すべからく、すべて・15

 

 

 朝。

 の、目覚めは俺は、いつもいい。寝起きが曖昧なことは滅多にない。

 けど、時々。

 ほんの時たま、啓介と久しぶりに寝て、抱かれて泣きすぎた後の朝は頭が重くて、目蓋も同じくだ。目を覚ましても現実がうまく認識できずにぼんやりと、してる。

「……おはよ……」

 でもお目が目を開いたことに気づいた啓介が、ベッドのそばまで来てくれた。続き部屋の居間にはマネージャーが居る。啓介の身支度を手伝ってる。啓介はすっかり服装を整えて、あとは上着を羽織るだけだった。今日は、レースの本戦の日。予選途中で事故った啓介はタイムが伸びず、本当ならば予選落ち。でも、前回の優勝者だったからその関係で、最後方からのスタートながら本戦に、出られることが決まっていた。

 レースはまだ始まらない早朝の時刻。なのにもう、行くのか……。

「主宰者に、挨拶しに行かねーといけねーんだよ。走らせてもらえたからな」

 後方スタートでは、去年みたいな独走は望むべくもない。でも、もともとが得意なコースだ。戦いに対する意欲を見せて、啓介は強く笑う。俺も、笑い返そうとしたけど出来なかった。

 全身が、骨を抜かれたようにだるい。表情さえ、うまく変えられない。

 夕べ……、の……、衝撃がまだ、残ってる……。

 啓介の掌が俺の髪をなでる。俺は目を閉じてその感触を貪る。昨夜も、この手は大きくて熱くて、そして……。

 ナニモカモを知っていた。

 俺が知らない、俺自身を。

 唇と手指だけで、俺は散々に泣かされた。表皮を撫でられて、時々、弱い場所を指先で弄られる、だけなのに、俺はみっともなく悶えた。わざと露骨な生殖器は避けて、腰骨、胸元、耳たぶ、背中なんかに、触れられるたびに俺の内側に潮が満ちて、やがて溢れて、零れ落ちるのを。

『……イイコ……』

 男は満足しながら眺めた。俺は、泣いた。自分だけ昂ぶってこぼすのが惨めで、情けなくて。

『今更、泣いても遅いんだよ。あんたがスキモノってコトぐらい、とぉに……』

 承知していると、囁く男はウソツキじゃない。ここがイイだろ、ここもスキ。そんな風に触れられる場所は確かに、俺の深部に繋がっていて、淵から潮を溢れさせる水路だった。

 イヤだと。もう、やめてくれと。

 途中で何度も、泣いて頼んだのに。

『虐めていいって、言ったダロ。……これぐらい、カワイイもんだぜ……?』

 吐情を何度か繰り返されると、舐められる刺激さえ苦痛にすり変わる。剥けて腫れた場所を指と唇で、啓介はいつまでも弄ってた。

啓介の欲望を受け入れる時の苦痛とはぜんぜん、種類の違う、痛み。

それは、『あそばれる』悲しさを含んでた。

『あんたが俺に、した事に比べりゃ、な……』

 低く囁かれる昔の罪。それを言われると俺は黙って大人しく、されるがままに受け入れるしかない。俺が……、自分が昔、何をしたのか、知りたいと思うのはこんな時。

 啓介は思い出すなと言った。必要ないから、忘れていろ、と。俺は啓介に逆らうつもりはない。でも肝心の啓介は俺の昔を少しも忘れてない。忘れられないままで虐められるのは、やっぱり少し、辛くて……。

『……なぁ……』

 愛撫という名の苛みの途中で、喘ぎながら。

『藤原拓海って……、俺のナンだったの……?』

 昔の俺は、あれと浮気でもしたのか。だったらきちんと話をしなきゃ。今は啓介だけを愛しているんだと。だから、他の男に、身体に触れられるのは困る、って、きちんと……。

 そう、思ったから尋ねたのに。

 ……なのに……。

 

「アサメシ、食べれる?」

 持ってこさせようかと、啓介が言ってくれる。俺は無言で頭を横に振った。拗ねてるわけじゃない。でも食欲は、少しも湧かなかった。そんな俺に啓介は細く溜息をついて。

「今夜は、遅くにしか帰って来れないから、ゆっくり寝て、起きたら家に、帰ってろ」

 思い掛けないことを、言う。

 敷布の上で滑りそうになりながら、びくっとしたくらい、思い掛けなかった。

「言ってただろ。レースウィーク中の俺には近づくな、って」

 言われてた。理由も夕べ、散々に思い知った。でも。

「休暇に入ったら、俺もすぐ戻るから」

 それはまだ十日も先の話じゃないか。ソレまでの間、俺を引き離してお前はどうするの。

 誰と、なにを。俺じゃない誰かとあんなこと、するの……?

「おんなのひと……」

「ん?」

「今夜ここで、あんな風に抱くのか……?」

 そうとも、違うとも啓介は答えない。ただ、俺の唇に軽く、重ねるだけのキスをして。

「帰れ、いいな。……居たら、どんな目にあっても知らないぜ」

 脅迫じみた声と目線でそう告げて、離れる。呆然とする俺をベッドに残して寝室とリビングを隔てる引き戸を左右から、引いて俺を、寝室に残した。

「……、すよ……」

 マネージャーの声が聞こえる。

「悪趣味ですよ、まだ子供じゃないですか。マスコミにでも、かぎつけられたら……」

 啓介の返事は聞こえない。

「……、だけなら、いくらでも、上手い女を呼びますよ……、……、藤原……」

 その名前にぴくんと、俺が反応しかけた瞬間。

「黙れ」

 啓介の厳しい声。それからは二人が部屋を出て行くまで、ずっと沈黙が続いた。

 

 

 悲しい気持ちで眠りなおして、目覚めたのはお昼前。

 暗い気持ちで重い身体を引き摺って、浴室へ向かう。昨夜、散々、そこでいたぶられた。

 ……藤原拓海の名前を出した、途端。

 啓介は豹変した。本当にかわった。俺を、殴りはしなかったけど痛いほど乱暴に掴んで引き摺って浴室へ向かった。何をされるのか分からないまま、それでも嫌な予感に俺が暴れると。

『……ベッドでだって、俺は構わないぜ……?』

 怖い、顔で、言った。

『自分で濡らしたシーツの上で眠るか……?』

 ……シーツを。

 汚してしまうのは、いつものことだったけど。

 言い方が……、怖かったから、脅えた……。

 それからここで……。このタイルの上で……。ホントに、もう……。ナンで……。

 大口径の蛇口はすぐに、バスタブに湯を溢れるほど注ぐ。その中に身体を沈めて、俺は自分の膝を抱く。暖かな湯が身体に染みてくる。くるけど……、イタイ……。

 俺は、ホントに、全部を知られていた。

 カラダの秘密、何もかも……。思い出しただけで泣きたくなる……。泣けて、くる……。

 レース本番前のレーサーはストレスが高い。それは分かる。そこにのこのこ、出て来た俺が悪い。それも分かる、けど……。

 セクスって、あんな風にするもの、なの……?

 昔何度も、したって啓介は言ってた。……そうなの……?

 だったら多分、昔の俺が逃げたのは、きっと、アレがイヤだったからだよ。……きっと……。

 ちょっとでも、俺に、優しさ、愛情、そんなものがあるなら。

 ……あんなことは、しない。出来ないと、思う……。

 泣きながら言った。泣き声で訴えた。啓介本当は俺を嫌いなの、だったら今すぐ……。

 コロシテくれ、なんて自意識過剰な台詞は……。

 最中だったから、言えた言葉だったけど……。

 啓介は、でも止めなかった。苦しんで泣いてる俺を、ひどく楽しそうに眺めた。いつどんな風に終わったか、俺は覚えてない。意識は、かすんで、俺は錯乱の中に逃げた。

 思い出しても悲しい。悲しかったから膝を濡らした。涙が流れるままに任せる。それでも俺は、出て行く気にはれなかった。

 ……知らなきゃ……

 自分がなにしたのか、今夜こそ啓介に教えてもらおう。そして啓介が俺を許せるかどうかも、教えてもらおう。許してくれない、なら……。その時は……。

 さようなら、するしかないかもしれない。

 したくはなかった。俺はナンにも出来ないから。高校を休学中の俺は就職するにしても、まともな職にはつけないだろうと思う。啓介に与えられるこの生活の、豊かさとはぜんぜん、違う暮らしになる。でも……。

 暖かな湯を掻いて、てのひにすくって、泣き顔を拭った。

 でも仕方ない。……俺は、啓介に売春、しているんじゃないから。たとえ形は、囲われた情人そのものでも。

 俺は、啓介を愛しているんだから。

 愛してもらえないなら出ていく。それは、仕方がない、こと……。

 

 

 長い時間をかけて入浴をすませて、ブランチを軽く食べた。中継でレースを見る。俺の愛しい、音が凛々しく、戦ってる姿がそこに映ってた。……素敵だった……。

順位は五位。最後方からのスタートなのに、ポイント圏内に入るなんて凄い。予選の失敗は啓介に責任のない事故だし、修理されたばかりの、熟成の足りない車でそれだけの戦績を、残せるなんて、すごい……。

日暮れにはちゃんとした食事。お酒もワインを、グラスに半分だけ。そうした方が肌がきれいになることを経験で知ってた。

 時計の針が進んでいく。俺は啓介の帰りを待つ。日暮れに一度、マネジャーから電話がかかってきた。帰らないのか、と。俺が居るなら女の人を呼ぶわけにはいかないからだろう。

 帰らない、と、俺は答えた。どんな目にあっても良かった。本当のことを知りたかった。

 そして、多分、啓介も。

 俺が待ってることを心の底では望んでる。そう、確信があった。どうしても俺を家に帰したいのから、SPの男たちに囲ませてムリにでも車に乗せるはず。そう、されないで自由意志に、任されているのは、つまり。

 自分の意思でここに居ろ、ってことだろう……。

 何があっても、俺自身の責任で……。

 ……ずるい男……。

 でもスキ。大好きなんだ……。早く帰って来て……。

 話をしたかった。セクスもしたくない、わけじゃなかった。でもそれよりも、一途な気持ちかある。

 

 ……会いたい……

 

 男を待ってる俺の、一番の、核。

 

 

 日付が変わった頃、ようやく啓介は帰って来た。

 お酒の匂いがした。マネージャーに支えられている。足もとがおぼつかない。でもそれはよく見ると、酔ってるせいじゃなかった。

「……、ナニ、なんで……」

 レセプション用のタキシードの、カマーバンドは引き千切れて先端は見当たらない。ネクタイも同様。シャツさえ、ぐしゃぐしゃ。そして啓介自身も、ボロボロで……。

「……、ナンでも、ねぇよ……」

 なんでもない、って様子じゃなかった。それでも俺は支えて、啓介を部屋に導きいれた。奥の寝室までは遠かったから、手前の居間の大きなソファーまで、どかっとそこに腰をおろすなり、啓介はごろんと、仰向けに横たわる。大人の男が三人、余裕で座れるソファーだけど、長身の啓介の脚ははみだしてた。

「もーいい……、行けよ……、オツカレ……」

 マネージャーに向かって手を振る。マネージャーは眉を寄せる。どうしたんですかと、俺は尋ねた。

「見ての通り、喧嘩だよ、会場で、姿が見えなくなったと思ったら……、全く……」

 あきれ返った、という風にマネージャーは溜息。

「君が居てくれて良かったよ」

 商売女じゃ口止めが大変だった、って意味だろう。俺はそんな意味、どうでも良かった。ただ啓介が心配で、楽に寝られるように脚を抱えるようにして、靴を脱がせる。

「私の部屋番号はこれだ。夜中にもし、苦しみだしたら連絡をしてくれ」

 はい、と頷いてメモを受けとる。電話の下に敷いて、俺は啓介の靴下を脱がせベルトを外した。シャツのボタンは殆どとんでいて緩める必要はなかった。寝室から毛布をもってきて被せる。……どうして……。

頬が腫れていた。絞ったタオルを当てて冷やす。啓介は気持ちが良かったのか、少し表情を緩める。それが嬉しくて、俺は何度も、タオルを絞っては冷やし続けた。

暫くして、

「……酒」

 啓介が、ぼそっと、呟く。

「ダメ」

 咄嗟に俺は拒んだ。

「ダメだよ、打撲してるのに」

 酒を寄越せと二度、啓介は言わなかった。ただ、俺がタオルを絞りに行った隙に自分で立ち上がり、よろめきながらリビングの一角の、ミニバーのボトルに手をかける。俺が帰って来た時には、シーバスの瓶を半分近く、らっぱ飲みした後だった。

「……」

 啓介が俺を見る。じっと、眺める。いとしそうに、って表現が似合う、やさしい目をしてる。……今夜は。

「……」

 俺も啓介を見返した。そして。

「横に、なってた方が、いいよ……?」

 口を開いたのは俺の方だった。

 啓介は頷いてソファーに戻る。倒れこむように寝た頬に、タオルを当てると自分で持った。呼吸がずいぶん、楽になってる。酒が痛みをマヒさせたのかもしれない。

「……鎮痛剤、貰ってきておくから……」

 夜中に痛み出した時のために。そう思って、俺は立ち上がろうとした。出来なかった。啓介の手が俺を捕らえてた。俺は手首を捕らえられて、引かれて啓介の上に倒れこむ。打撲に触れないように、必死でソファーの背に手をついて体を支えたのに、ぐいっと力を入れられて、胸の中に、抱かれる。

「……、けい……」

「……俺んだ……」

 ぎゅうっ、と。

 俺を抱き締めながら、告げる男の、声。

 俺に告げるようでもあり、俺以外の誰かに言い張るようでも、あった。

「俺んだ。あんたは、俺の、ものだよ……」

 夕べも散々、言われた言葉だった。夕べはその、証拠をつきつけられた。俺のナカに入れた指先を、動かすだけで啓介は、容易に俺を操った。俺の……、カラダは俺の意志に反して啓介に支配、されて……。

 ……失禁した……

 ……何回も……

「俺から離れて、どこにも行かないで。……行かないで下さい……。一生、そばに、居て……」

 泣きそうな男の哀願。何度か以前も、そう乞われたっけ。最初の夜も、その後も。そのたびに、俺はもちろんと頷いてきた。けど。

「……どして返事、してくれねーの……?」

 自信がないから。嘘をつきたくないから。

「夕べのこと、怒ってんのかよ……。二度としねーよ……。ゴメン……」

 痛めつけられた酔っ払いは、俺に縋りつくように抱きつきながら、同じ言葉を繰り返す。許してくれと哀願。愛していると告白。そしてそばに居てくれと、男の自尊心も意地も、何もかも放り出しての、懇請。

 うん、と俺は返事をして。

 優しく男を抱き締めて、眠らせた。

 こんな風な、こいつをスキだった。とても大好き。俺に懐いた大型犬みたい。でも、これは本当の啓介じゃない、のだ。

 本当の、こいつは支配者。俺をどうとでも出来る。俺にあんな真似を、出来る、のだ。

 二度としないと、啓介は繰り返す。夜中にも、何度かおきて、俺まで揺り起こして、ごめんなさいとくどくど謝った。そのたびに俺は、もういいからオヤスミと宥める。レースウィーク中に言いつけを破ってお前のそばに来た、俺が悪かったんだから、と。

「……、俺のこと、嫌いになってない……?」

 薄闇の中で、不安そうに男は尋ねる。

「夜が明けたら居ないんじゃないな?別れるとか、もう寝るの止めるとか言わないな……?」

 くりかえし懇願する男を優しく宥める。宥めながら、でも。

 二度としない、その誓いが本当であっても。

 二度とされないことと、一度もされないことは、違う。

 記憶は消せない。俺の心に、芽生えた不信も消えやしない。弱ってる時にはこうして、なりふり構わずとりすがってくるけど、元気が出れば、そんなことは忘れるのだ。こい男は、きっと。

 忘れてきっと、明日は何もかもなかったような、顔を、する……。

 いつもそう。お前は見事に、ソレを使い分ける。俺はその間でぐちゃぐちゃにかき回されて、るのに。

「あんたが居てくんねーと、俺、ホントにダメなんだよ……。生きていけねーよ……」

 いいからもう、オヤスミ。

……もう、そんな嘘はつかなくていいから、眠れ。

俺は今まで、忘れた俺を理解できなかったよ。お前にこんなに愛されて、大事にされて、どうしてお前を傷つけて裏切れたんだろう、って。……でも。

今は、少しだけ分かる。分かる気が、するよ。

 

 ……なぁ、啓介……。

 我儘で自分勝手で、強いのに弱いフリが上手でウソツキな……。

 お前、ひどい男、だね……。