すべからく、すべて・25
『先輩』
と、その男を俺を呼んだ。白衣を脱いだ男の顔立ちは柔和で表情は優しく、なにより、俺のことを親しみをこめてみて、呼んだ。
『お帰りなさい』
招かれざる来訪者として邪険に扱われることを覚悟していたのに、男はにこにこ、俺を迎えた。殆ど手をとらんばかりにして奥へ導かれる。古びたソファとテーブルが置いてあるだけの簡素な応接室。そこで俺にはカップの紅茶が、ミルクを添えて用意されていた。クリームがなくて牛乳なんです、すいません、と。
本当に恐縮しきった様子で男が詫びる。
同行の弁護士には、何も出されなかった。
『何をご覧になりますか?』
俺がカップに口をつけるのを、男は嬉しそうに見ていた。飲み終わると尋ねられた。
『前のカラダを見てみられますか?きれいにとってありますよ。それとも今、依託で作ってる装飾品がいいかな。興味深いかも』
何もかもをと、希望した。
『どうぞ。こちらです』
見せられたのはポットの中に浮かんだ人。半透明で中はよく見れない。これが俺の『本体』なのか。
実感はなかった。少しも。
『触れますよ』
どうぞ、と、側面にあいた穴の蓋を取られる。触りたいとは思わなかったけど、そう勧められてしまったから薄い皮膜ごしに指を入れた。手首から先を全部、押し込んだら中の人に触れた。肩、みたいだった。
触れた指先に、痛いほどの現実感。
これが本物の人。啓介が恋しがってる人。少し恨んで憎んでる。けど切なく会いたがっている、人。
俺に向けられた啓介の、言葉と気持ちを本当なら受け取るべきだった、人。
俺は今、俺が触れてる人のフェイク、贋物に過ぎない。模型なのかもしれない。
なんとなくそんな気はしてた。啓介は、やっぱり、いつも少しおかしかった。時々俺に、年上の人に対するみたいな態度をとった。きっとそんな時、啓介の心の中で俺は俺じゃなく、この人だったのだ。
……愛されていると。
思った事もあったけど。
今、この瞬間に全部。
何もかもウソになる。
この人は啓介の、なにだったのかと尋ねる。知っていたけれど。
『兄上です』
意外な言葉に目を見張り、俺は振り向いたが。
『恋人、でもあったそうですが』
やっぱり、そうそう世間は、甘くもなくて。
身体から力が抜けれてしまう。ずるりと床に座り込む。その目の前に持ってこられた鎖。プラチナに輝く、美しいブレスレット。
『どうかな。お気に召しますか。アクセサリーのことはよく分からないので、女性誌の広告を見て作っているんですが』
それが、なに。
『弟さんから、先輩にプレゼントですよ。勝手に外に出て行けなくする為の鎖です。一度はめたら外れません。衛星通信で先輩の位置を把握して、設定地点から離れれば電撃で失神させます。設定は弟さんの本邸です。広い屋敷なんでしょうね。まさか半径二キロもないでしょうが。……ありますか?』
ある。屋敷だけならともかく、周囲の庭や雑木林を含んだ敷地は広大だ。
逃げ出すとき、屋敷の塀を越えた後も、走ってもなかなか公道に出れなかった。
『納期は明後日です』
言って、その男は鎖を俺の前から引き上げた。
座り込んだ俺を、弁護士が起こしてくれようとしたが、なんとか自力で立ち上がる。
挨拶をして御礼を言って、研究所を辞去する。俺の強情はでもそこまで。車のドアがパタリと閉じた瞬間に、シートに座ってることさえ困難なほど、疲れ果てぐったり、崩れそうになる。
『……』
弁護士はなんにも言わなかった。俺が目を閉じてる間は。車は発進し走り出す。ドコに向かってるんだろう。
気になって目を開けたら、
『何処に行く?』
逆に尋ねられる。バックミラーごしに目のあった弁護士は強い、でも落ち着いた目をしてた。俺を憐れむ表情を見せるまいと努力して、それで無表情になっていた。
咄嗟に俺が答えられないで居ると。
『うちに来ないか』
弁護士は、そんな風に言ってくれた。でも。
逆に、俺には、行き場が出来た。
俺には俺の場所がない。誰かの居場所に、置いてもらうしかない。それなら。
『……家に、帰ります』
一緒にいたい相手は、一人しか居なかった。
弁護士はしばらく返事をしなかった。でも、俺は何故だか、少しも不安じゃなかった。帰してくれないんじゃないか、なんて気持ちは少しも湧かなかった。言うことをきいてくれるって分かってた。
無言のままで進んで行く車。車窓に流れる景色にふと、目をやった瞬間。
『持っていろ』
懐を探ってた弁護士から、差し出されたのは、プラスチックの小さなカード。
『なにかあったら、折れ。すぐに行く』
『……いいです』
『持ってろ』
『いいえ。俺、弁護士さんを雇えるお金は、もっていませんから』
『依頼人は藤原拓海だ』
『俺のことを以来する権利があの人にあるんですか?』
『助けてくれって、お前から連絡したんだろう?』
『お見舞いを言っただけです。火傷の』
『受け取らないとこのまんま攫うぜ』
脅しや駈引きじゃないことはすぐに分かった。俺を戻してくれるだろうってことと同じくらい、それは本当のことだった。俺は黙って、それを受け取った。黙っていられないことも会った。
『眠ってる人と、あなたも恋人だったんですか?』
啓介はよく俺を責めた。俺が裏切ったといって咎めた。俺は知らない。それは俺が、したことじゃなかった。
『寝たことは一度もない』
弁護士はすらりと答えた。
『ダチだった。つもりだった。涼介と行き来してる間も、俺は別に女とは付き合ってた。涼介が悪い相手と時々、揉めてることはなんとなく知ってた。時々うちに隠れるみたいに泊まってったが、布団は別だった』
そのことを啓介は誤解しているんだろうか。それとも。
『……藤原拓海さんは?』
『あいつのことは、ヤツにきけ』
『どうして二人とも、こんなに俺に親切にしてくれるんですか』
俺は二人とも殆ど初対面だ。なのに優しい、理由は別にある。二人は俺でなく、眠ってる人に、優しくしている、のだ。
『眠ってる人のこと、お好きだった、んですか』
当たり前のことをたずねてみる。
『……そうだな』
弁護士は苦笑しかけて、やめて真顔に戻った後で、
『夕メシはなんにする?』
そんなことを、俺に尋ねてきた。
『なんでも、いいです……』
きっとこの人は知ってると思った。俺が好きな食べ物を。俺じゃなく、眠ってる彼の好きなものを。
車は暫く走った後でバイパスぞいの、日本料理店の駐車場に入った。
それから。
啓介の屋敷に戻って、啓介と話をして、殴られて。
……棄てられて。
病院で手当てを受けながら、馬鹿なことをしたものだと少し、思った。啓介を試すような真似をしてしまった。そんなことしなくても、結果は分かっていたのに。
処置室から、執事さんが待っている待合室に歩きかけて、でも、自分はもうそこにいけないことに気づく。俺はもう啓介に棄てられた。啓介の居場所には戻れない。
どうしよう、かな、と。
曖昧に考える。どうでも良かった、その時は。だから。
「高橋涼介さんですか?」
妙にきびきびした姿勢のいいヤツが声をかけてきて。
「迎えにきました。歩けますか?」
言われて気づく。ポケットに入れっぱなしだったカードが折れていること。殴られたときか倒れた時かは分からないけど。
「裏口まで、ほんの少しだけです」
ついて行った。それが例えば贋物でも、良かった。
俺は自分の捨場さえ、もっていなかったから。