すべからく、すべて・6

 

 

 わざとじゃなかった。本当だ。

 学生時代、確かに薬理の授業はあった。単位もとった。けど、南国り夕日に映えて素晴らしく美しいシルエットを見せるある種の檳榔樹の、真っ赤な実にそんな作用があることは知らなかった。

 俺は、ただ。

 広い敷地の屋敷の、これまた高い生垣に囲まれた中庭の、さらに頑丈な柵の中だけはこの部屋から出れる、ほんの少しだけの自由を味わって。

 風にゆれる檳榔樹の葉を眺め、芝生に落ちた真っ赤な実が、とてもきれいで。

 あんまりキレイだったからそっと、監視の目を盗んで部屋に持ち帰り。

 一人ぼっちのベッドの中で、掌に転がしたり、眺めたり。

 愛玩、しているうちに、何かの拍子に口に含んだら、味が甘くって。

 固い木の実は、食用にはならない。けれど口の中で転がしていると歯が当たった表皮の傷から、甘酸っぱい、真っ赤な汁が染み出て。

 その効果は即効性だった。すぐに頭にツーンときて、目を瞑っても目眩がした。酒に酔った状態に似ていたが麻酔効果のあるアルコールの酔いとは違う、体の芯が、くらくらと、揺れるような陶酔感、だった。

 そういえば。

 俺が幼い頃に亡くなった祖父は、南方に軍医として従軍した経歴を持っていて。

 重傷で、苦しみながら、手当ても出来ず死んでいく兵士の苦痛を見かねた現地の人間が、赤い身をまだ若いその兵士に、含ませてやったことがあった、とか。

 数分もたたないうちに兵士から苦痛の色は消え、やすらかとはいえないまでも穏やかに、静かに息を引き取った、とか。

 聞いたことがあった。でも赤い木の実は多い。これがそうだと、思いついたのは本当に、後になってから。

 確かに、気づいてからも止めはしなかった。庭に出たときに木の実を拾い、夜にシーツを被ってそれを口の中で転がす、その安息を手放せなかった。

 ……だって。

 広くて快適で、風がよく通る俺の寝室はでも……、檻。

 天井には赤外線の監視カメラが点けられて、時々不意に、それが瞬くのは啓介が命じて俺を撮らせてるから。画像はネットで啓介の手元に、殆どタイムラグなしで届く。だから俺は部屋にいる時間の殆どを、ベッドの上でシーツを被って過ごす。

 時には監視の人間が部屋に入ってきて、丁寧に俺からシーツをはがして、あっちを向けとカメラを指差す。そんな時、俺は俯きながらもカラダを向ける。カメラごしに男の視線が瞬いて、犯されている、気さえする。

……だから。

 見張られていることを忘れたかった。心を緩めて、楽になりたかった。密輸される希少動物みたいに違法に日本から連れ出され、隠されて閉じ込められて飼われてる現実を。

 そうして俺の飼い主以外には、俺に触れたり、話し掛けたり、してくれない寂しさを。

 忘れたかった、んだ……。

「よくも……、あんた……」

 最近は赤い実の酔いに、心を紛らわしていない時の方が少ない。常夏のこの国で檳榔樹はいつでもやさしい実をつけ、それを風が、俺のために芝生の上に、落とした。

「よくも……ッ」

 この、男が。俺の飼い主が。

 今夜、戻って来ることを俺は知らなかった。使用人や監視役たちは誰一人、俺と口をきいてはくれない。以前は俺に、話し掛けてくれるやさしい奴も居た。けれどそんな気配を見せた途端、屋敷から追放されるのを見て、やがて誰もが俺と視線さえあわせるまいとする。

 俺は……、そんなに、人恋しい方じゃない。どっちかというと一人になりたがりだ。でも。

 周囲の人間たちから、そこに居ない、みたいに無視されるのは少し、つらい。

「俺がこんなに大事にしてんのに……、なんで、ンな真似するんだよッ」

 低い怒声とともに、後ろ髪をつかまれて、何度もぶつけられる。

 わざとじゃないと、俺は言おうとした。でも言えなかった。ここでの暮らしのうちに俺は、声というか、言葉をすっかり、失ってしまって。

 代わりに。

「……ぁあ、ア……」

 嬌声に似た悲鳴で許しを乞う。

 痛い、わけではなかった。

 飼い主に、大切にされているのは本当で、今も、額をぶつけられているのは床や壁ではない。柔らかく大きな羽枕。後頭部をぐりぐり押さえられても、痛みが生じるわけじゃない。

 でも、俺にはとても、辛かった。

 飼い主の、怒りが。憎悪、が。敵意が。

「……アニキ……」

 男の声が低く沈む。掴まれてた後ろ髪が解放される。頭を、ぶつけられるのは終わった。代わりに、シーツの上にうつぶせに這わされて、後ろから腰骨を両手で捉えられて。

「……、ぁ、アーッ」

 犯される。

 久しぶりの、交合。

 なのに……、なんにも馴らされない、ままで……。

 …………イタイ……。

「……、ッ、は、……、に、キィ……」

 ムリに俺を引き裂いていく、男の方も辛そうだった。それでもぐ、グッ……、っと……。

「ぅえ……、ッ、えぇ……、うぇ……、っく……」

 止めてくれ……痛い……。

 お願い、も……、勘弁して……。

 愛玩は言葉にならず、表情や身振りでしめそうにも、背中から抱き締められてて顔さえ見えはしない。俺に出来るのは敷布の端を握り締め枕に歯をたてて痛みに耐えるだけ。

 どう、して……?

 俺を扱うことに関しては、憎いくらいに、上手な男なのに、お前。深爪した時みたいな一瞬の苦痛と疼きだけで、俺をとろかすことが出来るくせに……、どうして……。

 こんな風に……、わざと痛く、俺を抱く、の……。

「苦しそうだね。……俺も、キチィけど……」

 全部を納め終わって男は息をつく。その動きさえ、男をムリに、咥えこまされた俺には苦痛だった。

「かわいそーに。でもさ。あんたがンなの、ヤッてるって知ったときの、俺も痛かったよ……?」

 だから、わざと。

 俺を痛めつけながら、抱くの、か。

 自分が強者だって。支配者で、飼い主だって、俺にいまさら、思い知らせる    ために?

 ……酷い……。

 お前と愛し合った、お前を愛してた俺にこんなのは、酷いよ……。

 ……啓介……。

 声も出せずに、涙にくれる俺の。

「どーして、おとなしく、暮してくれないの……?」

 背中にキスしながら、男が悲しそうに、俺に問い掛ける。

「したら俺、なんでもしてやんのに。あんたのために、俺、生きてん、のにさ……」

 ゆっくり、俺を揺らしながら。

「あ。あ。あ……、ァ……、アーッ」

「あんたがあんまり、悲しそうに外、見てるから庭に出れる、よーにしたんだ、ぜ……。なのにンな真似、しやがって……」

 言っているうちに腹立ちがぶり返したらしい。男の掌に力が篭る。楔を中に打ち込まれた腰骨をえぐられて、俺は悲鳴を上げた。

 嬌声より、断末魔に近かった。

 痛めつけられる恐怖と裏腹の、残酷なセクス。

 男はそれで、俺を自分に繋ぎとめる。人間じゃない。抱き人形、なんてほど高雅でもない。鳴かせるための、ペット……。

「前、みたいに部屋に縛って、やろーか……。短い鎖で、身動きできねーよーに。電気刺激で、筋肉は動かせる、ぜ……。上も下も、女中たちの世話に、またなりたい……?」

 怖い脅しだった。必至に頭を振って嫌だと訴える。以前そう、されたことがあった。三日か、四日間。まだこの屋敷につれてこられた当初、なんとか逃げようとしていたのを見つかって、罰に。

 あれでもう、俺に残ってた人間の尊厳は、全部、壊されて。

 ……もう。

「イヤ、か?」

 いや。やめて。あれはもう勘弁、して。

 言う事を、きくから……。

「なら、いい子に、していて、よ……」

 きつく掴み取っているだけだった男の掌が、そっと慰撫する動きに変わっていく。

「健康で、長生き、して……。心臓に悪いんだぜ、こんなの。あんたの方が、よく分かってるだろ?」

 そう、かな。そうだな。でも実感が湧かない。薬物が心臓に負担をかけるから、それで?俺が死ぬのがイヤなのか、弱るのが?弄って遊べなくなるから?

「あんたのこと、抱き締めんのだけが楽しみで、俺、生きてんのに。引退したら、ずーっとあんたと、一緒に過ごすんだ……」

 突き上げられて、揺らされて。

 ずっとこうやって虐められてたらそれこそ、長くは生きれない気が、する。

 けどまぁ、それでも、いいけど。

「……、ダスぜ……」

 言葉とともに、注ぎ込まれる熱が俺の身うちをやきつくす。

 敷布に崩れて息も苦しい、俺を貫いたまま、男は俺の体をかえした。足首をつかまれて。

「……ッ!」

 膝を開いたみっともない格好を、させられて。

「……、う、ゥ゛……」

 泣きながら、喘いだ。

 誤魔化せない性感に震えながら……。

 

 

 翌日。

 朝早いうちから、檳榔樹は切り倒された。

 男が目覚めるまで腕の中に捉えられていた俺は、それを知らなかった。

 知らないまま、男に連れられて風呂に入った。この男が居る時だけは、俺は自分で湯に浸れる。見られながら、時々は手を伸ばされてイタズラされながら。

 でも、いつもよりは、マシ。

 いつもは……、濡らして搾った布はふんだんに与えられるけど。

 入浴は、自分では出来ない。させてもらえない。浴槽の取っ手に手首を縛られたまま、監視役の男に見られながら侍女たちに洗われる。理由は、これも屋敷に捕らえられた当初、俺がカミソリで手首を切ったから

その傷跡は、まだ残ってる。多分もう、消えることはない。

 風呂から上がって、啓介は寝室のサッシを開けた。途端、エアコンの人工的な冷気の代わりに木陰を渡ってきた涼しい風が部屋に満ち、俺の頬を撫でてくれる。俺はこの風が好きだった。でも今日は、それどころじゃなかった。

 防音を兼ねた二重ガラス。それが外れ、風と同時に、大きな音が。

「っ、と。……ダメ」

 中庭に裸足のまま飛び出そうとしたところを捉えられる。

「ダメだよ。ほら、おいで。メシ、喰おう?」

 屋敷の奥に引き摺って連れて行かれそうになる。俺は必死で抵抗した。この寝室からは夕焼けを背負う位置にある檳榔樹の、影の形が好きだった。俺の心を慰めてくれる、たった一つのものなのに。

「乱暴したくないんだ。ほら」

 おいで、と繰り返される。その手をふりどけない事を悟って、俺は咄嗟に、床に膝をつきうずくまる。座り込んで抗おうとしたわけじゃない。そんなのはこの男にはなんの意味もない。捉えて担がれるだけ。

 そうじゃなくって、俺は。

 男のカラダを手でなぞる。頬を、下腹に擦り付ける。そして男の前に、唇を押し付けた。とくんと緩く反応、したのにほっとして、口を開いて歯でジッパーを引き下ろす。

 ……するから、ヤメテ……。

 何度か、これで取引を、したことがあった。

 寝室の外に、俺が出れる庭をつくってくれたとき、とか。

 身動きできなく縛られた状態から解放されたときも。

「……すんの?」

 男の、声が奇妙に揺れる。馬鹿にしているような悲しんでいるような。

 男が好きなことなのに。俺にさせるの、好きなのに。

 喜んでないのは俺にも伝わった。

「間に合う、かな……?」

 何故だろう、という俺の思考は男の言葉に中断され、俺は顎を、擦り付けるみたいにして男のを下着から吸い出して含み、しゃぶる。舌を絡ませる。反応はするけどなかなか、最後の高揚には行き着かない。俺は必死で、男をイかせようと努力した。

 間に合わなかった。

 チェンソーの音が不意に軽くなり、どさりと音がして、檳榔樹が切り倒されたんだと分かった。男のを吐き出して庭を振り向こうとした。許されなかった。

 顎を掴まれて、後ろ髪を捕らえられて。

 咽喉の、奥まで、のまされて。

「……、絞めな……」

 命令する男の息が荒い。俺は従わなかった。男に憎しみを感じたから。あの優雅な影を夕焼けに描いた檳榔樹を、切り倒させた、男。

「イヤか……?なら、いつまでも、このまんま、だぜ……?」

 ずいぶん、俺は意地を張ったけど。

 最後は苦しさに負けて、喉を搾って、男を滾らせて、終わった。

 

 

 俺の腰、くらいの位置で切り倒された、切り株はちょうど、俺の片手で抱き取れるくらいで。

 荒い繊維の、皮に包まれたそれを、俺は両手で抱き締める。

 地面に膝まずいて。

 俺を慰め続けてくれた、樹だった。美しい姿で、うとうと出来る木陰で、そしてやさしい赤い実で。

「……立てよ」

日暮れから夜半まで、俺の背中を抱いていた男に、催促されて頭を横に振る。

イヤだ。

ここに居る。ずっとこうしてる。もう、イヤだ。

なにもかも、何一つ、俺には与えられないで。

どうしてお前のいうことだけを、俺がきいていなけりゃならない、んだ……?

もぅ、イヤ……。

「立てって、冷えてきた。風邪ひくよ」

 やさしい言葉。でも、それは本当は違う。

 俺にやさしいわけじゃなく。

 カラダだけ抱きたいだけ。だから大事にしてるだけ。

「メシも喰ってねぇじゃねーか。ほら」

 手首をつかまれる、左右に開かれる。切り株から俺を剥がして立たせる。

「あんたの好きなの、用意させたから、さ」

 引かれるままに、歩き出す。俺一人だけの時は閉じ込められっぱなしの寝室を抜けて回廊を通り、天井の高いホールへ。そこには暖かな食事が用意、されていた。織物の上の低い台の上いっぱいに。俺を床のクッションに座らせて、男は俺に、銀の箸を持たせようとする。わざとではなく、俺はそれを落とした。手指に力が入らなかったから。

「……ほら」

 差し出されたのは、新しい箸じゃない。男が手で、剥いた海老を俺の口元に持ってくる。

「食べなよ。……食べて?」

 大人しく口をあけた。逆らってもムダだと思ったから。口移し、されるのはもうゴメンだった。

「美味い?」

 味なんか、分からない。ここに捕らえられて以来、ずっと。

「いっぱい食べて、元気に、なってな」

 やさしい顔で男が言う。

 ……壊してやる……

 俺はその時、そう決意した。

 壊してやる。お前の大事なものも。

 撫でて抱いてるのがお気に入りの、このカラダ。

 壊れてやる、とは、もう思わなかった。コレは俺のじゃなかったから。俺はとぉに、自分自身を所有することさえ禁じられて、自我さえ奪われ隷属させられていた、から。

 主人を憎む奴隷が自身の住まいごと、主人の家に放火して燃やし尽くすように。

 俺もお前の宝物を、壊してやるよ……、啓介。

「愛して、いるよ」

 そう。

 お前がこよなく執着して、俺から奪って大切にしているこれを、必ず壊して、思い知らせてやる。

「夕べ、悪かったよ。今夜はちゃんと、あんたのことも可愛がるから」

 ……言って、いやがれ……

「いっぱい、イかせて、あげるから」

「……ッ」

「なんで泣くんだよ?」

 困り果てた様子で、男は俺を抱き締めた。

「実はもう、やんないって約束したろ、夕べ」

 約束じゃない、あれは強要だった。

「代わりにあんたが、好きな樹植えてやるよ。パパヤがいいかな。スキだったよね」

 スキだった。あの甘い果肉。でもいい、もう食べない。お前から与えられる餌は。

「あんたが笑ってくれるなら、俺、なんだってするんだけど……」

 自分でも諦め半分、みたいに男が、言ってため息をつく。

 笑いなんて、言葉より先に忘れてしまっていた。

「いいよもう。そばで生きててくれれば、それで」

 俺を引き寄せ、抱き締めながら、男がそれでも未練そうに、俺を慰撫していく。

 目を閉じてそれを受けながら、俺は。

 何が、どこから間違ったんだろう、なんて今更なことをぼんやり考えて、いた。