すべからく、すべて・23

 

 

 動かなくなった。

 彼はもともと、動けない。その隣に身体を伸ばして俺も、殆ど動かずに暮した。

 口もきかずに彼の横に寄り添う。そうしていると凄く幸せだった。眠ってるのか起きてるか曖昧なまま、日がな一日、彼の匂いを嗅ぐように彼の背中や肩、胸元に鼻先を押し付けて。時々は腕を廻して抱き締めた。抱き締められたい時は肘を掬って自分の首に掛けた。

 彼は俺の重い通りにしてくれた。そうして時々、何かを言っていた。俺は聞かなかった。俺の決意を押しとどめる言葉。自殺は罪だとか、どうせ人間は死ぬんだからそう急がなくても、ちゃんと待ってるから、とか。

 俺は、彼の言葉を聞かなかった。

 彼が、俺とは違う言葉を話してたから。

 来世とか、死後とかを俺は信じてない。ないと思ってんじゃなくて考えたこともない。あんたに先立って自殺するまでもなく、いつか勿論、自然に俺も死ぬだろう。でもあんたに死なれてからそれまでの時間の苦しみに、とても自分が耐えられるとは思えないんだよ。……アニキ。

 優しい言葉を一生懸命、彼は捜してるようだった。俺が彼に犯した罪の何もかもを許してくれた。俺がレースで走ってるのを好きだと言ってくれた。あの世でも、ずっと俺が走るのを見ていたいと。

 ……うそつき……

 もう騙されない。二度と間違えない。今抱き合ってるこの暖かさしか、俺はもう信じない。このまんまで全部を終わらせて、あんたと『さようなら』なんかしない。絶対にそれは嫌だ。想像したくも、ない。

 この意地だけは通す。それ以外は全部あんたの重い通りでいいけど。俺は絶対にあんたと別れない。俺が生きてる限りはね。

 そっと静かにそう告げて、それから俺は黙り込んだ。彼を拒んだわけじゃなく、話をする必要がなくなったから。全身で寄り添っていれば言葉なんかなくっても、なんでも分かる。腹が減ったらメシを取り寄せて、風呂に入りたくなれば浴室に一緒に行く。電話回線は引き抜いて携帯は窓から棄てた。あと残り、八十二日間、あんたと寄り添っているために使う。金は使いきれないくらいあった。命は、それでは買えないけれど。

「……に……、していいから……」

 俺を説得しあぐねた彼はだんだん、ヤバイことを口にするようになった。肖像権をお前にやるから、そっくりのデコイを作らせればいい。声も仕草も、今のうちに回路に仕組んでやる。ちゃんと機能もついてて、夜にも役にたつ、とか告げられて、少し哀しかった。笑っただけで聞き流した。

 あんた以外に興味はないよ。どんなによく出来た人形だったとしても。

「なら……、俺を……、すればいい……」

 彼は破れかぶれだった。毎日、泣きそうに真剣に、俺を翻意させようとしていた。

「剥製にすればいい。樹脂ポリマーとセラミック骨格で、殆ど感触は変らない。今の俺より、よっぽどいいかも……、しれないぜ……?痩せすぎない、今のうちに……。な……?」

 あんたの皮を被ったマネキン相手に、俺に何をしろっての。

 そんなんじゃないんだ。本当はあんたも分かってるだろう?あんたを抱いて眠るのダイスキだった。それはただ、そんと気が一番、あんたのそばに居れたから。

 あんたが居なくなったあとの抜け殻を、俺にくれだってダメだよ。ダメってことは、あんたも分かってる筈だ。だからそんなに、らしくもなくおろおろして。

「啓介。……頼むから……」

 俺に縋りつく真似まで。

「俺にそんな、酷いことしないでくれ……ッ」

 震えながら願う、あんたのこと愛してるよ。だから棄てられるのには耐えられない。置いて行かれたら死んじまう。分かってたことだ。分かりきってる。……最初から。

 泣かないで。

 そんなに泣かないでよ。俺はわりと、いま幸せなのに。そうだよ人間、どうせいつかは死ぬんだ。風呂で転げて頭打ってかもしれないし、酔って川に落ちてかもしれない。よくあることだ、そうだろう?いつか死ぬなら、俺に選ばせて。あんたより先に逝くのを、選ばせてよ。

「……ざと、じゃない……。俺は自殺するんじゃない……ッ」

 そうだね。不可抗力。でも知ってるよ、あんたが告知の瞬間に笑ったこと。

 笑いながら、あんたにさよなら、されるくらいなら。

 その前に死んじまった方がマシなの。……それだけ。

 ごめんな。俺は俺のやりたていように、するよ。

 代わりにもしも、いつか。来世なんてもんがあって生まれ変わったら。

 犬か猫になってあんたに忠実に仕えるから。

「止めてくれ、啓介……。お前に先に死なれたら、俺はどうすればいい……?」

 ……さぁ。

 自分が死ぬので、俺の思考は停止する。それから先はまぁ、好きにしなよ。そんなに長い時間じゃないけど、そうだね、自由を愉しめば?

「酷いこと、言うな……ッ」

 ……あぁ、ごめん泣かないで。

 ちょっとイジワル言ってみただけ。……ごめんってば。

 泣かないでよ。じゃあ、こんなのは、どぉ?

 俺が死んだらあんたのそばに、ずっと居るよ。護っててあげる。

 ……嬉しい?

 

 

 泣く人を抱き締めながら、俺は勝ったと思った。

 ようやく勝てたと思った。この人に『さよなら』を告げられて以来ずっと、この人と痛い葛藤を繰り返して、でも今、ようやく、勝てたって思った。

 未練はなかった。本当に一つも。美味いメシも酒も勝利も栄光も金銭も、俺には色褪せて久しかった。彼に別れを告げられて以来、なにもかもがつまらなかった。この人が居ないと生きていても、つまらない。

 だから本当に、よかったんだ……、俺はあのまま。

 Xデーを迎えて、それで終わってしまっても。

 

 

 なのに。

 見苦しく、俺はまだ生きてる。あの日から五年。

 歳をとったよ。随分ニヒルに自分でも、なったと思ってる。あんまり心は動かない。チャンピオンになっても最下位で終わっても。賞賛されても罵倒されても、言葉は鼓膜より奥には届かない。

 口数も減った。喋りたい人が居ないからね。時々、景色がいい部屋なんかに泊まるとあんたのこと思い出して、ルームサービスで自分のコーヒーの、ついでに紅茶を頼んでテーブルの対面に置いてたりして、あんたがそこに居る気になって話し掛けてると幸せ。

 でも、あんたのことは恨んでる。

 あんたは見事に、俺の裏をかいた。なにが治療だ、うそつきめ。延命じゃなく苦痛を抑える為の措置を受けたいってあんたが言ったとき、俺は二つ返事であんたを言われるままに研究所に運んだ。車椅子に抱いて移したあと、そういやあんた、暫く俺を抱き締めてたね。あれはあんたの『さよなら』だったわけ?

 ……ひでぇ……

 超低温の仮死状態のあんたは、でも死んでるんじゃない。だから俺は死ねなかった。あんたをこの世に置いていけなかっんだ。

ひどい人だよ、あんたは本当に。自分の命を的にして、俺に脅しをかけてきた。

あんたはいつか目覚めるかもしれない。肺の病気の治療法が確立すれば、いつか。

 それを俺に、待たせるつもりだった?

 冗談じゃねぇ。そんな『いつか』は待てない。曖昧な、まるで死後の話みたいな、時は。

 だから。

 確実な途を選んだ。俺、金持ちなんだ残念だったね。ヤバイ研究に手を出す研究所には大抵、軍隊が背景についてる。人間性と一番遠い存在だから、それが。

五年前に持ってた全財産をはたいたら喜んで『実験』してくれたよ。あんた自身の『カラダ』のクローン培養を。

 本物の身体に、本物の『中身』を移し変えて。

 ムリにでも、目覚めさせる。

 

 残酷で冷酷な俺の、でも切なく愛おしい……、伴侶。