タラップから降り立つ客の目が、出迎える人々の中の、一人の男に例外なく注がれる。大日本帝国陸軍の軍服を着て、憲兵の腕章を腕に留めた、堂々たる体躯の偉丈夫。目深に被った軍帽のせいで顔立ちはよく見えない。が、頬肉の硬そうな横顔の肌は、真一文字に引き締まった口元の頑丈さとは裏腹に、その持ち主がまだ若いことを示している。三十歳には、なっていないだろう。
オトコの周囲には人が立たない。なんとなく遠巻きに様子をうかがっている。御忍びの財閥関係者様か、極秘の政府要人でも訪れたのだろうか。そんな雰囲気を纏った男だったし、そんな時代と、場所だった。破滅の予感に脅えながら、爛熟した果実の最後の甘い蜜を吸い取ろうと蠢く。
一九四十年、上海。
迎えの人間と合流した乗客達が三々五々、散っていった後でゆっくりと、姿をあらわしたのは若い男。真っ白なアルパカのスーツが日本人には珍しいほと馴染んで、着慣れた印象を受ける。軍帽の端を持ち上げて、初めて男は船上を仰ぎ見た。逆光で、顔は欲見えない。
静かに、下りてくる最後の客を、そのまま静かに、男も待っていた。
「荷物は?」
「ない」
「お前……、そこまで自暴自棄かよ……」
あきれたように、男はためいきをつく。細い体と白い美貌の客が目の前に立った瞬間、男の雰囲気が変わった。発散していた恐さがほんの少しだけ、和らぐ。
「しかたねぇ、行くか」
「何処に」
「買い物だ。下着の替えぐらい、要るだろう」
「相変わらずおかしな男だな、京一」
うっすらと、美貌の客はそこではじめて、微笑んだ。
たった今、到着したばかりだというのに、まるで。
百年、この街に、咲き続けているような。
魔都と呼ばれる美しく淫靡で退廃と汚辱にみちた都市に。
これ以上、相応しい笑みはないほど、静かに、自然に、うっすらと。
「先にホテルに運ばせた」
「……こっちだ。車を待たせてる」
「遅くなって、悪かった」
「別に。最初か最後だとは思ってたからな」
最初ではなかった時点で待つことは分かっていた。波止場を抜けて税関・検疫はフリーパス同様だった。泣く子も黙る憲兵がついているのだ、それは当然のこと。歩きながらふと、遠来の客は京一の襟元の階級証に気づく。
「出世したのか。おめでとう」
からかうような声音。
「大尉か。たいしたものじゃないか」
男はうっすら、笑い返す。
「あんまりいい事じゃねぇがな」
「お前みたいな男でも、偉くなると責任ばっかり重くって、なんて言うのか?」
「出世が早くなって勲章の数が増えるのは、負ける軍隊のお約束だ」
さらりと言われた一言に客は足を止め、隣の男をまじまじと見つめる。信じられない言葉、だった。現役の軍人が、思っていても決して言ってはならないはずの、言葉。
「用事を済ませて、さっさと本土へ帰れ。あっちも大変だろうが、少なくともここよりは、マシだ」
「京一、お前」
「弟の居場所は調べさせといた。駅の検問を厳しくして足止めしてる。仲間の一人を抑留してるから、見捨てるわけにもいかないだろ。暫くはこの街を出られないはずだ」
「お前は?」
「俺は軍人だぜ?」
それも、徴兵されたわけではなく、自分から望んだ。一中を中退し、軍幼年学校へ進んだ。軍人の家系で、父親と長兄が相次いで夭逝し、親族の期待とその援助を受ける母親への思いやり、弟妹の将来の為に弁護士の途を捨てて選んだみちでも、それでもそれは、自分で選んだこと。
「負けたら死ぬさ。それが役目だ」
「融通がきかないのは、お前の数多い欠点のうちの一つだ」
「その台詞、そのまんま返してやるよ、乗れ」
運転手の従卒が開けた自動車の後部座席に、京一は客を押し込む。自分は助手席に座った。隣の従卒が目に見えて緊張した。よほど恐ろしい上司らしい。
家同士の付き合いが少しあって、一中時代も、ほんの何ヶ月かの同級生。帝大から法曹界に入っていれば今ごろ、地方の判事補くらいにはなっていたかもしれない、男。
「死ぬなよ、お前」
なんということはない男だった。無口で無愛想なくせに、ナゼだか自分には妙に親切で、優しかった。なぜなのか、本当は知っている。好かれていることは承知で便利使いした。そんなのは男も女も、何十人も居るけど。
「お前、死ぬな」
この男に対してだけは感じる、ほんの少しの『特別』。
「死なれると、あとが不自由だ」
「おめぇが言うかよ、それを。真っ直ぐ、弟のヤサに行く。それでいいな?」
「ああ」
「途が細くて、途中までしか入れない。それから後は歩きだ」
「途中まで出いい。教えてくれれば、一人で行く」
「馬鹿野郎。なんで非番の日に俺が、看板着こんで来てると思ってる」
一般の在留邦人は、危険で足を踏み入れられない一角。さすがに軍人には、報復を恐れて手出しして来ないから。
「危なくって、一人でうろうろはさせられん」
「じゃあ、行きだけな。帰りはいいよ。行きは……、啓介の顔を見るまでに、殺されるのは嫌だから」
「帰り、ホテルに戻る前に確実に攫われるぜ。剥かれてまわされて窓から放りだされて、朝には凍死体だ」
「いいよ、それで」
自棄゜になっている風もなく、白い美貌の客は呟く。
「死に方なんか、どうでもいいんだ。あいつにさえ、会えれば」
答えはなかった。風のない世界に、静かに霧雨が落ちてくる。この分では明日は濃霧になるだろう。
「感謝してるぜ、ありがとう」
車は静かに、夕暮れの街を走る。バンド(湾沿)の、英国首都ロンドンを模した欧州風の街並みが雨にぼやけて、うっすらと和んでいく。