すべからく、すべて・11
目覚めると、目の前に彼が居る。
それだけで幸せだった。……とても。
まんまと罠にかかって、バスタブに縛りつけられてもう、何日かが、過ぎた。
そうして俺はもう、自分が助かることは……、諦めた。
今、考えてるのはこの人のことだけ。俺がこんなところに繋いで不幸にした。だから、せめて。
せめて、この人だけは助けたい。
俺が繋がれたバスタブに寄り添うように、バスルームの床に座り込んで、タブにもたれて眠る人。こんな風になって以来、ずっとそうやってる愛しい、人。
痩せた頬、疲れてやつれを隠せない、目元。睫毛の翳りが青いほど憔悴して、それでも俺を守るように、必死で俺のそばに居ようとする。
……時々。
男がこの人を、俺のそばから引き剥がす。
この人は抵抗する。力づくで抱き上げられて、風のよく通るリビングのふかふかのベッドの上に運ばれて尚、触ろうとするその男に抗う。男はそのたびに困り果てて、この人が力尽きて抵抗がやむまで、待つ。時々は、弱ってる人の必死さを見ていられないのか、身動きできないように、きつく拘束して。
ガラス貼りのバスルームからは、何もかもが見える。
そぉっと、彼を宝物みたいに抱く男の切なそうな表情も、最初から最後までかぶりを振り続ける彼の、悲しみも。
男は彼に、ひどいやり方はしなかった。そっと、さっと、痛めないように抱いて手を放す。放されると、彼はシーツでカラダを隠しながら男から離れる。離れて俺の、そばに来る。俺のそばで声をあげずに泣く。無理に犯されたのだと、俺に赦しを乞うような肩の震えがたまらなかった。
こんな人を、俺は散々、痛めつけたのだ。
俺をこんなに愛してくれている、人を。
……ごめんね……。
人質よりも悪い、謀殺される予定の捕虜として腕を拘束されて、俺は彼に、してやれる事がなにもない。せいぜい、首を傾げて、髪に鼻先で触れて慰めてやるだけ。それだけ。
それだけでも、彼は楽になるらしかった。
慰めるうちに肩の震えが止まる。そうして俺に、そっと腕をまわす。縋りつくより守ってるみたいに。実際、俺は、彼に守られていた。食事も洗顔も、ありとあらゆる世話も、彼がしてくれている。バスルームに住み着いたみたいに動かないのも、眠ってるうちに俺が何処かに移されたり、殺されたりするんじゃないかって警戒しているのが、分かった。
彼を時々、抱きに来る男。
ナンとかって活動グループの、すくなくとも、この屋敷を占拠してる連中の頭らしい。この部屋に、彼を抱きに来るのがそいつだけなところを見ると、統率はとれているらしい。組織の質はカネの動きとオンナに対する掟を見れば、すぐ分かる。
分かる事は、他にもあった。
男はやって来るたびに、いかにも彼の、カラダだけ使いに来た、みたいにそっけなくしてるけど……、演技だ。
ほれてることは一目瞭然だった。
嫌がってバスタブやドアにしがみつく彼の、手指をそっと、剥がすしぐさとか。
抱いた後、彼が俺のそばで泣いているのを、見てる視線、とか。
あてが外れた、って顔を、してる。
ヤツにしてみれば、金と権力で無慈悲に飼われてる奴隷オンナを、解放して感謝されて、あわよくば好意を愛情に横滑りさせて……、ってことを、考えていたんだろう。
あてが外れたようだった。
彼に嫌がられるのが、とても辛そうに見える。
愛してるのか、この人を。
そうだとしたら、俺に勝機は、ある。
おれは、どうしても、ナニをしても、この人のことだけは助けたかった。
無事で戻してやりたかった。本来、この人が居るべき、幸せな世界へ。
朝日の中、眠る彼の顔に、見惚れているうちに彼が目覚めて、目をあける。
俺は曖昧に笑い掛けた。少し寝ぼけた表情で彼は、でも、にっこりと俺に笑う。陰りなく明るく優しく、彼が笑うのは俺のためだ。俺を不安にさせないように、俺を安らがせるために、そうやって。
あんたはずっと、無理をしてきたんだね。
……ごめん。
オハヨウの代わりに軽くキスをして、まず、彼はタオルを濡らして絞って、俺の顔を拭ってくれる。それから髪に櫛を入れる。シャンプーのボトルを手にとって、するか?という風に首を傾げる。いいよ、と俺は首を横に振る。頷いて、彼はリビングへ戻る。そこの小さな冷蔵庫の中には以前と同じように、新鮮な果物が皮を剥かれ切り分けられて、盛り付けられている。
それは多分、あの男の指示でこの人のために。でも、この人は果物を、俺に差し出す。よく冷えたバナナに噛み付く。縛られたまま動けない俺は食欲をなくしていて、冷えた果物だけが美味い。
バナナとマンゴーと、グレープフルーツの食事を終えると、あとはすることはない。ただ、彼は俺のそばに居る。優しく寄り添ってくれる。甘い切ないキモチになりかけながら俺は、今日当たり、潮時かなと、思っていた。
……取引だ。
あの男は、俺のオンナにベタぼれ、してる。
それが俺の、唯一の勝機。
俺の内心を読んだようなタイミングで、不意に、廊下に続くドアが開く。
びくっと、彼が震えるのが分かった。
男はって来た時から不機嫌そうだった。朝っぱらから来るってことは、夜通しの見張りでもした後か?黒のコンバット・スーツ姿の、胸元だけ開けたシャツの上にはガンホルダー。拳銃の種類なんかは俺には分からないが、木製の銃握に黒光りした鋼鉄の存在感は、ベトナムあたりで作ってるコピーの紛い物じゃなさそうだ。
男は、相変わらずバスルームに、俺のそばに居るオンナに眉を寄せる。徹底的に不機嫌そうだった。シャツの襟がちょっとヨタッてて、睡眠不足だって、血走った目が告げる。なんかあったのか……?
不機嫌な勢いのまま、バスルームからオンナを連れ出そうとする。その強引な手に彼は逆らう。それもいつもの通りだった。
「こっちへ来なさい」
いつも丁寧な口をきく男だが、今日はそれが、少し、響きが低い。今の台詞も、誘い文句より脅しの要素が強かった。
「ほら、手間をかけさせないで。痛い目にあいたくないでしょう?」
ロンドン・タイムズあたりの記者が使いそうな、完璧なブリテイッシュ・イングリッシュ。
「ほら」
彼は嫌がる。いつもどおりの、揉め事。いつもどおりじゃなかったのは俺だった。いつもは、二人の攻防に沈黙を守っていたけれど。
「いうこと、ききな」
初めて、その日は口を出した。
「そいつのいうこと、きいて優しく、してもらいなよ」
男と彼は同時に振り向く。男は眉を寄せ、彼は信じられない、って風に目を見開いて。
「俺もう、あんたのこと守ってやれないから。そいつに可愛がってもらって、守って、貰えよ」
大人しく抱かれろ、って意味に等しかったから。
彼は、見開いた瞳をみるみる、潤ませた。
「仕方ねーじゃん。あんただけでも、助からなきゃ。生きてよ」
泣く、彼は、バスタブにしがみつく力さえ、なくして。
男に軽々と、抱え上げられてベッドへ、運ばれていった。
それから、二時間後。
彼はベッドから起きてこない。失神している、らしかった。
彼の代わりに、男がやって来る。俺に話をしに。その前に煙草を吸う。
「一本、寄越せ」
ニコチンの味が恋しくて俺は言った。男は黙って俺にシガーケースを差し出し、俺が一本、咥えると火を点ける。深々と胸に吸い込む。ラークの、味がした。
「取引しねぇか」
話し出すのを待たれているのが分かったから、自分から、そう言って。
「お前達に都合のいい遺言を書くぜ。何通でも」
「……」
「小切手も切る。どっかのホテルか、飲み屋にあてて、失踪前の日付で。代理人を、捜せ」
「我々の目的は金銭ではありません」
「でも金も要らないわけじゃないだろ?」
「彼をくれる代わりに、自分を逃がせと、言うと思いました」
「まさか」
俺はもう逃げられない。それはもう、分かってる。
「……あの人、可哀相だったろ?」
俺は、攻め口を、変えた。
「恋人だったんだ。別れ話、持ち出されて、俺がブッ千切れるまでは。誘拐して、ここに繋いで、あとはお前も知ってる通りだ。可哀相だったろう、あの人」
俺に、散々、ムリヤリに、されて。
いつも泣いてた、かわいそうな、人。
「助けてやってくれ。……頼む。あの人、日本人だ。日本には両親も友人も居る。幸せに、平和に生きて、いける筈の人だった、んだよ」
俺が歪ませて、こんな憂き目を見せるけど。
「お前達の都合が言いように、電話でもなんでも、掛けるから、彼を」
自由に、幸せに。戻してやってくれ。
「……頼む」
男は返事をしなかった。俺が煙草を吸い終えるのを待って、吸殻を洗面所で水で濡らして完全に消してからゴミ箱へ、投げ捨てるまで。
「故郷に、つれて帰るつもりでいたんですが」
男はさらっと、そう答える。自分のものに、するつもりだったのだ、と。
「帰してやってくれ。すぐが無理でも、何年か、したら」
彼の肢体に溺れてる、この男に、今の今、手放せと言っても無理かもしれないが。
「たのむ。なんでも、する」
男は結論を出さないまま、バスルームを出て行く。そして、ベッドの上の、彼に。
「……マダム」
そっと、優しく、話し掛けた。
「目を覚ましてください。もう少し、遊びましょう?」
淑女をダンスに誘うような、礼儀正しい申し出。彼は目覚めて、いたのかどうか。やがてゆっくり、身動きする気配。
「……、え?」
男は、なんだか、とても驚いていた。
「あなた、言葉がしゃべれたんですか……?」
びっくりしてる。無理もない。彼は、心因性の失語症だった。だったろうと、思う。医者に見せていないからよく分からない。
「それは……、無理です。……ムチャを言わないで」
俺に対するときとは声の高さからして、全く違ってる、男の戸惑い。
「それは、そうですが……、でも……」
白い、腕が。
男の背中にまわるのが、見えた。
……誑しこんでんの?
「……、です……」
男の声が、低くなる。
「マダム、聞いて下さいますか。わたしは、初めて、あなたを見た時から。……そうです。あなたを裸にしてカメラに映るように、手足を開かせた、あの時です」
俺が不在の時の、使用人たちの主要な仕事の一つ。
「震えてるあなたが、とてもいじらしくて……。一目で恋におちました。……スキ、です」
男の告白が感極まって、俺のオンナを、ぎゅうっと抱き締めた。俺は少しだけ泣きたくなった。俺のオンナが今、別のオスに抱かれてる。
つらい。悲しい。腹が立つ。
でも……、ほっとも、してる。
その調子で、そいつをうまく懐柔して、生き延びて。
あんただけでも……。頼むから。
愛しているよ、アニキ。
ホントにこの世で、俺はあんたのことだけを、愛した。