二人きり、一つ屋根の下で暮らすという、長く一緒に居たのに実は初体験だった奇妙な幸福は五日も続いた。
「明日、帰る」
夕食を済ませて入浴を済ませた後でやるべきことをやって、まだ眠気が来るには早い時間だったからそのまま、ベッドの中で戯れあっていた。
予定がないから時間がある。そのせいでつい、いちゃついてすごしてしまう。キスをして髪を弄ってやると銀色はくすぐったそうに、でも嬉しそうに笑う。つられて男も表情を緩めた、そんな幸福な時間の中。
「そうか」
銀色の申し出を男は怒らずに聞いた。.ずっとこうしていられないことは分かっている。
「すんげぇ楽しいからよぉ、帰りたく、なくなる前に、帰る」
「また来い」
「うん」
子供のように素直に頷く銀色を男は撫でた。何か言わなければならない気がした。言わなくても分かっているだろうというのは手抜きであって、見解はきちんと伝えるべきだ、と、今の男には分かっている。
半年前、結婚の話が出たときの銀色のリアクションはひどかった。そっかぁー、じゃ、終わりだなぁと、あっさり諦められてしまった。あんまりあっさりだったのに驚いて反論を出来ないでいるうちに部屋から出て行かれ呆然とした。
ただの上司と部下のように振舞われたのはそれから数日間。でもその数日の耐え難さは忘れられない。この馬鹿に自分がどれほど救われていたのか思い知った。
「なぁ、やっぱ、オマエ正しかった、かもなぁー」
撫でられてうっとり、全身から力を抜いている銀色は少し眠くなったらしい。珍しく曖昧な語尾で男にそっと囁いた。
「オマエと、駆け落ちとかして、一緒に逃げたら、ずーっとこんなだった、の、かなぁー」
「そうだったんじゃねぇか」
「はは。……、オレ役立たずになんくってよかったかもなぁー」
「なにを言ってやがる」
「だってオマエに構われて、たった五日で、こんなに骨抜きだぜ。十日も続いたらどーなるか、なぁー?」
くすくす、笑う長い仲の情婦に。
「続けてみたくもある」
男は本心を口にすることに成功した。
え、と、銀色が驚いている、その隙に。
「帰るのは明後日にしろ」
さらに正直な要求。否を言わせないためのキス。重ねただけで離したら珍しくオンナの方が追ってきた。
「……ん」
シーツの上で姿勢を変えて、体ごと頭を抱きこんで今度は本気で唇を貪る。息も継がせない情熱を遠慮なくぶつける。震えだす寸前に開放してやると苦しそうに胸であえいだ。けれど腕は男をぎゅうっと抱きしめる。感極まってそのまま泣きじゃくるのを、男も抱きかえしながら好きなようにさせた。
「帰ったら俺の部屋を改装しておけ」
しゃくり上げては胸元に額を押し付けるオンナがどうにも可愛くて、男の口が珍しくすらすらと動く。愛しているとストレートな言葉は出にくい性質だが、命令形での要求は慣れたもの。
「え……、ぐぇ、び……、が、ぁー?」
「……はなをかめ」
甘い気分が濁音の声に打ち消され、男はうんざりしたが怒りはしなかった。裸の腕を伸ばしてベッドサイドからティッシュの箱を取ってやる。銀色の美形は何の遠慮もなく、男の胸の上で、ビーッと大きな音をたててはなをかんだ。
「どう、しとくんだぁー?どっか壊れてたかぁー?」
「好きなようにしろ」
「あぁー?なんだぁ、それー」
わけわかんねぇぞぉ、と、喚く銀色の少し赤くなった鼻の頭を男が軽く齧る。
「ってぇーっ!」
「大袈裟な声を出すな」
ここは角部屋だが一軒屋ではない。幼児の頃、アパート住まいというものを体験している男は騒音の苦情がくることを危惧した。もっとも未来のボンゴレ十代目が借りているフラットはしっかりとした造りでイギリスの建物にしては珍しく防音仕様になっている。ロンドンの住まいで上階の住人の足音が聞こえないというのは奇跡的なことだ。
「てめぇの好きに弄っとけ」
「だぁからぁー、ワケわかんねーぞぉー?」
「俺の部屋に住んどけ」
「……ッ!」
銀色は大雑把だが意外と鈍くはない。何を言われているのかきちんと理解した。ヴァリアーの本拠地、あの中世の砦を改装した館へやがてこの男は戻る。戻ったらこんな風に一緒に暮らすぞと、男が言うのは、求婚に等しい。
「おま……、マジ、かぁ……?」
「イヤなのかてめぇ」
「全然イヤとかじゃねぇよ。けどオマエ、すっげぇ人嫌いのくせに、他人と一緒に暮らしたりできんのかよ?」
「暮らしているだろうが、今」
「ああ……」
言われて銀色は、そういえばこの男がもう数ヶ月、かつて敵対した澤田綱吉と過ごしていることを思い出した。
「まぁ、オマエはなんでも、やりゃ出来る男だけどよ……」
「部屋はてめぇの好きなように作り変えていいぞ」
「いや、別に……、あのまんまで……」
ヴァリアーの砦の最奥、幹部たちが暮らす居館の三階は全部がこの男の私室。膨大な蔵書が収まった書庫、壁一面のサイドボードに世界中のウィスキーが並んだ居間。ジャグジーつきのバスルーム、日本のワンルームマンションより広いウォークインクローゼット、そうして使われていないが警護の控え室もあって、二人でも広すぎるくらいだ。
「ベッドはどうだ」
「どう、って、オレとオマエがもう一人ずつ居ても大丈夫だろ」
「てめぇには柔らか過ぎねぇか」
この奇妙な『家出』をする前、男は銀色の部屋に入り浸っていた。そのベッドのスプリングが固めだったことを思い出しながら尋ねる。男自身は体が沈みこむようなウォーターベッドを愛していて、もう何年も、スプリングのベッドには眠っていなかったが。
「てめぇがイヤなら買い換えろ」
「……別にイヤじゃねぇよ」
「無理しなくていいぞ」
「むりなんか、して、ねぇ……」
銀色の語尾がふにゃんとしてくる。また泣き出す前に男は後ろ髪を撫でてやる。ちょっと優しくするとうろたえたり泣いたり大袈裟なヤツだと呆れるが演技でないことは分かっている。つまりそれだけ優しさに慣れていないのだ。慣らしていない責任は自分にあるだろう。
「寝るぞ」
「……おぅ」
同じベッドでつがいの獣のように、眠ることにさえまだ慣れていないオンナが愛しくも切ない。
翌朝。
夜明け前、なのに鳴らされる呼び鈴の音。
「……」
むくり、と起きたのは寝起きのいいオンナ。カーテンを閉じて真っ暗な部屋の中、男も目は覚ましていたが低血圧なので自主的に起き上がることはなかった。
「出るな」
夜目のきく銀色が脱ぎ捨てた服をばさばさと着込むのを眺めながら、男には訪問者が分かっていた。
「んなワケいくかぁー、サワダツナヨシだろぉー?」
このフラットの一階入り口は夜間、施錠される。電子キーを持っていなければ各戸の呼び鈴を鳴らすことさえ出来ない。
「アツイがわざわざ、こんな時間に来るってこたぁ、大事な用じゃねぇのかぁー?」
銀色の滞在に粋をきかせてこの家に帰ってこなかった未来のボンゴレ十代目が、やって来たのは緊急事態に決まっている。
「なぁ、出ていい、よなぁー?」
銀色も長年、この男に仕えているのではない。ノーと言われにくい表現はきちんとを学んでいる。
「好きにしろ」
乞われるとつい鷹揚に答えてしまう御曹司だった。シャツとスラックスを身に着けた銀色が部屋を出て行く。男も仕方なく、嫌々ながら起き上がり、とりあえず下着を身に着けようと壁際のクローゼットを開いたところで。
「ザンザス、時計ッ!獄寺君がっ!」
ノックもなしにドアを開けられる。声と足音が廊下から聞こえていたので男はあわてなかった。
「ひーっ!」
自分で見といてその声はねぇだろうと考えつつ、アッシュグレイがどうしたのかは、気になった。