すべからく、すべて・18

 

 

 朝一番に電話が鳴る。約九時間の時差がある別の大陸からの、音色。

「……もしもし」

 俺はベッドに転がったまま通話ボタンを押す。音声がオンになって、受話器を持たずに会話することが出来る。

『俺』

 いつも短く、男は名乗る。こいつ以外に掛けて来る相手は居ない。

『起きてたか?』

「うん。今さっき、目が覚めたところ」

『そうか』

「外、いい天気だよ。空が真っ青。こういう日は中庭で、ごはん食べたいね」

『執事に言って用意、させろよ』

「一人じゃつまらない。啓介、いつ帰って来るんだったっけ?」

『……来週』

「いい天気の日に、じゃあ、中庭で朝ごはん食べよう。……お昼かな……?」

 俺の言葉に、電話の向こうが苦笑する。レースの合間の短い休暇のたびに、俺と啓介は一晩中抱き合い、目覚めはいつも、陽が高くなってから。抱き合いながら眠って、目覚めて、それでも離れ難くって、部屋に運んでもらったプレートを、裸のまんまで啄ばむのが、お約束だった。

『不自由なことは?』

 電話の向こう側の、声が真摯になる。俺が不満を訴えたらなんでもしてくれそうだ。

「運動不足になりそう」

 予告どおり、離れに閉じ込められて五日。大人しく暮してるけど、狭いから動かない。

「ジム使わせてよ、啓介の」

 この離れと直結した啓介の私室。続き部屋の一つに、器具の揃えられたジム室がある。オフの期間はプロのトレーナーが滞在するけど、短い休暇の時は啓介が、メニューをこなすだけ。

『……』

 啓介は返事をしてくれない。眉を寄せてる表情が気配からだけで目に浮かぶ。

「動かないと、肩とか腰とか、イタイ」

 それは本当のことだった。全寮制の学校を休学してこの館で啓介を待つ生活になってからも、俺は若い使用人たちとキャッチボールをしたり壁を相手にテニスをしたり、庭掃除をしたりして過ごしてた。運動することを好きでもあったし、怠惰にシュジンの来訪を待つだけの、『妾』みたいな実感を持ちたくなかったからでもある。そんなことも出来なくて、せめて離れの掃除を一生懸命、しているけれど二時間もすれば、廊下からバスルームまで磨き終えてしまう。

「ぶくぶく太るかも」

 プッと、電話の向こう側で男が噴出した。

『うそつけ。あんたはストレス太りしやしねーよ。……どっちかってぇと、痩せる』

「うん。実は食欲がなくて、困ってる」

 無為というのは辛いことだ。せめて読書でも出来ればいいけれど手元の本は読み尽くし、本屋や図書館へは行かせてくれない。ネットのニュースさえ、回線を止められて見れない。俺の部屋で外と繋がっているのは、男の携帯から直通のこの電話だけ。

「執事さんに、心配かけてるよ……」

 昨日もその前も、俺は食事を半分以上、残した。体調が悪いのかと心配する執事に、食欲が沸かないのだと答えた。普段、出された食事は残さず美味しくいただく俺がメインのさらに手もつけないのを見て、執事はとても心配した。

 ……それは。

 主人から預けられた猫の毛並に気を配る、ようなものかも、知れないけれど。

「動かないと、おなか空かないんだ」

 溜息をついて、それきり黙りこむ。

『……俺の部屋まで、好きに使いな』

 たっぷり一分間は二人して黙り込んだ後で男が、譲歩した。

『なぁ、大人しく、いい子にしててくれな。何時までも不自由させねーから。帰ったら、ちゃんと自由にしてやるから。……な?』

 うん、と。

 電話に向かって俺は答えた。でも信じてない。一度、覗き見たお前の怖い顔を、忘れられるほど俺はオメデタク出来てない。

 ……自由に、するなんてウソだ。絶対に。

 解き放っても動けないように、するつもりだろう……?

『外、怖いんだぜ。頼むから、そこに居てくれ。……な』

 うん、と、言葉だけは従順にこたえた。

 その日の朝食は全部、食べた。

 そして、啓介のジムへ行く。啓介の指示で、俺の離れと続いた啓介の部屋の鍵は解放、されていた。踏み込むと懐かしい気配。どんなに俺と抱き合っていても、日に一度は、あいつはここでメニューをこなしてた。俺は、それを眺めてるのが好きだった。鍛え上げられた男の身体がバーベル持ち上げるために力を振り絞る様子はセクシーで俺を愉しませた。……けど。

 けど、とりあえず、今は。

 不安が俺の背中を炙る。よく分からないけど危機感が募る。このままここに居ちゃいけない気がする。啓介のことが嫌なんじゃなくて、むしろ……。

 愛しているから、離れるべき。

 ……みたいな、気がした。だから。

 

 

 この屋敷中を管轄する、マスター・ナンバー。

 二時間に一度、変更されるそれを探り出すことは簡単なことだった。

 真夜中を待って高温探知機をだます。非常ベルを鳴らす。防火シャッターが自動で下りてゆく。その横には、非常扉が、ある。

「……、さま……。涼介さま!」

 スプリンクラーの洪水の中、俺を呼ぶ声がする。そんなのを、以前も聞いたことがある気がした。でも俺は声とは逆の方向へ抜けて行く。従業員用の通路。

 防火シヤッターが全部、降りてしまったらブレーカーが落ちるように設定してきた。それを物陰に身を隠して待つ。通報システムで呼ばれた消防隊が赤いサイレンを煌めかして駆けつける頃、屋敷はフッと真っ暗になった。

 紛れて、抜け出す。

 行く当てはない。けれど目的が、あった。

 知りたい事が、あったのだ。

 

 

 持っていたのは啓介のカードと、啓介のバカンスに付き合ってあちこちの国に行っていた時代のトラベラーズチェックの残り。夜明けを待って換金した。かなりの金額に、なった。

 駅に行って、適当な切符を買って適当な汽車に乗る。何度か路線を乗り換えて適当な駅に降りた。

 それを持って駅からやや離れたネットカフェへ向かう。ゲームセンターやカラオケと併設された24時間営業のそこは、でも、午前九時という時間のせいでがらんとしていた。仕切られた席についてPCを立ち上げ、検索をかけると一発でヒットした。藤原拓海の、公式HP。掲示板にメッセージを書き込む。火傷の具合は如何ですか、と。ヤツには、すぐに分かるはず。

 メルアド入れなかった。けど管理者ならIPアドレスで、その気になれば俺の居場所を辿れる筈だ。時間がかかるかもしれないと思って俺は椅子に深く腰掛け、休む姿勢をとる。一気に疲れと、眠気がやってきた。ほんの少しの後悔も一緒に。

 ……怒ってるかな……

 言いつけを守らなかった俺のことを、今ごろは髪を逆立てて怒っているだろう。

 ……ごめん……

 心の中で、素直に詫びる。勝手な真似してごめんなさい。でも、せずにはおれなかったんだ。だって。

 あのままや前の掌の中に居たら、俺は。

 確実に、お前に握りつぶされていた、よ。

 それは嫌なんだ。お前に俺は……、可愛がられたいんじゃない。

 愛し合いたいんだよ、啓介。

 分かって。お願いだから、分かってくれ。

 そのために、これは絶対、必要なことだろう。

 俺が知らなくて、お前が知っている、過去。

「……高橋涼介か……?」

 不意に背後から声がかかる。うとうとしてた顔を上げると仕切りの向うに男が立っていた。背が高くて強面の、ガタイのいい男。でも何故だろう、不思議に怖くない。

 俺が振り向き、目があった途端。

「……、涼介……」

 男はひどく苦しそうな顔をした。見覚えのある表情だった。啓介の事故の後、藤原拓海に会ったとき、藤原拓海も似たような目を俺に向けた。切ないような、苦しいような。

 ……哀れむ、ような……

「あなたは?」

「……分かんねーか」

「ごめんなさい」

「藤原拓海の代理人だ」

 差し出される名刺。肩書きは国際弁護士。事務所の名前は姓と同じで、名前は、須藤京一。

「とりあえずここを出よう。あいつもお前を捜してる」

 素直に頷いた。俺に呼びかける声も啓介のことを呼ぶよびかたも自然だったから、きっと昔の知り合いなんだと思った。脱いで肩に掛けてた上着を、男は手にとって袖を通させてくれた。まるで淑女をエスコートするみたいに。

 カウンターで会計して外に出る。店から一分も歩かない場所に、大きな車が停まっていた。男がドアを開けてくれる。助手席じゃなく、後部座席だった。

「顔、隠してろ」

 言いながら自分は運転席に座り、指ぬきの皮手袋を嵌める。静かに車は、走り出す。

「腹、減ってるだろ」

「……いいえ」

「ウソつけ。そのツラは、腹減らしてるツラだ」

 バックミラーで俺を見た男が断言する。本当はお腹がすいていた。でも食欲より、緊張が勝った。

「大丈夫です」

 意地を張ると、それ以上は押してこられない。代わりに車はバイパスぞいのドーナツ店のドライブスルーに入る。不似合いな高級車に、左右の車が距離をとるのが分かった。やがて順番がまわってきて。

「飲茶セットとオールドファッションとフレンチクルーラー。ホットティーを二つ、ミルクで」

 てきぱき、男はマイクに向かって話す。やがて品物が用意され、窓ごしに手渡される。サインレスの汎用プリペイトカードを、レジにかざして支払いは終わった。プラチナ色に輝くそれは、啓介が持っているのと同じだった。

「ほらよ」

 袋ごと、後部座席の俺に渡される。

「……」

 受け取って、戸惑う。

「食べろ。お前、ここのがお気に入りだった」

 そう言って男が、少しだけ、笑う。

「店でメシを食うのが嫌いだったな。時間がかかるからって。……昔、俺の車の中で飲み食い、したヤツはお前だけだ」

 その言い方が、ふっきらぼうなのに凄く優しくて。

 俺は素直に言うことを、きく気になった。

「……いただきます」

 ミルクを添えられた暖かな紅茶がおいしかった。二つともいいのかと尋ねると、当たり前だと男は言った。

「味、変わってねぇか?」

 おかしなことを、尋ねられる。

「自分じゃ食ったこともねぇのに、よく覚えてたもんだぜ我ながら。……何年前、かな……」

 独り言じみた呟き。俺がなくした過去を知っているらしい、相手。

「喰ったら少し、眠ってろ。長いドライブになる」

 頷いて、言うとおりに、した。