

 男は黙って手を動かす。やがて暖められた缶詰が更に載ってフォークとともに沢田綱吉の前に置かれる。イタリア軍の戦時糧食、いわゆるレーションが。INSALATA DI RISO(サラダリゾット)とMEDAGLIONI CARNE BOVINA IN GELATINA,(牛肉のメダリオンのゼリー煮)の二つの缶。

「ありがとう。よっぽどいいことがあったみたいだね」

 いただきます、と手を合わせてから沢田綱吉は缶にフォークを入れる。牛肉は厚みが2cm近くあるサラミで、それが三個、塩コショウ風味のコンソメで煮込んである。常温ではテリーヌだが加熱するとスープ状に溶ける煮汁が実に美味い。肉に関しては、イタリアのサラミが不味い訳がない。

 リゾットは米のスープ煮、日本人の感覚からするとおじや。人参、グリーンピース、タマネギという野菜はミックスベジタブルではなくキチンと野菜の旨みを含んでいる。ごろんと黒いオリーブが幾つも入っていて、やや脂身の多い豚肉の脂肪分としょっぱさがよくあう。

 どちらも備蓄された食料の中ではこの男のお気に入り。それを沢田綱吉にまで気前よく振舞うのは機嫌がいい証拠。

「なんか、同じ缶詰なのに、イタリアのはどうしてこんなに美味しいんだろーねぇ」

 皿の端には袋入りのビスケットも置かれている。けっこうな大きさのモノが6枚。戦闘用の糧食だけあって量が多い。リゾットとサラミだけでも十分満腹になるが、うっすら甘くて小麦の風味たっぷりのビスケットが美味しくて、つい、沢田綱吉はそちらの袋もあけてしまう。

「ソレ、貸して」

 それほど大きくもないテーブルの向かいに座って、同じものをゆっくり口に運ぶ男に沢田綱吉は言った。手元には歯磨き粉のような大きさのチューブがある。それがレーションに含まれている、ビスケット用の甘い練乳だと沢田綱吉は知っていた。

 無造作に男はそれを沢田綱吉に寄越す。ありがとう、と礼を言って受け取ったボンゴレ十代目は、チューブの中身をビスケットにたらす。日本の練乳のように真っ白でなく茶色がかった甘いソレをビスケットに載せて、ぱくりと口の中に入れると舌の上にブラン入りの香ばしい小麦の味と練乳の甘さが広がる。素朴だけれど素材の質のいい甘さは優しく身体にしみて、栄養になりそう。

「んー、美味しいー。あ、片付けはオレがするよ。今から眠るなら、バス先に使っていいよ?」

「いや」

 短い否定を男は口にする。眠らないと言っているのか、バスを使わないと言っているのか、沢田綱吉には分からなかったが気にしないでおいた。空缶を軽くすすいで燃えないゴミのゴミ箱に入れて、大して汚れてもいない皿とフォークをさっと洗う。食器洗浄機は性能のいいのが設置されているけれど、二人分なら手で洗う方が早いし綺麗になる。

「何年経っても、オレにはイギリスっていう国が謎だよ。キッチンで料理をしないのに、どうして食器洗浄機はビルトインで、こんなに性能がいいんだろう」

 ボンゴレ十代目になる日本人はイギリスの大学へ進学し、そのままイギリスの証券会社に就職した。このアパートには五年前から住んで、英国英語を上手に喋れるようになった。けれどもまだ、イギリスの生活、とくに食生活には慣れない。つい愚痴がこぼれてしまう。

「ねぇ、その缶、余っているならオレにくれないかな?」

 軍用のレーション一回分にはフルーツやケーキが缶詰になったデザートついている。少なくともイタリアのレーションにはドルチェが必ずついている。それは新聞を読み出した男の肘の先でパックから取り出されないまま、忘れられたように置きっぱなし。

甘いものを殆ど食べない男と違ってケーキやぼたもちを嫌いではない沢田綱吉はイタリア語の印刷されたデザート缶が気になってならない。皿洗いの為に捲り上げたシャツの袖を直しながら乞うと、男は無造作にオリーブ色のビニールパックごと投げて寄越した。

「ありがとう。気前がいいね、ザンザス」

 沢田綱吉は嬉しそうに受け取った。缶は会社へ持っていくつもり。ロンドンの金融街、『ザ・シティ』のど真ん中、表通りに面した大企業に勤めている身の上だが昼食にも事欠く暮らしをしている。広々として清潔な社員食堂には食べられるものがない。8ポンド、日本円にして千円ほども出して供される『ビジネスランチ』の味気なさは一生の思い出になりそうなくらい。

 外に出てスタンドのフィッシュ&チップスを買うか、オーダー形式のサンドイッチ店にでも入ればそれなりの、少なくとも腹が立たない程度にはマトモなものが食べられる。けれどもインサイダー取引を防止するために休憩時間とはいえビルから出ることは原則として禁止、どうしても必要がある場合は所属長の許可が要る。社員食堂のごはんが不味いから外へ買いに行きます、というのは外出の正当な理由とは認められない。

「今日、オレ、帰って来ないから」

 沢田綱吉がそう言うと、新聞の向こう側で男が眉を上げる。紙面に隔てられ見えないけれども感覚でわかった。

「日本からヒバリさんが来るんだ。並盛財団に泊めてもらう」

 ああ、そうか。なら別に危ないこともないなと、男は判断したらしくすっと興味をなくす。一応は警護しようという意識はある。意外と真面目で、律儀といっていい面があるのだと、一緒に暮らすようになって沢田綱吉は気がついた。

「じゃあ。行ってきます」

 沢田綱吉は挨拶をして出て行く。残された男は新聞をゆっくりと読み、自室に戻って最近お気に入りのスツッチ・ウイスキー、ハイランドパークの瓶を手に取り、グラスに中身を注いだ。

 リージェンツパークの南側にほぼ隣接する石造りの古いアパートは住環境がいい。大通りから少し入っているので都会の喧騒は遠いが通りを出て信号を渡れば繁華なメインストリートで日常の買い物には苦労しない。

男の部屋は西向きの一室でカーテンを閉めてしまえば爽やかな朝は姿を消し、室内には薄暮の静寂が訪れる。寝酒に舐める琥珀色の中に、色々と思いがけなかったなという感慨が沈んでいた。

 

 

 

 

 事の始まりは二ヶ月前。もちろん、当初は別のコトを始める心算だった。

「父さんがロンドンに来てるよ。チェデフの人たちとディーノさんも一緒に」

 何ヶ月も遅れてボンゴレ十代目の『大学卒業』を祝福しに出向いたイギリスの首都で。

「オマエを疑って、監視してるんだろう。オマエが気づいていないとは思わないけど一応は教えておく」

 門外顧問の件は気がついてはいたがキャバッローネの跳ね馬のことは知らなかった。二人はボンゴレの九代目が私的な用件を頼みやすい人間だ。政略結婚を強制されようとしている養子の監視と逃亡しようとした場合の阻止を任じられているのは分かりきっている。

「オレも事情は、ちょっとは知ってるけど、オマエ、独りで逃げ出すつもりなの?」

 沢田綱吉からの遠慮のない問いに男は答えなかった。そうだと言ったらどうしてと聞かれるに決まっているから。

「まいったな。なんか、オレ、ちょっと……。ごめん」

 日本人のガキが何を言い出したのか男は分からなかった。二十歳を越えて『子供』ではなくなった筈だが、童顔の悪魔の顔立ちは相変わらず丸っこくて幼く見える。中身のとんでもなさを知っていても、尚。

「ほんとに、ごめん。こんなつもりじゃなかった。オマエがそんなにスク、じゃない、えーっと、恋人のことを好きだなんて知らなかったから」

「……」

「連座させない、つもりなんだよね」

 視線をあわせて真っ直ぐに見つめられる。うけてたった男は対抗上、目を少しも動かさなかった。超直感を持つ者同士、それで互いの心底は表裏なく分かった。

 若い日本人は自分にやってきた政略結婚の話を全力で拒否した。その拒絶は成功したが、アッチがダメならコッチだという安直さで身代わりが立てられようとしている。代わりにコレだと選ばれた男もその結婚を拒絶するために、この場からボンゴレに背を向けてしまおうとしている。そのことで恋人に責を負わせないために、敢えて自身の代行としてそちらはヴァリアーに残したまま。

「一人で行こうとするくらいオマエが恋人のことを好きだったとは思わなかった。困ったな。オレは毒入りの杯をオマエに廻すつもりはなかったんだ」

 年寄りたちが身代わりを立てようとするとさえ思っていなかった。自分が嫌がったことを押し付け、更にその為に破滅させようとしていることを、沢田綱吉は申し訳なく思っている。

「行くの、やめて」

 沢田綱吉は渡された卒業祝いの小さな箱の、リボンを解きながら願った。中に入っていたのは腕時計。

「ありがとう。使わせてもらうよ」

 時計のブランドに詳しくない沢田綱吉には、それがオメガのDe Villeだということは分からない。ただ重くない革製の、こげ茶色のバンドがいいなと思った。十代目にならこんなのが似合うわと選んだルッスーリアの見立ては正しくて気に入ったらしい。

「行かないでよ。色々今が大変な時期なのはオマエだって分かっているだろう。オレに任せてボンゴレから離れるのは心配だろう?オレだって心配だよ。父さんとディーノさんと二人がかりじゃ、いくらオマエでも無傷じゃすまないし」

「……」

 男は返事をしなかった。けれど表情は動く。負けるものかよという強壮なオスの自負心が除く高慢な表情が、顔に傷のある強面のハンサムにはよく似合う。

「しかもなんか、ディーノさんの態度がちょっと、おかしくて。もしかしてオマエを庇うために父さんの後ろに居るのかな、とかって、オレは思ってみたりしてるんだ」

 ボンゴレ十代目の頭は悪くない。ヨタヨタしながらもイギリスではまずまずの名門を卒業してコネ就職だが証券会社に勤め、OJT(職業訓練)期間が終われば本国へ戻る予定になっている。

「オレじゃねぇ」

 と、男がそこで、ようやく口を開く。

「ああ、うん。ディーノさんが庇おうとしてるのはオマエじゃなくてスクアーロさんだろうけど、結果的には同じことなんじゃないの。オマエたちの為に父さんと九代目の信頼を裏切るんだ。ボンゴレには暫く出入り禁止だろうし、協力体制も弱まる」

「それがてめぇには損失か?」

「まだ独立の準備が終わってない」

 実父や先代から離れる意思があることを、間接的ながらはっきりと、ボンゴレ十代目は明言した。

「それにさ、オマエが大騒ぎして出て行くと、いざって時に呼び戻し辛くなるから困る。『外』に居てもらうことは悪くないけど、困ったときに帰って来てくれないのは困るよ」

 新興マフィアであるジェッソが勢力を伸ばしつつある。ボンゴレの古さや権高さにうんざりしている国内の中小手にはそちらへなびく者も多い。ボンゴレ最強部隊を率いるこの男に居なくなられたくはない。

「それに、繰り返すけど、オレはオマエとスクアーロさんに、こんな迷惑かける心算はなかったんだ。ホントに、ごめん」

 謝罪は率直なものだった。まぁいさ、と、男が聞き流す程度には。聞き流すのは許すという事でもある。自分の代役が立てられるとは本当に考えていなかったのだろう。

「それでさ、オレなりに、色々考えたんだけど。オマエさ、よそに行かないでココで暮らしたら?ほとぼりが醒めるまで」

「?」

 聡明かつ明敏な男だが、その時は言われている意味が本当にわからなかった。ツケを廻した罪滅ぼしに申し出られているのだとは感じたが、ここで暮らしたらといって何がどうなるというのだ。

「ボンゴレのどんなに偉い人でも、オレの愛人に配偶者を斡旋しようとはしないと思う」

「……」

 意図は把握できた。が、あまりにも思いがけなくて、男は咄嗟に反応を決められなかった。

「もちろん偽装でいいよ。寝ようって言っているんじゃない。オレたちオス同士だしさ。けどオレの悪食も強欲もとっくに知られてるから、同棲してれぱ十分な状況証拠になるでしょ」

 確かにこの童顔のボンゴレ十代目が、実はオンナに節操がない。極上ばかりをずらり、気に入ったのを全部、そばに並べておこうという強欲さを隠そうともしていない。お互いが合意の上なら何が悪いのさ、という開き直りは見事でさえあった。

「オレは素行にいまさら傷が一つ二つ、あえても減ってもぜんぜん気にしないよ。ハルも京子ちゃんもヒバリさんも話せば分かってくれると思う」

 確かに、何をしでかすかわからないところが昔からあるガキではあった。

「オマエが悪評を嫌だと思うなら、仕方ないけどね」

 そう言って沢田綱吉はうっすらと笑った。生意気かつ見え見えな挑発。悪くないなと男は冷静に考えた。これからのボンゴレをこのガキに任せることは確かに不安だった。男としては、自分の結婚を年寄りたちが諦めてくれればそれで良かったのだ。背中を見せて逃げるより思わぬ事態で泡を吹かせてやるほうが愉快に決まっている。

「オレもさ、一人になって困ってるんだ。京子ちゃんは就職して日本に帰っちゃったしハルは日本で赤ん坊育ててるから、誰もごはん作ってくれなくなって、時々、本気で、喰うに困っているよ。一週間、ずーっとインスタントと缶詰だけだったりするし」

 沢田綱吉は家事や料理を全く出来ないわけではない。が、証券会社の新入社員というのは朝から晩まで鍛え上げられる。それから帰って食事の支度を、というのは無理なこと。

「家事は出来ねぇぞ」

「いいよ、日本から送ってもらう荷物を受け取ってくれるだけで。さっそく明日、郵便局に行って来て。母さんたちが送ってくれたのが三つくらい溜まってるから」

 イギリスのサービス産業はどれもこれもアテにならないが小包は特にひどい。悪名高いパーセルフォース社がその配達を代行しているからだ。日本でも郵便局の小包が民間委託になった時は騒動が起こったが。

「イギリスの事情はそんな一過性の混乱じゃない。イギリス人たちもあきれ果ててて居るくらいだ」

不在時に不在連絡表を入れ忘れる事はザラ。不在通知をポストに入れられて連絡しても指示した日時に再配達されるとは限らず、不在が二度続けば電話連絡をしたにも関わらず発送元へ返送されてしまうこともままある。

一説によれば不在荷物は近隣の郵便局に預けられるシステムになっていて、配達の手間を惜しんで小包の配達員が配送先には寄りもせず郵便局直行、ということが起こりがちだから、最初から不在票はないものと思っていた方が無難らしい。

24時間営業のサービス窓口というものは存在せず、ネットでの再配達指示を受け付けてくれるなどということは夢物語り。電話連絡がドライバーに伝達される可能性はごく低く、郵便局から発送元へ『送り返された』荷物がそのまま行方不明になることも多い。

「イタリアの方が、いい加減さでは同じくらいでも親切だ。京子ちゃんとかハルとかが倉庫の窓口に行けばドライバー全員に電話連絡して大捜索してくれるし。イギリスじゃあ何があってもお得意の『There is nothing we can do.』だ。私たちにできる事はありません、だってさ。……絞め殺したくなるよ」

 散々な苦労をしたらしい沢田綱吉の怨念が篭った言葉に男は苦笑。喉の奥でくぐもった笑い声まで漏らしてしまう。一人前に凄みのあるツラも出来るんじゃねぇかという感慨もあった。

「じゃあとりあえず、ごはん食べに行こうか」

 もらい物の時計を手首に巻きながら沢田綱吉も笑う。

「滞在中の経費はオレもちだよ」

 その申し出に異を唱えなかったことは全ての承諾になった。