すべからく、すべて・17

 

 

 レース中に事故にあった啓介を見舞いに行ったはずの俺は、その本人が運転する車で送られて館へ戻った。陸続きとはいえ1200キロの距離、深夜、高速道路を爆走して。マネージャーは随分反対した。打撲はまだ治っていないし、レースシーズン中にそんな無理をすることはプロ意識に欠ける、と。

 でも啓介は意思を通した。ツーシートの車を用意させて、俺を助手席に座らせて出発。お世話になりました、と、俺がマルージャーに挨拶すると、マネージャーはもう、どうしようもないな、というふうに苦笑して。

「その男のことを、頼むよ」

 俺に初めて、本当に笑ってくれた。

「君の言うことしかきかない男らしい。上手く手綱をとってやってくれ」

 その言葉に苦笑を返して、俺は車に乗り込む。

「いくぜ」

 ギアを入れて、アクセルを踏み込む前に啓介が声を掛けてくれる。うん、と俺は頷き、もう一度、見送ってくれるマネージャーに会釈した。マネージャーは、笑って手を振ってくれた。

 隣の男に視線を戻す。前を向いたまま微動もしない。見続けていると赤信号になって、停まると同時に、唐突に抱き寄せられた。

「……」

 俺は、なんにも言わなかった。

「……」

 啓介もなにも言わない。でも、胸元に抱き寄せられた俺には啓介の、渦巻く胸の、鼓動が聞こえてる。まるでそう、迷子の子供みたい。不安で悲しくなっているのが、手にとるように、分かる。

 だって、それは。

 俺自身の気持ちでもあったから。

 信号が青に変わって、そっとほどかれる腕。俺はシートに体を埋めながら、

「なぁ、啓介」

 口を開く。俺から言い出すしかないことは分かってた。啓介は絶対に何も言わない。俺が我慢できずに動き出すのをいつも待ってる。お前はずるい、男。

「またあんなこと、するのか?」

 責める言葉は、本当は責めてるんじゃない。啓介に、謝るきっかけを与えてる。

「……悪かったって、言っただろ」

「酔って言ってたことなんか信じられない」

「悪かった。もう二度と、しない。これでいいか」

 啓介が謝れば、俺は。

「今度、されたら、もうお前のそばには、俺、居れないから」

 許すしか、ない。

「絶対もう、しないでくれ」

「分かった」

 許させるために責めさせる、お前はひどい男。お前の方から謝ってくれれば、俺は強情を張ることも出来るのに。

「……泣いてんのか?」

 運転席と反対側、窓の外を向いて黙り込むおれに啓介が尋ねる。車は大陸を横断する高速道路に乗ってスピードが上がった。400キロ以下では走れない超高速。夜景が後に、早く流れていく。俺は違うと首を横に振った。啓介は信じていなさそうで、ギアチェンジの必要でなくなった左手をそっと俺に手を伸ばす。

「愛してんだよ」

 それをもう、信じられなくなったって、言ったらお前、どうする?

「本当に大事なんだ。大事にするから……、離れるな」

「大事って、どういう意味で」

 俺は。

 啓介をスキだった。だから今まで、本気でこの男に逆らったことはなかった。

 笑ってくれるとシアワセだったから。でも。

 こいつは、違った。

「俺が泣いてたのに、お前は笑ってた」

「……しつけーぞ」

「昔の復讐、したいだけならもう、許してくれ」

「そんなんじゃ、ねぇよ」

「じゃあどんなのだよ。大事ってどういう意味。閉じ込めて、逃げられないようにして、ゆっくり壊して愉しみたいだけじゃないのか」

 俺の頭に、そっと添えられてた左手に力が増す。

「お前は結局、俺で遊びたいだけじゃないのか」

 力の入った指を、啓介は俺から退かせた。勇気をふりしぼって、俺は顔をあげ体の向きを変えて啓介を見た。啓介はまっすぐに前を見てた。俺と目を合わせることを拒んでる、みたいに。

「……なぁ、」

 俺は、責めようとしたんじゃなかった。

 告白を、したかった。しようとした。俺がお前をどんなに愛してるか。だからお前からの悪意が本当に辛くて痛くて、耐えられないんだと。お前には不純がある。どこかに俺に、敵意を持ってる。

 昔からそれは感じてたこと。俺が目覚めて、何も知らずに初めて『会った』あの瞬間から。お前は優しかった。でも怖かった。こわくて怖くて、たまらなかったんだよ。……今も。

 切なく喘いでる、この気持ちを、分かって欲しかった、のに。

「黙れ」

 啓介の口から拒絶の言葉。

「運転中だ。話は、館についてからな」

「……話すつもりなんかないくせに」

 どうして、お前、俺の不審を、煽ってばかりなの?

「問答無用で閉じ込めて、いま逆らった俺をまた、痛めつけるんだろ?頭の中、着いたら俺をどーしてやろうかって、そればっかりだろう?違うとは言わさないぜ。そのためにこーやって、自分だけで俺を運んでいるんだろ」

啓介は答えない。表情の消えた白っぽい顔で前を見てる。

「お前なんか、大嫌い、だよ」

どうして違うって、言ってくれないの。

「……ダイキライ……」

 歯噛みした、隙間から、漏らした俺の呻き声。

「慣れてるよ」

でも啓介は静かだった。

「あんたに泣かんのも、そーやって睨まれんのも。嫌われんのも、慣れてる。昔からだから」

「昔の話なんか聞きたくない」

「いつもあんたは、俺に優しくしといて裏切る。……慣れてるさ……」

 語尾がほんの少しだけ、揺れて。

 俺は、俺の言葉がこの男を随分、痛めつけてしまったことを、悟る。

「……啓介」

 でも、悟ったときには、遅すぎて。

「あと三時間で着く。眠れるなら寝とけよ。……あんたの、言うとおりだから」

 男の声は固かった。それは男の、胸が俺に向かって閉じた音、だった。

「、……け……」

 何か、言おうとして、でも。

 何もいえないことに気づいて口を閉ざす。

 シートに埋もれて目を瞑る。眠ったふりをした。

 寝返りのふりで、顔を窓に、向けた。

 

 

 夜明け前、館に到着する。

 知らせを受けていたのか、早朝というにも早い時刻なのに館には煌々と明りがついていた。執事をはじめとする使用人たちが揃って啓介を出迎える。

「よぉ、心配かけたな。ピンピンしてるぜ、お蔭さまで」

 言いながら車から降りた啓介は、前を回りこんで俺の側のドアを開いてくれた。使用人たちの雰囲気が緩むのは、相変わらず可愛がっておられる、という呆れ混じりだろう。でもそれは違う。俺のドアには、内側からあけられないようにロックが掛かってた。

「ご無事でなによりです。湯殿と、お食事のご用意が出来ております。いかがなさいますか?」

 執事が柔らかく微笑みながに尋ねる。

「……メシ、喰いたい?」

 啓介は俺の肩を抱いたまま、俺の顔を覗き込むようにして尋ねた。顔は笑ってる。けど目は、少しも笑ってはいない。お前は、そんな演技も、上手に出来るんだね。

 俺を愛してる優しいフリ。

 それとも全部、最初から演技だったの?

「いらない」

 俺の呟きに頷いて、

「あとで貰うよ。一眠りしてから。……じゃあな」

 そのまま、肩を引き寄せられたまま館の中へ。啓介の居間を通り抜けて俺の離れへ。そういえばこの離れの、構造もおかしい。中庭に面して一軒開放的な離れ。でもこの中庭は外に通じていない。周囲をぐるりと建物に囲まれて、庭に面した側のガラスははめこみで開かない。本館から中庭を見張るには随分、便利な造りに、なっている。

 閉じた庭。そして、館の建物から、他へ通じる通路は一本だけ。啓介の居間への道だけ。

 ……おかしいと、以前も思ってた。

 でもそれはきっと、歳若い、若すぎる俺を庇うため。人目を避ける恋人同士だったとき、俺を隠してくれるためにだと、勝手に思ってた。

 ……おめでたい誤解だった?

 押されるままに離れの寝室に通る。寝台の上に突き飛ばされる。わきに立った啓介が服を脱いでいく。言われる前に、俺も靴を脱ぎ靴下を脱いだ。ベルトを抜いてスラツクスから脚を抜いたとき、裸になった男が寝台にあがってきて、俺は自分で服を脱ぐ自由さえなくす。

 覆い被さってくる男に、俺は逆らわなかった。力を抜いて体を委ねると、男は丁寧になった。キスを、しながら俺のシャツのボタンを外して、肩からそれを引き抜く。袖で縛られるのかな、と、ふっと思った。

 ホテルの部屋で、あの夜に、そうされたから。

 でもされなかった。手首のボタンも丁寧に外してくれて、裸になる。男の掌が俺の肌を撫でおりる。肩から胸元、そこで暫くとどまって、背中から、尻を掴んだ両手が微妙に蠢く。俺の、ナカの、いいところを刺激する揉み方だった。ズキンと、俺の芯に、きた。

「……、んー……」

 息が漏れる。声が零れる。優しい愛撫に俺が耐え切れず、腰を浮かせるのを待って男が、俺の下肢に顔を埋める。チロリと舌で舐められる。

「……、ぁ、ア……ッ」

 いきなりの、突き落とされるような刺激に無意識に体が暴れる。易々とそれを押さえて男はまた、俺に舌で触れる。触れては離れていく。酷いやり方、だった。

 狙われてることを分かっていても、狙い通りに嵌っていく。裸になってしまえばもう、どうせ俺はこの男に逆らえないのだ。何もかもこの男の思い通りになるしかない。俺の体は俺のものじゃない。確かに、これの、言うとおりだった。

 仰向けの姿勢で肘で、体を支えて腰を浮かせる。男に向かって差し出すように、浮かす。男はまだ意地悪を続けるつもりらしい。俺が一生懸命、揺らしているのにわざとそれをそらす。

 膝をたてて、男の頭を挟む。男が喉奥で笑う。愉しまれてる屈辱に耐えて、俺は身体をひねって男の頭を捕らえた。後髪を撫でながら乞う。愛してくれと、俺自身を。

 男は乞いに応じてくれた。唇の表面で先端を擦られる。

「……、ぁ、ンッ」

 俺はびくんと跳ねた。隙に、男は俺の膝と手から逃れる。姿勢を変えられて、俺は男の身体の上だった。目の前にオトコノがある。うろこの固い、とぐろを巻いた、蛇。

 怖れながら舌を這わせる。びくびく、してるのは演技じゃない本当に怖い。他人の生身に触れるのも触れられるのも。でも好きだった。ダイスキだったんだ。この蛇も、痛みも、固い掌も。お前の肌も、汗の匂いも、全部。

「……、ん、んく……ッ。……、ンッ」

 一生懸命に仕える。唇に含んで先端に舌を使う。呼吸を殺して喉の奥に含み絞る。そうすると、大きくなってくれるのが嬉しかった。悦んでもらえるのはとても……。シアワセ、だった……。

「……、ンンッ、ん、……ッ」

 男の指が俺の尻を這う。両手でそれを捉えられる。慰めてくれるのか、という期待はやっぱり裏切られた。男は指が食い込むほど掌に力を篭めたまま、顔を近づけて、舌を伸ばした場所は。

 ……イヤ……。

 それ、嫌。されると訳がわからなくなる。甘いのか痛いのか分からないまま、麻痺したように身体が動かない。ずるりと、俺の唇から蛇が抜け出す。そしてそれは、濡らされた俺の洞を、埋める。

 悲鳴に似た嬌声を撒き散らしながら、俺は蛇の侵略を受け入れる。後ろ向きに、膝の上に抱かれるような姿勢。耐えきれずシーツに身体を伏せれば背後から、胸に腕をまわされて引き起こされる。角度がきつくなって、俺の洞にいっそう深く、蛇が頭を埋めていく。苦しい。でも、揺らされだすと別の意味で、息もできなくなる。

 どう、して……。

 どうしてこんなに気持ちがいいの。なぁ、どうして?狙った場所を一度も外さずに、蛇の牙が俺の弱みに突き刺さる。涙が出て来るのは反射。神経がすべてそこへ向いて、空恐ろしい快楽を貪りだす。まるで麻薬。コレに嵌れば破滅は確実と、重々承知で溺れてく。この、瞬間のためなら何もかも、なくしていいと、思うほどの。

 ……幸福感……。

 いっそ無くしてしまいたい。なぁ、啓介、このまんまで殺して。今は幸せ、お前がそばに居るから。お前に抱き締められて可愛がられて、辛いこと忘れてられるから。

 このまんまでもう、終わらせて。……頼むから……。

 醒めたくないんだ、もう目を開けたくない。終われば悲しみを思い出す。お前が愛してるのは俺が覚えてない俺の昔だけで、今はただ、その頃に馴染んだ身体だけ大切なんだなんて、そんなこと思い出したくない。

 ……お願いだから、このままでいらせて。

 翳りなくお前のこと愛していたいんだ。それだけが俺の幸せ。ホントだぜ……。

 そんな、ことを思いながら、のたうつ。

 情欲に浮かされて、ドレかは口にしてしまったかも、しれない。

 もちろん、俺の望みは叶えられず。

 愛し合う時間はいつか終わってしまう。

 身体を離して、男が服を着る。指一本動かせないまま敷布の上で何回、その光景を見ただろう。その度に、俺はうち棄てられ措いて行かれてきた。俺をこんな風にして、お前はそうやって、外に行くんだな……。

 男が服を着終わって寝台へ近づく。俺は目を閉じた。もうこれは違う男。抱き合っていた間中、愛を誓ってくれたのとは、別人。

 でも同じ感触の指が俺を撫でていく。慰めるみたいに。その指先は俺の、太腿の上で止まった。軽い、小さな火傷の痕がある、そこで。

 最中、何度も、噛み付かれて責められた。

 身体に傷を残すなって、何度も。

 俺のせいなの。俺が悪いの。そうなんだろうね、きっと。いつも悪いことは俺のせい。

 男の指が離れて、同時にそっと、耳元に落とされるキス。優しい仕草はでも。

「……覚悟してるだろうけど、閉じ込めるぜ。かぎは、開けさせないように言っとく」

 残酷な宣告を告げるための、偽り。

「そんなに長い時間じゃない。今度のオフまでな。半月もない。大人しく、してろ」

 だまって、そのままじっとしていれば多分、最後に優しく、キスくらいしてくれたかもしれない。

「交通事故だって、言ったな」

 でも、それが俺には出来ない。出来ないんだよ、啓介。だって。

「俺が記憶をなくした時の事故、交通事故だったよな」

 だって、俺は、お前を本当に……。……だから……。

「そうだ」

「逃げた俺を、お前が轢いた?」

 ……だから。

 本当のことを知りたいんだ。

 お前を怒らせることを分かっていても。

 お前は俺に本当のことを教えてくれないから、だからこんな風に。

 挑発して、みせるしか、ないの……。

「……、ッ」

 ごめんなさい。

 言葉にはならなかった。

 殴られて、壁にうちつけられたとき、力が抜けてたせいで頭を庇えなくて。

 ぶつけて、動けない。

 ごめんなさい。挑発したのは俺だから、そんなに泣きそうな顔をしないで。俺を殴った自分の右手を、掴み潰しそうに左手で震えながら、抑えないで。こんな痛みはなんでもないんだよ。お前に愛されてない絶望に比べれば。

 ごめんなさい。

 言えないまま、床に崩れ落ちる。男は暫く俺を見てたけど、やがて踵を返して出て行く。

やっぱり行くの。なりふり構わずお前に殴られてまで、引きとめたかった俺を置いて行くの。脳震盪起こしたらしくて吐き気がして、起き上がることも出来ない俺を棄てて、行くの……。

床の上で、悲しみに暮れながらそれでも、俺は手を伸ばした。

サイドテーブルの上の、内線電話。

うまく身体が動かない。頭はとても動かせない。それでも必死に腕を這わせてテーブルを倒す。水差しやテッシュの箱が落ちてくる。木彫りの箱が当たっても傷みは感じなかった。うまく、手元に転がった電話の通話ボタンを押して。

「……、もしもし。……啓介そこに、居ますか……?」

 執事の携帯に直通の回線。ひっしに声が、震えないように努力した。

「運転、するなって言って、ください……。眠ってなくて危ないから、自分では……。お願いします」

 そこで俺の、力は途絶えた。でも回線の向こう側からは声が聞こえてくる。旦那さま、涼介さまも心配なさっておられますよ。運転手に運転はお任せください。涼介さまもお願いされています。

 されからのやりとりは聞こえなかった。でもすぐにまた、執事の声がして。

 いうことをきいてくださいました。ありがとうございます、と。

 聞いてようやく、目を閉じる。指先が冷たいのは水差しからこぼれた水が、こっちまで流れてきたせいだろう。

 どうでも良かった。そんなことは。

 啓介がちゃんと休息をとってくれるなら、それで。