すべからく、すべて・13
煙草を。
そんなに吸ったら身体に悪いんじゃないかな、って思った。
でも口に出せない。
怖いから。
さっきから口をきいてくれない。俯いてソファに座る俺を視界の端にも入れないでそっぽを向いたまま。
大きなホテルの最上階。足もとまで届くガラスが明るい、スイートのリビング。それがだんだん翳っても、なんにも言ってくれない。静かな部屋に啓介が煙草に火を点ける音と煙を吐き出す音だけが、響く。
太陽が沈んでいく。南東に面したこの部屋からは夕日は見えない。でも空の色で、今日が見事な夕焼けということは分かった。茜が紫になり、やがて群青に沈んで闇に熔けたとき、明りを点けないままの部屋は薄闇に沈んで、それでようやく、俺は勇気が出た。
「……ごめんなさい」
顔をあげることは、出来なかったけど。
「言いつけ、破って、ごめんなさい」
シーズン中のサーキットには近づくなって、重々言われていた。レースウィークは電話さえ許して貰えなかった。その期間はひどいストレスがかかるから大事な相手とは距離をとっておきたい。乱暴な態度や冷淡な言葉を、とったり言ったり、しないとは限らないから。
『そんなんであんたのこと傷つけたり、あんたから嫌われたり、したくないからさ』
再開した時からそう言われて、カラダを重ねた後も何度か、念を押すように言われた。啓介の言うことはよく分かったし、納得もしたから言われた通りにしてた。でも。
俺は心配だったんだ。啓介の事故が。どうしても会いたくて無事を確認、したくって。
「ごめんなさい」
謝る、俺に啓介は返事をしてくれない。でも煙草に火を点ける音はもう聞こえてこなかった。
「……でも、ナンにもされて、ないよ……」
伝えたかった肝心の言葉を告げてみる。
「逃げたから。手を掴まれた、だけ……」
執事に呼んで貰ったハイヤーで、俺はここへと駆けつけた。でも。
啓介が泊まってるホテルは大きくて、しかも関係者以外は立ち入り禁止だった。緊急時のために教えられていた番号にかけてもマネージャーとは連絡がとれず、ホテルの前で、俺はたち尽くしていた。
そうしてそれは、俺だけじゃなかった。レーサーやレース関係者が泊まってることはファンたちには知れていて、ホテル近くの喫茶店や歩道、公園なんかには若い女の子やカメラを携えた男たちが群れていた。その群れの中に埋もれて俺は、ホテル最上階のこの部屋を見上げることしか出来ないで居た。
なるべく近くのホテルにでも、宿をとってマネージャーからの連絡を待とう。宿をとれば、事故の続報がわかるかもしれない。そう思って引き返し、駅近くの適当なホテルを物色していた時。
名前を呼ばれた。
俺の名前だった。
振り向いたら、道路の路肩には渋いモノトーンの車が、俺が歩く速さに合わせたゆっくりした速度で動いていた。ハンドルを握っていたのはサングラスした若い男で、やさしい顔立ちをしてた。
男は俺を、まじまじと見詰めて。
『涼介さん。高橋、涼介さん……?』
俺をそう呼んだ。俺は頷いた。サングラスごしでも、それが誰なのか分かったから。啓介と同じ日本人レーサーで、よく首位を争っている、藤原拓海。啓介に比べると小柄で細身で、実際の年の差より遥かに若く見える。でも目の光り方は恐ろしく強い。
『……、なんで……、ここに居るの……?』
俺のことを幽霊でも見るように言った。俺は戸惑い、ああでもそういえば、って思った。覚えていないけど、俺は以前から啓介の恋人だったのだとしたら、レーサー仲間の藤原に顔を見知られていても不思議はない。
『なんで?』
考えなかった、訳じゃない。
俺と啓介のことがバレたら啓介が困る、とか。
俺が知らない昔の俺を、相手がどんな風に知っていたのか、とか。……でも。
俺は啓介の怪我が心配だった。とても、凄く。分別をなくすほど。他には何も考えられなくなるくらい。
『啓介がどうなったか、ご存知ですか……?』
そっと尋ねた。藤原は答えなかった。ただ俺を、じっと見詰めて。
『俺のこと、分かんないんですか』
そんな風に、悲しそうに尋ねられた。ごめんなさいと、俺は答えた。覚えていなかったから。
『どうぞ』
そんな風に言われて、後部座席のドアが自動で開く。
『乗ってください、どうぞ』
そんなことをいきなり言われて、戸惑う俺を藤原はじっと見て、そして。
『……話が、あるから、乗ってください』
それでも俺は躊躇した。そうしたら。
『啓介さんのことで、すごく大事な話があります。……乗って』
啓介の名前につられた。そして道行く女の子たちの一人が、藤原に気づいて騒ぎ出したこともあって、俺は開かれたドアに体を滑り込ませる。自動で閉じてロックの掛かったドア。シートはふかふかでキモチイイ。でも俺は、それどころじゃなくて。
『啓介、どうなりましたか?』
事故の怪我がどの程度なのか、知っていると思って尋ねたら。
『……凄いね、あいつ……』
車は、俺が入れなかったホテルの駐車場に滑り込んでいく。カメラがナンバーを確認し、俺には閉ざされた門が開いていく。啓介に会える。そう思って、とても嬉しかった。
だから、気づかなかった。藤原拓海が、ひどく剣呑な目を、俺に向けていることに。
『こんなこと、出来るんだね、あいつ……』
車を、降りて早く部屋に駆けつけたかった。なのにドアのロックは開かない。開けてくれって俺は言いたくて、でもその前に連れて来てくれたお礼を、と思って振り向いたら。
目の前に、藤原の顔があった。
シートから上体を乗り出して、俺を、押さえつけるみたいに。
『涼介、さん……』
な、に。
『信じらんないよ。あいつ、なんでこんな真似、出来るのさ……?』
ちょ……、なに……。
驚いて、怖くて強張っているうちに、俺は藤原に抱き締められた。
それでもまだ、力は弱かった。俺の肩と背中に遠慮深く、そっと手を添えていた。
『あの……、ふじわら……』
さん、と続けようとしたけれど。
『ブチコロシテ、ヤル……』
藤原の声が震えてることに気づいてそれどころじゃなくなった。ゆっくり俺を向いた目は据わっていて、白目が青く冴えていた。俺は逃げようとしてドアに指をかけた。けど、運転席で集中ロック、されていて。
『俺の部屋に行こう。ゆっくり、話が、あるから』
冗談じゃなかった。俺は逃れようとして暴れた。けど、優しい顔してても細身でも、相手はプロのレーサーだった。死に物狂いになってもびくとも、しなかった。
『ねぇ、涼介さん。俺……、俺ね……』
息の上がった俺を悠々と腕に抱きとりながら藤原が言った。
『俺……、あなたの、こと……。ずっと……ッ』
語尾が掠れた。顎をつかまれた。キス、されそうになった。嫌だった。キスだけじゃ許されそうにない雰囲気だったから。唇を重ねたら相手の堰が切れることは分かっていた。
犯られる……ッ。
恐怖した。だから、過剰防衛をした。してしまった。啓介が時々、それで煙草に火を点けていたから位置はわかってた。俺は。
正面パネルに手を伸ばした。必死に、伸ばした。指に当たったシガーライターを、それでも相手の、耳の後側。焼いても被害が、少ない場所に……。ごく軽く……。
なんでか。
藤原を、怖かったけど、そんなに酷く、傷つける気にはなれなくて。
ハンドルを握る指とか、目とか、傷跡の残る顔とか。そんな場所に当てるつもりにはなれなくて。
『アチッ』
藤原は悲鳴を上げて俺から離れた。俺はその隙に、藤原の体を越えて集中ロックを解除しようとした。慌てていたから、シガライターを真っ赤に焼けたまま、腿の上に落として。
スラックスの生地がこげる嫌な匂いが、した。
『ちょ……、涼介サンッ』
厚さに驚いた間に藤原は態勢を直した。俺のシャツに手を掛ける。乱暴にたくし上げられた。抵抗の間さえ与えられずに、ベルトを奪われ、前のファスナーを、外されて。
『……ヤメロ。誰かッ』
膝まで剥がれたスラックスのせいで相手を、蹴ることも出来ない。それでも暴れようとする、俺に。
『すぐ、人、呼んで来るからッ』
心配しないでと言って藤原は車のドアを開けた。俺が降りようとする間もなく自分が飛び出して駆けていく。足は速かった。
暫く、呆然と見送った後で。
それどころじゃないと気づいて、慌てて車から転がり落ちた。
監視カメラで見ていたのか、すぐに警備員が駆けつけてくる。
高橋啓介に連絡をと、俺は願って、それは叶えられた。
……それだけ。
確かに、ムリに引き上げられたシャツはボタンが跳んで、スラックスのジッパーは壊れて動かず、俺は手で、それを押さえてる。警備員たちが心配したとおり、いかにもレイプされかけました、って姿だし、そうでないことも、ないと思うけど……。
俺はでも、人を呼んで来るからって、飛び出していった背中が、どうしても。
単に、俺を犯そうと、したとは思えなかった。見据えられた瞬間はとても怖かったけど、でも。
だから、啓介にはキス、されそうになったことは言わなかった。このホテルに連れて来てもらった。ライターを腿に落とした。火傷が広がらないように服をはだけてくれた。それだけしか。
啓介は……、勿論、信じなかったけど。
「……触って、くれ」
スラックスの前を押さえた手を外しながら、乞う。触れてくれればきっと分かる。下着の内側も外にも湿りはない。本当に、なんにもされていないのだ。
「な……、触って……」
暗闇の中で半端なスラックスを脱ぐ。一緒に下着も床に落とした。靴を脱いで、靴下も。シャツまで脱ぐ勇気はなかった。ソファから立ち上がり啓介が立ってる窓際まで歩く。夜景が啓介の、ひどく苦しそうな横顔を照らしていた。
そんな顔、しないでくれ。
本当に、何もなかった、んだ。
「ごめんなさい……」
言いながら、啓介の背中に頬を寄せる。女の子が甘えるような、仕草で。
「心配で、どうしても、じっとしてられなかった。ごめんなさい」
カラダで機嫌をとる事を、俺は最近おぼえた。もともと俺には優しかった啓介だけど、女の子みたいに抱かれるようになってからは、宝物みたいに扱われてる。その反面、怖いことも増えた。啓介の機嫌を損ねて冷たくされるのは……、辛い。
「元気な顔、見たかった、んだ。……ごめんな……」
男の背中に寄り添ったまま、俺はじっとしてた。啓介は返事をしない。でもさっきより随分、雰囲気は優しかった。煙草に火を点けようとしないし、俺の言葉を、聞いてくれてる感じが、する。
「……怒らないで、くれ……」
暗闇の中で願う。五分後、俺は明るい寝室に居た。ベッドの上で、仰向けに。シャツの裾から伸びる素足の足もとに啓介が居る。火傷の跡を、絞ったタオルで冷やしてくれている。優しい。
「傷、つけるなよ。大事にしろ」
うん、と、素直に頷いた。
「消えない痕、残すな」
ごめんなさい。ちゃんと気をつけます。
そう言ったのは、アイシテたから。俺は啓介のものだから。もちろん交換に、啓介も俺のものだと思ってた。歳とか、立場とか、そんな要素では対等じゃない俺たち。でも啓介の愛情が、自分のものだってことは信じてた。だから俺は啓介に、俺自身を差し出した、のだ。
もらった優しさに返せるものが、俺には俺以外になかったから。
俺は……、啓介のそれを、ずっと、貰って居たかったから。
「お前のものじゃないんだぜ……」
俺のカラダは啓介のものだと、そういう意味と、思ったから。
「……はい」
素直に、返事をした、の、に……。
……………………ウソツキ……。