すべからく、すべて・29

 

 

 夕方の早い時間だった。

 あの人が眠る部屋に行って挨拶して、それからいつもの部屋に行こうとしたら。

「まだ勤務中です。あと十五分ほどですから、こちらでお待ちください」

 案内嬢が柔らかな口調で俺に告げた。案内という名目であの研究員が居ないとき、俺を見張るのが役目の女。もう何年も通ったこの研究所で、俺に案内は必要ない。

 観葉植物の鉢が飾られた明るいラウンジで、彼女は俺にビールとナッツの小皿を勧めた。手にとらず、部屋に入って待っていると言ったら。

「個室は居住者の名札がないと開きませんわ」

 気の毒そうに告げられて、そういえばここは機密研究所だったかと思い出す。なんだか違うような気がした。この奇妙な間と居心地と、そして。

「おや、いらっしゃってましたか」

 外部でなにかの会合だったのか、珍しく、白衣じゃなく仕立てのいいスーツを着て、トラサルディのネクタイなんか首からぶらさげた例の研究者が、俺を見つけて声をかける。売春宿の主人が馴染み客に向かって聞かせる声に、似ていた。

「先輩はまだ勤務中ですよ」

「分かってる」

 だからこうして待っているのだが、抱くオンナをただ待ってる時間ってぇのはどうも居心地が悪くて。

「見せろよ」

 言ったのは、ラウンジの案内嬢の前から逃げたかったから。職務的な愛想を絶やさない彼女が心の中で、どれだけ俺を軽蔑しているか痛いほど、笑顔の奥の視線から伝わってきたから。あんなに若いくて綺麗な『人形』をスポンサーっていう立場で、好きにしている俺のことを、彼女は心からさげずんでた。

 別に彼女に気があったとか好かれたいとかじゃない。ただ、俺は男だから、女性からの軽蔑の視線は少し辛い。

「どうぞ、こちらですよ」

 笑って俺を案内する、この男からはどう思われても、気にもならないが。

 

 通信機器や検査機械が置いてある部屋の続き、ガラス張りの小部屋で彼は、検体が入った細いプラスチックの筒に何かを書き込んでる。手元の伝票で番号を確認して、何本かを纏めて容器に収めては机のカタスミに積み上げて行く。時々、検査技師なのかその助手なのか、彼が処理した容器を持って何処かへ出ていく。

 単純作業だ。面白くもなさそうな。でも彼は真摯に黙々と、その『仕事』に打ち込んでいた。

 その姿は俺にはひどく痛々しく映る。そういうことを、する人じゃなかったハズだ。

「先輩にこんなことを、してもらうつもりはなかったですが」

 俺の内心が伝わったのか、それとも同じ感慨なのか、隣の男が独り言じみて呟く。

「何かさせてくれ、と言われましてね。無為徒食は先輩の肌にあわないらしい。時給も払っていますよ。現金はここでは使う場所がないから帳簿につけて、先輩が欲しいと仰ったものをそこから買ってます。本当は、ここでは物品の私有は許されないんですが。アルコール、煙草、お菓子などの嗜好品も、無料で支給することで、秩序を保っています」

 しめつけの代名詞だ。

「でも、何年間かを契約で縛られた連中と違って先輩はここから出られませんからね。秘密で手配しましたよ。ちぃさな冷蔵庫とか、中に並べるBDのビールとか。あんな個室に冷蔵庫なんて入れたらうるさいだろうと言いましたが、笑ってただけでした」

 伝票を辿る指先も、そのために伏せた視線も、なにもかも見事に綺麗な人だ。

「一緒に逃げよう、って、先輩を口説くバカが何人も居ましたよ」

 困ったことだ、という風に、隣の男が言う。

「お前もその一人じゃねーのか」

「十年前にね、告白はしました。振られて、それから十日もしないうちに先輩が『行方不明』になった時は悲しかった。学生時代やゼミの同級生たちと捜しましたよ。ビラを配ったりしてね。事件性がないからといって、警察は相手にしてくれなかった。あの時は本当に悲しかった」

 淡々とした声で語られる過去に、俺の意識は時間を遡る。こいつが探し人のポスターを、地下鉄の駅やスーパーに貼りまくってた頃、俺は彼を捕まえて閉じ込めて、逃がすくらいならコロスってホンキで思ってた。

「優秀で優しい先輩でした。でも時々、影が薄かった。ひどい痛みに一人で耐えてる、そんな感じでした。溺れてるのに声をあげずに死んでしまいそうに見えて、たまらなかったものです」

「……うるせぇ」

「再会できた時は嬉しかった。先輩は痩せてやつれていたけど、しあわせそうでした。あんなに安心しきった顔で笑うのは初めて見た。先輩が生きていたことを私は喜んだのに、先輩はもうすぐ死ねるんだと、笑った顔のままで言いました。ショックでした」

 男の声が沈んで行く。白衣じゃないせいか、今日は普通の男に見えた。頭のオカシイ研究者じゃなくて。

「何がそんなにお辛かったんでしょう。あなたには分かりますか」

 俺は答えなかった。

「優しい先輩でした。失敗を何度も庇ってもらいましたよ。でも心を見せてくれたことは一度もなかった。先輩をわたしは好きでした。だから先輩にはシアワセになって欲しかった。どうしたらそうできるのか、私にはわからなかったですが」

 男の長いお喋りが途切れたのは、就業時間が終わって彼が作業台の周囲を片付けて顔を上げたから。上げて俺たちに、主に俺に、気付いて笑いかけたから。

 少し照れた、驚いた顔で、でも嬉しそうに。

 嬉しそうに細められた目尻には濃く、『薄倖』の気配が漂っていたけど。

「啓介」

 急いで部屋を出て、俺のそばに来る。すぐ近くまで来て立ち止まる。躾のいい飼い犬が、主人の反応、もしくは命令を待つみたいに。

「よぉ」

 おいで、の、合図の代わりに俺は手を伸ばした。ほっとした顔で彼は俺にもう一歩、近づいて腕の中に入る。別の男が居るのが見えないみたいに、ごく自然に、俺に寄り添って腕をまわす。

「……」

 元気だったかとか、久しぶりとか、そんなコトバの代わりに顎を掴んだ。彼は目を閉じ唇を差し出す。長く重ねて離れたときには、うっとり夢見るような顔で、俺に縋りついた。

 恋人同士みたいに。

 気がつけば男はそばに居なかった。そのまま並んで彼の部屋に向かう。彼はなんにも言わなかったけど、俺が来たのを喜んでくれてるのは伝わってくる。俺はかなりいい気分で、彼の肩に手を伸ばして引き寄せて歩いた。背はだいぶ伸びてた。でも、昔の彼ほどじゃなかった。成長期までのムリな栄養投与による促成のせいだ。それが俺のせいみたいな気がしてた、時。

「高橋君、お夕食は?」

 横切ろうとしたラウンジで声がかかる。案内嬢がラウンジの灰皿を片付けてる。

「要らないです。ありがとう」

 くったくなく、彼は答えて行こうとしたが。

「食堂が閉まるわよ。今日は遅番だったんだから、早くいかなきゃ」

 案内嬢は食い下がる。俺に聞かせているんだと分かった。

「朝まではなんにも食べられないわ。おなかすくわよ」

「すいてないんです。おやすみなさい」

 会釈して、彼はさっさと歩き出す。角を曲がったところで俺は、

「……食って来いよ」

 抱いてた肩を離した。

「要らない。おなかすいてないんだ。本当に」

 離した俺の手を、彼は掴んでもう一度、自分の肩に導く。

「待ってるから、行け」

「いいんだ」

 強情に彼は言い張って俺を部屋に連れ込む。薄暗い明りの中で抱き合う。自分から服を脱いで、甘い肌と艶やかな声で俺を誘う。誘われるまま、俺は借りの体の中で泳いだ。時々は溺れかけながら。

 夜半。

 冷蔵庫を開ける俺を、彼は嬉しそうに眺める。せいぜい俺も好物のBDビールを美味そうに、喉を鳴らして飲んでみた。味は分からなかった。彼の血を啜ってるみたいに思えて。

「あんたは?」

 缶を持ち上げてみたが、要らないと首を横に振られる。そういえばこの人は、ビールをあんまり好きじゃなかったっけ。改めて玩具みたいな、ちぃさな冷蔵庫の中を見る。ビール以外は、なんにも入ってなかった。

「今度ワインクーラー、買って来てやるよ」

 飲み口がさっぱりした、この人が好きなBJオリジナル。緑のライムが好きなのも覚えてる。

 親切で、言ったつもりだったのに、ベッドの上の気配がぴきんと強張る。

 彼はなんにも言わずにそっと、裸のカラダを横たえて毛布を被ったけど、俺は臍を噛む思いだった。俺はまた失敗した。『外』と『昔』を思い出させる言葉は、今のこの人には禁句。

「……」

 二本目のビールを飲み干して、俺もベッドに上がる。狭い。部屋もベッドも、何もかも。安い娼婦の部屋みたいだと、改めて思う。生活を物語るものは殆どない。着替えが壁の凹みを利用した衣装棚に何着が掛けてあるだけ。

 そこでオンナを、ただで抱く。オンナは俺になんにも欲しがらない。どころか、俺から何かを与えられることを拒んだ。それだけがこのオンナの悲しい拒否だった。俺自身からは離れきれないこの人の。

 狭いベッドの上で、抱き寄せる。向けられた背中ごと。それしかしてやれることがなかった、遠い昔を思い出す。俺がまだ、人に話せば笑われる荒唐無稽な野心の他に、なんにも持って居なかった頃から、優しくしてくれた人。

「……、みたいだな、俺……」

「なに?」

「ヒモみたいだな、俺」

 娼婦の、とは言わなかった。でも伝わったらしい。悲しく笑う気配がして、彼はこっちに向き直る。

 しばらく、何かを考えて、そして。

「……寂しいんだ」

 俺の体ごと頬を寄せ。

「なぐさめて」

 すりつける、ようにして強請る。

「寂しくて死にそうだから、慰めて」

 強請られるまま抱こうとして、ふと気になった。腕を掴んでこっちを向かせる。目が馴れたとはいえ薄暗闇の中、顔色は見えない。彩りを消されて生来の、端整さがひきたつ翳りの濃い美貌が、少しだけほころぶ。

「どうかしたの」

「なにが、そんなに寂しいんだよ」

「棄てられたんだ、恋人に」

 すらすら、彼は答えた。他人事みたいに。自分が棄てられたことも、そして。

「最初から、そいつにとっては俺、身代わりの人形だったの。……カラダだけ、遊ばれるよりひどいよ」

 気持ちをもてあそんで壊した、ひどい真似した俺のことも。

「可哀相だろ?慰めて」

 言われるとおりにしながら、ふっと思った。じゃあ俺の悲しみとか寂しさは、誰が慰めてくれるんだろうか、って。口に出してみたら、

「足りないのか?」

 浅い呼吸を乱し始めた人に真顔で尋ねられる。

 咄嗟に答えられない俺に、二度は尋ねなかった。彼は困ったように笑って、そして。

「……啓介」

 俺の名前を呼んだ。

 呼び捨てにしろと最初に『会った』とき、俺が要ったのをおぼえてたらしい。

「啓介」

 目を閉じてきていると、本当に、あの人に呼ばれてる気がする。……違う。

 これがあの人、そのものに思えてくる。

「愛して、るよ。……啓介」

 本当かよ。とてもそんなこと、信じられねーよ。

「愛してる」

 そういえばこの人は、ひどいウソツキだったっけ。

「ウソツキでも、お前のこと、愛してるよ」

 ……うそつき。