すべからく、すべて・21

 

 

「高橋先輩ですか?順調ですよ」

 研究所の担当研究員は当然のように答えた。主任教授は別に居るが高齢で、殆どの実務を取り仕切っている男。ラボの培養槽の中で安らかに眠る人には後輩にあたって、ゼミも同じで、わりと親しくしていた、という。

「脈拍は120分に一度、呼吸は36時間に一度。理想的な数値です。ゆっくり、眠っておられます」

 その研究所に行くたびに、高橋啓介は複雑な気持ちになる。半透明の強化プラスチック、水槽というよりカプセルの中、シルエットだけ見せて眠る相手に向ける気持ちの、選択に戸惑う。恨めしいのか憎いのか、よく分からない。生きているというには儚い、けれど生きていない訳じゃない。植物人間、というより更に踏み込んだ、人工的な措置で代謝をおそろしく遅らせた状態で。

 確かに、彼は生きている。

「どうぞ、淹れたてです」

 香りの高いコーヒーを、研究員は差し出した。

「さっきから先輩の振幅がやけに激しいので、弟さんが来られることは分かっていました。豆から炒って挽いたんです。美味しいと思いますよ」

 苦味の少ないモカコーヒー。カップは三つ、用意されている。カプセルの前にもことり、置かれるデミダス・カップ。置いた瞬間、研究員はとても優しい顔をした。

「先輩も、どうぞ」

 啓介は苦い顔をする。この研究員が兄のことを、どう思っていたかは知っている。見れば誰にでも分かるだろう。カプセルの温度管理や培養液の濃度に細かく気を配り、変調があれば痩せるほど心配する、男。

「……客が、来ただろ」

 コーヒーには手をつけもせず、啓介は尋ねた。誤魔化しを許さない厳しい表情で。

「みえられました」

 研究員は、易々と答える。

「先輩のクローンが、尋ねてきましたよ。なかなかキレイに育っていた。俺は二十歳の頃からしか知れませんが、なんていうか、あの年頃の先輩は、痛々しいような美少年だったんですね」

 現在と過去、クローンと本体を微妙に混同しながら感心する。

「それでもやっぱり、気性は変わらない。頭のよさも。よくまぁ、ここにたどり着いたものだ」

「入れたのか、この部屋に」

 大切な人が眠っている姿を見せたのか。

「仕方ないでしょう。弁護士と同行だったんです。記録の閲覧と来訪の、要求が容れられなければ公にすると脅されました。そんなことになったら、培養機器が停止されてしまう」

 眠っている人は自然な植物状態ではない。人工的に、眠らせられている。動物の冬眠に似た状態で、羊水に等しい液体で肺を満たして、月に一度、点滴で栄養を補給する。そんな『人体実験』はもちろん、クローン同様、認められていない。

「あたに頼まれて、私が作っていたブレスケットも見ていきました。設定地点から半径2000メートル以上は外に出られなくなる、あれを。大人しく嵌めましたか?」

 啓介は答えない。

「……わざとか……?」

 啓介の声が掠れた。

「わざと、何もかもばらしたのか?」

 質問というより確認。

「もう、あれでいいんじゃないですか?」

 研究員はにこにこと、微笑む。

「あれにしておきなさい。素直そうな、キレイな子じゃないですか。自分が先輩のクローンだったってことは静かに聞いていましたが、あなたが先輩と……」

「言ったのか」

「言いましたよ。あなたが先輩とどんな関係だったか。先輩がそのせいでどれだけ苦しんだか。とうとう、こんな形になって、それでも、あなたが先輩を諦めてないこと。あの、キレイな子供が、脳移植されるための人形だって、こと」

「……俺が今、あんたを殺さないのは、そんなことしたらアニキの世話役が居なくなるから、だぜ」

「怒っているんですか?本当のことを言っただけなのに?それとも本当じゃなくなったんですかね。あの子供に乗り換えますか?だったらそう、あれに言えばいい。喜ぶんじゃないですか?」

「アニキが目覚めたら、覚えてろよ」

「私は反対しましたよ。成長期が終わるまでは促成培養して、それから身体の成熟が完全に終わる二十一歳までは外に出しておく必要が、確かにあった。神経の正常な発達のためにはね。けれど、あなたのそばに置くことはよくないことだと、最初から思っていました」

 もちろん、クローンにとってですよ、と、分かりきった念を押す。

「もう、あれにしておけばいい。そうしたら、先輩もきっと安らかですよ。眠らせてあげましょう、このまま」

 研究員の目線がカプセルを向く。その時だけは、真摯な表情を、見せた。

「先輩と何もかも同じだけど、あなたのことだけを愛して、あなたに危害を加えることができない、逆らえないように作ってある。従順で歳若く美しい、理想的な『伴侶』でしょう?先輩のことはもう、解放してあげてください」

「馬鹿言うな」

 冷たくなったコーヒーに手をつけないまま、啓介は立ち上がった。

「また、来る」

「先輩……、かわいそうです。こんなのは」

「あんた、どーしてアニキがこんな風になったか知ってたっけ?」

「詳しくは何も。でも、病死が怖くてこんな実験体になることを、選ぶような人じゃなかったことは知っています」

「俺が一緒に、死ぬって言ったからだよ」

 立ち上がり、カプセルに近づく。胸元に近い一箇所が直径15センチくらいの蓋で、外れるようになっている。外しても培養液は溢れてはこない。薄い皮膜が、その内側を覆っている。

 月に一度の点滴の為の、輸液のための管は首筋に埋め込まれ、雑菌の存在する大気と触れることなく行われるが、万一、管がズレたり位置を修正する必要がある場合に備えて、皮膜は手袋の形をしている。そこに手を入れて、中の人に、触れられるように。

「本気だった。クスリも用意してた。だから、この人は、こんな風に、なってみせたんだ」

 一緒にあのまま眠れたら、今ごろはどれほど安らかだっただろう。同じ腹から二年を隔てて生まれてきた。死ぬのは一緒に死のうと笑ったのに、彼は同意してくれなかった。むしろ否定的、いやいっそ拒絶。一緒に眠ってまたいつか、生まれ変われたら今度は兄弟じゃなく、人間でもなく、犬か猫になりたかった。なろうと思ってた。大きくならずに、ずっとこの人の隣に置いてもらおうと。そして絶対にこの人より先に命を終わろうと。

「だから、これはこの人の自業自得だ。俺を裏切って、こん中に逃げ込んだんだから」

 分かってる。それが愛情だってことは痛いほど。この人が死んだら翌日の朝日は見ないと誓った時の、泣き出しそうな表情。どうしても愛を信じてくれなかった人に、どうしてもわかって欲しくて命を差し出した、のに。

 受け取ってくれなかった。

 死ではなく、生というには曖昧なままこの箱の中に居ることで、この中の人はもう一人を、この世に繋ぎとめたのだ。

「目覚めて、俺と、地獄に落ちるのは、当たり前の罰だ」

「本当にするつもりですか、あのキレイな子の頭を割って脳みそを掻き棄てるんですか?女の腹の中から胎児を掻き棄てるみたいに?できますか?……抱いているんでしょう?」

「二度と、あれをこの部屋に入れるな」

「その言葉を言うべきなのは、あなたじゃなく私の方です」

 皮膜ごしにいつまでも眠る人の、唇や頬に触れていた手を研究員が引き抜く。胎児と同じで刺激に敏感なのですから弄りまわさないで下さい、と、言って蓋を閉める。

「あれを人目につかせないでください。ヘタに外に出さないで。先輩の安全がかかっています。ちゃんと閉じ込めてください」

 その口調は一途で、とてものこと、身の保身を図っているようには、聞こえない。

「あなたがあれをどう扱おうが自由です。あれはあなたの人形だ。でも先輩は違います。……殺さないでください」

 大袈裟ではない。この研究室が公になればその日のうちに、培養装置は止められて、48時間以内に被検体は生命活動を停止する。

 何もこたえず、部屋を出ようとした背中に。

「……、で、どうでした。ブレスレットを、あれは受け取りましたか?」

 意地の悪い質問が追いかける。

「あなたのことを、随分愛してるようでしたよ」

 悪魔のような、言葉。