すべからく、すべて・30

 

 

 最近、足が遠い。

 啓介が暫く来ない。

 間があく理由はわかってる。レースの開催地が大洋の向こう側に遠ざかったから。大きな金額を稼げる仕事には当然、それに相応の義務と責任があって。

 啓介もそうだった。レースで走る以外にも、監督をかねていて、チーム自体に目を届かせている。一流のレーサーというのはそういうものだし、そうなれなきゃ長く続けてはいられない。言うことをきくだけの技術者なら、若い方が使いやすいからだ。

 俺の部屋の冷蔵庫にはビールが溢れそう。鮮度が味を左右する飲み物なのに、このままじゃ不味くなっちまう。俺はビールのホップの香りが苦手で飲まないから、これが減るには、啓介が来てくれるしかないのに。

 毎日、午前九時から午後の五時まで、俺は研究室の軽作業をして暮す。主に、一人でできる単純労働。でも楽しかった。じっと部屋で啓介を待っているより、少なくとも、気晴らしが出来るから。

 俺が『実験動物』だってことを知ってる研究員たちは俺に近づいて来ない。近づく連中は大抵が、俺のカラダ目当てだった。そんなにいいものなのかな、セックスって。俺に接触を持てば破滅なのに。研究の秘密を守るためには、ここの所長は、手段を選ばないから。

 例外は女の人たち。受付や食堂の人たちは俺に優しかった。多分、俺が子供だからだろう。男性と女性の一番の違いは、『子供』に対する認識の差だと思う。俺は彼女たちより背は高いけど、彼女たちは俺を子供として扱う。男たちはそうじゃない。いつも、俺に、生々しい目を、向ける。

 それから逃れるために、俺は無口になっていく。部屋に戻ってテレビを点けるのが愉しみ。全世界の全ての番組が見れるケーブルテレビには、捜せばいつも啓介の姿があった。ない時はビデオを見るのが、一日の楽しみ。

 その日も俺は仕事を終え、ビデオをかけて画面に流していた。寂しい、あいたい。早く会いに来て顔を見せて。そう告げる手段は奪われて、俺は電話も手紙も出せはしない。画面を見ていると涙が滲みそう。

 弱ってる自分を自覚する。啓介が暫くやって来ないと、俺は底なしに弱くなる。だってあいつだけが、俺の存在の理由だから。あいつに抱かれてあいつを慰めるために、俺はここに生きているんだから。

 落ち込みそうな気分を変えるために、俺はポットを持って部屋を出た。出る前に監視カメラで、部屋の前の廊下に人気がないことを確認する。以前、待ち伏せしていた男に、ドアを開けると同時に押し込まれ、乱暴されかけたことがある。

 幸いと言うか、俺のブレスケットには動作感知機能がついていて、俺が日常生活から逸脱した動き、たとえば乱暴されようとして無茶苦茶に抵抗をしたり、すると警告音を発するように、なっていて。すぐに警備が駆けつけて、俺を助けてくれた。以来、俺の部屋の前にはカメラが取り付けられた。押し込んできた男がその後、どうなったかは知らない。

 給湯室へ行きポットにお湯を満たす。途中、ロビーに明りが点いているのを見て、俺は足をとめた。そこに所長が居たからだ。外から帰ってきたばかりなのかスーツを着て、明りの下で少しぼんやりしてる。この人はいつもそうだった。研究所から出た後は疲れて見える。『外』はこの人にとって居心地のいい場所じゃないらしい。

「……、さん」

 俺は名前を呼んだ。ゆっくりと顔がこちらを向き、俺を見て笑った。疲れた表情で。

「やぁ」

 言葉は優しかったけど短い。

「……ビール、召し上がれますか?」

「好きですが、どうしましたか……、先輩」

 俺はこの人が嫌いじゃなかった。何故かって、俺を『眠ってる』彼みたいに扱うから。それは啓介と同じだったから。つまり啓介と似ているから。

「俺の部屋、ビールで埋まりそうなんです。飲んで、減らしていただけると嬉しいです」

 俺の報酬は大した金額じゃない。けど衣食住は研究所もちで、冷蔵庫とテレビを買えた後は俺には、欲しいものがなかった。だからビールだけを買い、部屋にはソレが溜まっていく。

最初のうちは啓介が着てくれたら、ベッドの横まで積みあがった箱を指差して、お前のせいだって言ってやるつもりだった。でももう、俺は気力が萎えてきた。積み上がった箱は、俺が棄てられた証拠みたいに思えて。

「それは嬉しいな。ありがたくいただきます」

 所長は答え、俺について来る。部屋の前で、俺は箱を渡すつもりだった。でも所長は部屋の、中まで入ってきた。戸惑いながらも、俺が箱を下ろそうとすると、

「冷えているのがいいな」

 言いながら所長は冷蔵庫へ。中のビールを取り出して栓を開ける。困りながらも、俺はなんて言っていいか分からず黙っていた。所長は俺のベッドに腰を降ろす。でも、文句は言えなかった。他に座れるところはないから。

 俺はポットのお茶をカップに移して、所長の隣に座る。途端に肩を抱かれて、ようやく。

「すいません。そういう意味で、お誘いしたんじゃありません」

 俺は言葉を見つける事が出来た。

「……ねぇ、先輩」

 たかがビールで酔うとも思えないけど、聞いた事がないくらい優しい声で。

「俺を選びませんか?」

 言いながら、所長は床に座った。正確に言うと膝まずいた。飲み終えたビールの缶を横に置いて、俺の膝に手を掛ける。

「あんな男のことは忘れて、俺と幸せになりましょう。せっかく生まれ変われたのに、あなたの一生を、またあの男に奪われるつもりですか?」

 いう事がおかしかった。それで俺は、あることに気がついた。

「手術が近いんですか?」

 尋ねる俺に所長は苦笑する。そうですと、答えて所長は、俺の膝に頬を寄せて。

「あれはひどくて、悪い男です。先輩のことを好きにしたいだけで、先輩のシアワセなんて少しも考えていない。あれは愛情じゃないですよ」

 告げられながら、奇妙な既視感。以前もこんな風に誰かに、こんなことを言われた気がする。相手はもっと、厳しい表情の髪の短い男だった。でも言葉の意味は同じ。啓介を弾劾し、自分を選べは幸福にしてやると告げる。あれは誰だった……?

 思い出せないままに、でも。

「あなただって、考えてないでしょう」

 俺のシアワセなんてと告げる。ただ自分を満足させるために俺を欲しいだけだろう、と。

「違います。俺は先輩を愛してる」

「俺の身体にしろ心にしろ、自分のためにほしがってるって意味は同じですよ」

 冷たく告げると傷ついた顔をするあたり、純情は信じてもいいけれど。

「本当に、俺に幸せをくれたいなら、お願いがあります」

「どうぞ、何でも」

 所長は嬉しそうに笑ったが。

「啓介に、会いに来てって、連絡をしてください」

 手術が近い。それは俺の、死期が近いということ。俺はこの世から居なくなる。啓介が愛した人にこの身体を渡して、俺は……。

「死ぬ前にもう一回、抱いて欲しいって、伝えてください」

 俺の幸せはそれだけ。本当にそれ一つ。

「……助けてあげたいのに」

 所長が切なそうに呟く。けれど。

「俺を助けられるのは啓介だけですよ」

 たとえば手術が永遠に行われず、俺がこのまま生き続けたからってそれが、なんだろう。隣に啓介が、居てくれなくちゃ生きてる、意味が、ない。

「あいつに会えずに百年生きるより、会えて死ぬ方がいいんです」

 それが幸せ。俺にとっては。俺の幸福を他人が口出し、するのは許さない。俺の幸せは俺しか知らないから。俺は……。

「そういう愛は、なにも生みませんよ?」

 生意気な、と、俺は思った。聞きなれた、聞き飽きた忠告。

「生産性と幸福は違うものですよ」

 そんなことより、俺は。

「早く会いたいって、伝えてください。これ以上、放っておかれたら死んじゃう、って」

 言いながら心の中で告げる。あいつと愛し合えた、あとなら滅びてもいいのだ。

 そのためだけに、生きているのだから。