すべからく、すべて・4

 

 

 男の掌が背中に添えられる。俺は目を閉じ、その感触を味わった。触覚を味に例えるなら、それは丸のまま茹でたジャガイモにサワークリームと塩入りのバターを載せて、フォークの先で崩しながら食べる、あのほくほくとした温かさだった。

「……俺さぁ、このまんま、かな……?」

 掌は温かいのに男の声は沈んで、殆ど苦かった。ナニを言い出すか見当のついていた俺は目を閉じたまま、心にも蓋をする。聞きたくない言葉だったから。

「なんにもせずに、終わるんだ……、俺の一生……」

 繰り返される述懐。いつからだろう、この男がこんな、静かな絶望を口にするようになったのは。馬鹿を言うなよと、最初は笑って叱った。これは成功した。本当に、成功したのだ。誰に聞いてもそう答えるだろう。

 華やかなレースの表舞台で勝ち上がり、冗談みたいな年棒と賞金を稼ぎ出し。

 街を歩けば目に付いた、欲しいと思うものは殆ど全てが手に入る。カードを取り出してサインをすれば、それで済む。オフシーズンの日本滞在中は、以前に俺と一緒に泊まったこともある、箱崎近くのホテルのロイヤルルームを借りっぱなし。天井の高い夜景の素晴らしい、レインボーブリッジが見えるジャグジー付きのあの広い風呂に、どんな女の子だって引っ張りこめる、だろ?

「つまんねーよ。もう、なにしても、全然……」

 最上階にあるエグゼクティブルームに宿泊した人間だけが入れるクラブルーム。その中でも仕切られた貴賓室で、誕生日の祝杯を一杯だけ、俺は飲みに、来た。

「あんたいねーと、生きてても、つまんね……」

 俺が座ったソファーの背もたれごと、俺を抱き締めて泣きそうな声で、俺の肩に前髪を擦り付ける。かわいい仕草だった。とても可愛かった。きっとこんな風に甘えられて、許さない女なんていなかったんだろうなと、俺に思わせるくらい。

 俺はグラスを持ってない手を伸ばして、男の髪に指で触れた。みかけよりずっと柔らかな髪をしてる。優しく、やさしく、柔らかく撫でてやった。

「……ゆるして……」

 謝罪の言葉は泣き声で。

「俺が悪かったよ。あんたの思い通りになる。言う事なんでも、きくからゆるして、くれよ……」

 ごめん。

「俺が……、悪かった、よ……。ごめんなさい……」

 泣くなよ。謝るな。もう怒ってないよ。だからほら、お前も泣き嘆くな。お前を愛してるよ。

「……泊まってって、くれる……?」

 その問いに首を振る。横に、振った。男が拳を握り締める。俺は……、別に、もう、よかった。

 殴られるのが怖かったこともあった。びくついて、男の言うとおりにしたことも。多分、それが悪かった。俺が悪かった、のだ。

 暴力とセクスで俺を縛り付け、支配して増長した男に俺は、呼吸さえ圧迫されて過ごした。一緒に居る時間はずっと。そんな時間は長く続かなかった。……俺は。

 長くは、もたなかった。

「エッチ、しなくて、いいからさ……」

 そんな問題じゃないんだ、啓介。俺はもう、お前が怖い。お前の怖さを、俺は知ってしまった。知ったからには、忘れられないよ。仕方ないだろう。

 もう、お前と二人には、なれない。なりたくないんだ。決して。

「そばに、居てくれよ……」

 甘ったるい哀願。そして最後に囁かれる告白。舌足らずにお前が俺を、スキだっていう言葉は何年ぶりかな……?

 嬉しいけど、もう、俺は駄目だ。

 お前は新手の女を捜して、それに優しくしてもらえ。

「部屋、ちょっと弄ったよ。ウェルリンクスの家具、入れさせた。じじ様の応接間に、似た雰囲気になったよ」

 その言葉に少し、俺は笑った。懐かしい記憶だった。軽井沢にあった祖父の、隠居所だった洋館。祖父は俺たちがまだ大学生だった頃になくなり、その後片付けを二人でして居た、時。

 応接間の奥にはベッドがあった。高価な家具だけ集めて業者が、置いていったのだった。大きなベッドだった。あんまり大きかったから、ふざけて、二人で横たわった。

 懐かしい思い出はしかし、一瞬後には、苦い回想になる。あの日、あそこで俺たちは、間違いを犯した。禁忌を破って啜りあった蜜は当時とてつもなく甘く、今はその報いのように苦い。

 伸ばされてきた腕の中に、俺は自分から包まれた。包まれたいって、ずっと思ってたから。お前は落ち着いたふりで俺にゆっくり振舞ったけれど、指先は震えてた。俺は畏れるように終始、目を閉じていて、それでもお前の息が漏れてるのが分かった。

 だから、多分。

 あの日のあの場所で、俺がお前を犯してしまったんだと、思う。

 女の子みたいに愛されて、抱き締められたのは俺の方だったけれど。

罪を、犯してしまったのは、俺だ。

「部屋で、一緒に飲もう。心配なら、俺のこと縛っていいから」

 優しい誘いに首を横に振った。ついでに、ほんの少し、偶然のふりをして頭をぶつけてみる。可愛い、いとしい、俺の弟で恋人、だった相手をそうやって感じた。

「……俺が悪かったよ……」

 そう。お前が悪い。

 どうしてこんなに大きくなっちまったんだ。俺の腕の中に収まりきれないほどに。

 俺は、お前の腕の中には入れない。

 だから、お前の巣立ちは真っ直ぐに、俺たちの別離をいみしていて。

「けど、あんただって、悪ぃんだぜ」

 先に諦めた俺をお前は、散々に痛めつけた。もういいだろう。……手を離せ。

 俺は立ち上がって、自分の家に帰る。お前はお前の部屋で、眠れ。

「あんたがもっと、ロクデナシなら良かったのに。いっぱい小遣いやったのに。楽して遊んで暮して、時々俺に優しくしてくれれば、それで良かったのに」

 ……兄弟、だな、俺たちは。

 どうしようもなく、似てる。

 支配したがりな欲深さが、そっくり。

 同じことを、俺たちは求めて。

 互いに応えきれなくて、離れた。

 お前を愛してる。お前が俺を愛してくれてるのも、分かってる。

 けどお前の要求は俺には過酷すぎた。毎日お前の帰りを待って、優しく笑って、お前にあわせて、お前の掌の中だけで、生きていくのは、俺には苦しすぎる。

 息が、出来なくなる。

 お前もそうだろう?だから、お前は、俺を……。

「高橋さま、お時間でございます」

 やがて現れたホテルのコンシェルジェ。若くはないが長身で、紺地に銀をあしらった制服をキッチリ着こんだ落ち着いた男。俺をソファー越しに背後から抱き締める男に驚きも見せず、静かにドアを大きく開く。

 俺は立ち上がった。俺を拘束していた男の腕が外れる。はずれなきゃ困る。けど外れるのは寂しい。寂しいけれど、仕方がないことだ。俺はもう、この男とは、寝ない。

 出て行きしなに振り向くと、男は俺に背中を向けてソファーに座っていた。一人ぼっちで、寂しそうだった。これから飲みなおして酔いに紛れて朝まで眠るのか、何処かから適当な女の子を呼んで慰めてもらうのか、それは知らない。知りたくもなかった。

 知ってることは一つだけ。俺はもう、慰めてやれない。それだけ。

「……啓介」

 呼びかけると背中は揺れた。でも振り向かない。俺がこいつをもう抱いてやれないから、結局、何もしてやれないことをこいつもよく分かってる。

「セクス、しなきゃ良かったな」

 甘くて濃密な、交わりは俺たちを溶け合うほどに近づけた。気持ちが良くて、互いに嵌っていた。愛情と執着を募られて、挙句に今、こう、なっちまった。

 多分、俺たちは濃すぎた。一生分の接触をもうし尽くして、だから互いに、傍に居れなくなった。

「お前と……、寝なきゃ、良かったよ。俺が、間違ってた」

 兄弟のままでいられたら、今でもずっとお前に優しく、してやれただろうに。一緒に、食事をして酒を呑んで。時々、女の子のところに行って戻ってこないお前を待つ、寂しさを苦笑で誤魔化しながら。

 隣に居られたかもしれないのに。あの日、カラダをかさねた瞬間までのように。

「……おやすみ」

 取り戻せない過ちを悔いながら、俺は部屋を出た。天井の高いホテルの廊下を歩き、エレベーターに乗ってロビーを通り過ぎ、行儀のいいドアボーイの会釈を受けて、外へ。

 客まちのタクシーに俺は乗らなかった。地下鉄の駅にもおりなかった。ゆっくり歩道を歩き出す。少し、熱を冷ましたから。

 酒の酔いと、男に吹きかけられた、熱を。

 何歩も歩かないうちに、胸元で鳴り出す携帯。

「……はい」

 振り向きながら、俺は返事をした。振り向いた先では大きなホテルが、俺を睥睨するように電飾に飾られ瞬いていた。あの何処かから、男が俺を見てる。

『……動くな……』

 低い、セリフ。

『そこ、動くなよ。怪我したくなけりゃ』

 イマサラの脅し文句。

「啓介、俺は……」

 もうやめてくれ。頼むから。

 そう、告げる間もなく囲まれた。背の高い屈強な男たち。啓介についているSPたち。契約と金銭に忠実で主人の意向を受ければ不法な暴力さえ辞さない、たちの悪いプロの男たち。

『……ナニ?』

 携帯の電波ごしに、男の声が荒れる。エレベーターに乗ったのだろう。

『俺は、なに?言って?』

 ……俺は、啓介。

 お前を愛して、いるよ……。

『去年は失敗したよ。ホテルで監禁なんて、俺、頭悪かった』

 荒れていた音声が、一度もとに戻ってプッと途切れる。

「別荘、行こうか。買ったんだ。本当は避暑用だけど、まだ雪、積もってねぇから大丈夫」

 追ってきた男がホテルから出て、俺の後ろに立つ。同時に横に滑り込んできた高級車。後部座席のドアが開いて。

「はい」

 俺は、丁寧に、招かれた。

「はい、どーぞ」

 嫌だと、かぶりを振ると男はSPに目配せ。荷物みたいに無造作に、皮のクッションの上に押し込まれる。起き上がるより先に男が乗り込んで来て、俺を押さえつける。

「寒くねぇ?」

 暖めるような仕草で、俺を抱きすくめて、拘束。

「すぐ、エアコン効くから我慢、してな」

 声も出せずに、俺は震えていた。

 怖くて、こわくて……、恐ろしい。

「震えんなって。前みたいな馬鹿は、しねぇよ」

 信じられない。

「途中でやめて手放しゃしねぇ。俺、もぅ、あんたに嫌われも、いい……」

 ようやく覚悟がついたと、掠れた声。

「あんたがもう、俺のこと、ナンとも思ってねぇんなら」

 ……どうして、そんなことを、言い出す……?

「あんたに嫌われたくなかったから、出来なかったこと、いっぱいあんだぜ、俺」

 あたけ梳き放題してて、まだ?

「……なぁ。間違い、って、ナンだよ……?」

 泣き出しそうな、震える声に。

「あんた俺とのコト、そんな風に思ってた、の?」

 俺はまた、自分が深い、取り戻せないほどの。

「ひでぇ……」

 間違いを犯したことに、気づいた。