海老鯛

 

 

 

 年末も押し詰まった、あと数十時間で年が改まる、ある日。

 早朝、というよりも深夜に近い時刻、須藤京一は海へ出かけた。釣り舟に乗って、肩を揉みながら。

 この頑丈な男らしくない肩こりの、原因は前日の餅つき。久々に帰省した実家で京一は散々にこき使われた。昨夜は何臼、ぺたんぺたんとつかされただろう。重い杵を振り上げ振り下ろす動作は案外、筋力を消耗する。右肩と首筋が、痛い。

 それでも、文句は言えなかった。

 日光有数の、老舗温泉宿の長男に生まれておきながら、しっかり者の姉に家業を押し付けて、気楽に一人暮らし、している身としては。

 幸い、姉婿は人のいい、その割りに商才に長けた働き者で、旅館は繁盛している。繁盛はめでたいが、新館・本館あわせて100室を越える宿泊客が食べる、雑煮の餅をつかされるのはキツイ。

「寒い」

 そう、寒い。

 あたり前のことだ。

 師走の海上が暖かかったら怪談だ。

 これまた、口に出すわけにはいかない言葉だった。

 一言でも、反駁したが最後、機関銃のような悪罵がとんで、くるだろう。

 風上の船縁に身を寄せて、毛布に幾重にもくるまって。

 上にさらに、風避けのビニールシート。

 ちょっと見には、その下にニンゲンが居るとは分からない。

 青いシートの隙間から、切れ長の瞳が覗いている。

「……ほらよ」

 プロの船頭が七輪で湯を沸かし、作ってくれた湯たんぽを京一は差し出す。手を出すこともしない我儘な美形の、かぶったシートを捲った下から、差しいれる。

 湯たんぽを、ごそごそ抱いているらしい、シートの蠢き。

「低温火傷、すんなよ」

「凍死するより、マシだ」

 するもんか、と思ったがこれも、口には出せない言葉だった。

 釣り舟の客は京一だけ。毎年、この日は船一艘、貸りきって正月用の獲物を狙うのが京一の年中行事だった。

 いつだったかその話を、何処だかの飲み屋で呑みながら、したのは覚えている。天然の、活き〆の鯛は一味違うぜ。そんな吹聴、したのも覚えてる。

 その時一緒に呑んでいた相手、高橋涼介は特に反応をしなかった。ふぅん、とかなんとか、言っていた気がする。興味を持ったようには見えなかった。覚えているとは、とても思えなかった。なのに今朝、港には見覚えのある、ありすぎる白いFCが停まっていて。

「寒い」

 それがまるで、京一の責任であるかのように、責めた。

 港、船、そして船頭の名前まで正確に覚えていた相手に京一は絶句し、船頭は三人分の毛布と握り飯の用意をしていた。

 

 狙いは大鯛。そして、平目。

 鯛は海老で海底から10メートルばかり上のタナを狙い、平目は大きめのセイゴ針を生きたイワシの鼻に引っ掛け海底近くを泳がせて食いつかせる。

 大物狙いの竿を何本か流れのしもに向かって長し、かみにはもっと実用的な獲物を狙った竿を出す。アイナメ、アコウダイ、アマダイ、カワハギ、クロムツ。マダラにマコガレイ、あたりが来るとありがたい。泊まり客に美味い魚を食べさせられる。

 準備をして、夜明けまでは一休み。朝飯のために船頭が作ってきてくれたのは握り飯。それに、七輪の上で炊いた味噌汁。味噌汁の、具はネギと豆腐。寒風吹きすさぶ甲板では、暖かさが何よりのご馳走。

「おい、涼介。朝飯だぞ」

 声をかけるとビニールシートが動いた。シートごと、動いてくる。ため息を我慢しながら京一は背後にまわり、裾をさばいてやる。姉の結婚式で、ウェリング・ドレスの裾をそうしたことをふと思い出した。

 そして京一は重箱を持ち込んでいた。姉が昨夜、京一の豊漁を祈願して作った弁当の、中身は鳥のから揚げに、卵焼き、ホウレンソウのお浸しにクリーム・コロッケ。コロッケは小さめの俵型だが20個ほど並んでいて、男三人の朝食に、余るほどだ。

「おネェさんのコロッケは毎年、楽しみだよ」

 ほくほくと、船頭は笑う。どうもと京一は答える。涼介は毛布の間から箸を出し、握り飯を引き込む。やがて満腹になったのか、ずずっとシートごと下がっていく。京一はため息をつきながら、その後を追った。

 シートの隙間から入り込もうとすると、

「狭い」

 間髪いれずに、文句を言われてしまう。

「我慢しろ。俺の毛布も、お前が使ってんだろうが」

 一時間ちょっとの、仮眠というか休憩。

 狭い、と二度は言わせなかった。ぐっと腰を掴んで強引に抱き取る。涼介は逃げなかった。大人しく腕の中にいる。暫くしてから、そっと頭を、京一の胸元にもたれさせる。

 暖かい。

 船頭は反対側の甲板で、風を避けていた。

 やがて朝日が顔を出し。

 京一は、そっと身体をはがす。

 眠ったとばかり思っていた涼介が頬を肩口に押し付ける。

 行くな、と言っている動作だった。

「ゆっくり、寝てろ。痩せたぞ」

 年末で忙しかったのだろう。頬がすこしやつれていた。

「目が覚めたら、うまい魚を食わせてやる」

 優しく囁くと、ようやく頬を肩からどかしこてんと甲板に転がる。

 髪をそっと撫でてから、京一はビニールシートの下から、出た。

 

「……若旦那、シマアジだよ」

 釣れた。実に、沢山。

 つれて当然の魚、アイナメやアマダイ、ムツはもう、船腹の生簀に入りきれないほど。

 さっきはショウサイフグがかかった。続けて七匹もかかった。とらふぐに較べれば安価だが、それでも天然の河豚は美味で、値段も高い。

 目の下一尺の鯛が、既に六枚。

 同じく、座布団平目が、七匹。

 その隙間にはカレイが、幾重にも重なっている。

 さらに。

「相模湾までおりれば随分、釣れるっていうが……。暖流系の魚が、こんなところで釣れるのは……」

 珍しい、どころではない。

 シマアジは、築地で最も高価な値の魚だ。天然の鯛も平目もかなわない。すし屋でも当然、もっとも高価だし、それさえ天然であることは滅多にない。脂の強い養殖モノさえ世間では珍重され、市場に出た途端に捌ける

ましてや、天然の、しかも3キロほどの、食べごろの、ときては。

 本来の旬は晩秋だが、12月でも卵を孕むわけでもなく、そう味が劣るものではない。ごくりと猟師は息を飲む。船内の緊張に、

「……死体でもつれたか?」

 いささか、無神経な声がかかる。

 シートの山が蠢き崩れて、隙間から涼介が起き上がった。

 寝たりた顔で、立ち上がり、フタリのそばに来る。正確に言うと二人の横の、七輪の火の前に。

「死体よりすげぇぜ。涼介、おめぇ、運がイイ」

「釣れたのか?それが、イキシメって魚か?」

 美貌の生年の、真顔の問い掛けに、船頭はきょとんとした。

 察した京一だけが苦笑して。

「おめぇ、イキシメを魚って思ってたのか」

 愉しそうに、笑う。

「……違うのか?」

「活き〆ってのはな、こうやって、跳ねてんのを……」

 魚の目の上、コメカミに京一はギャフを打つ。

「殺して、血ヌキしたのを、言うんだ」

 尾の付け根に切れ目を入れようとした京一に、

「若旦那、逆だよ」

 船頭が声を掛ける。

 魚は頭を左側にして食膳に出す。当然、〆は反対側の、尾の付け根にしなければならない。

「かまわねぇよ。ここで喰う」

 包丁で京一は尾びれを切り落とす。鰓に指をかけて持ち上げると、どろりとした血が尾から流れ出す。

「最近は生け造りしなきゃならねぇから、何が何でも活かしておこうってするけどな、俺は魚は、釣ったその場で〆たのが美味いと思うぜ。水槽やら盥の中で、生きててもどんどん、弱っていくからな」

 喋りながら、京一はヒラアジの鱗を落とす。船頭は、目を真ん丸くして見ていた。構わず皮を剥く。剥いたあともぺかりと銀色に光っていて、それは、これが紛れもなくヒラアジである、証。

 さくどりして、背の部分は厚めの平造りに、脂の強い腹身は薄く、刺身に引いて。

 背はわさび醤油、腹身はしょうがで、食べさせる。

 渡された割り箸を手に、何の気なく口に入れた涼介は。

「……」

 船頭と同じくらい、目を丸くした。

 その反応に京一が微笑む。

「うまい」

「シマアジだからな」

「うまいぞ、京一」

「当たり前だ」

 京一も箸を伸ばす。遅れて船頭も。

 コリコリッとした歯ごたえの良さは独特で、滋味に富む適度の脂ッ気が頬の内側に広がり、つるりと喉を滑る。しっとりと落ち着いた甘味があとからついてくる。天然モノだけが持つ透明度の高い、絶妙な脂の乗り具合。

 ばくばく食べる涼介を置いて、京一は落としたカマを塩焼きにした。焼きすぎず、眼肉が白濁したあたりで火を止める。ヘタに檸檬を絞ったりすると甘味が台無しになるので、なんにもかけずにそのまま皿に載せ、差し出す。更に、中骨を鍋に入れて味噌汁を作ろうとしたとき。

 竿先の鈴が鳴った。

 入れっぱなしにしていた、大鯛の竿だった。

 船頭が箸を置いて慌てて立ち上がる、時には京一は、既に竿を立てて海中の大物と格闘に入っていた。鯛は向こう合わせというくらい、がっちり食いつくから合わせの技術は必要なく緊張していなくてもいいが、代わりに三段引きという独特の走りを見せる。さらに、糸のフケを巻き取るのをもたつくと、頭を振って針を外してしまう。

「……若旦那ッ」

 返事も出来ないくらい、京一は力をこめていた。背中がぐっと盛り上がり、額に汗が滲む。緊張感の高まる甲板で。

「貰うぞ」

 カマの塩焼きに箸を伸ばす、涼介だけが落ち着きははらっていた。

「後にして、ちったぇ手伝えッ」

 引きの狭間で、ようやく口を開けた京一が、怒鳴る。

「魚に負けて海におちたら、浮き輪くらいは投げてやるさ」

「バカ言ってんなっ」

 本気で怒鳴る京一に、涼介はくすくす笑いながら、近づいた。

 そうして彼の、斜め前に立つ。竿を、肩に担ぐように、して。

 美しい、長い指を竿に絡める。

 けれどどんなにキレイでも、これは観賞用ではない。おっそろしく切れ味のいい牙を備えた、強い雄。

 証拠に。

 活き〆も、知らなかったくせに。

 絶妙の位置で姿勢で、竿を立てるのを手伝う。のされそうになれば支え、引き戻すときにはタイミングを合わせて。やがて海中で魚は弱ってゆき、

「もう、いいぜ」

 竿を横に引けるようになって、京一はリールを巻いて行く。グラスファイバー製の竿がしなり、ぽっかりと、水面に顔を出したのは。

「……凄い」

 船頭が、息を飲む。

 大きなタモをさし伸ばして、引き上げる。口の中にギャフを打ち込み支えなければ持ち上がらなかった。それほどの、大物。

「九十、いや百は近い。凄い大鯛だ」

 さっそく無線で、報告。

「……、あぁ、……、から三キロほどの、そう、瀬だまりだ。……、あぁ。……、いや、釣ったのは須藤の若旦那だよ。あぁ、今年、あそこに泊まった客は運がいい」

 聞きながら京一は、疲れたが満足した顔で煙草に火を点けて。

 涼介はカマを食べ終え、刺身もひとかけらも残らず食べて、満幅したらしくこてんと、横になる。

風は冷たいが天気はいい。

「トモダチは、運のいい人だね」

 船頭の言葉に、口の端を引き上げた笑いで答える。

「ホントにトモダチかい?」

 意味深な、問に返事はしなかった。

「若旦那が自分の竿に、触らせたのは初めて見たよ。折れても逃がしてもいいから手伝うなって言ってるくせに」

 京一は答えない。

「ヒラアジを、ネェさんに持って帰らないで。……ネェさんより、大事なヒトなのかい?」

 空を、カモメが舞っていた。

 

 本当は、123キロもある大鯛は、味は落ちる。

 けれど正月には、目出度い縁起物として悦ばれる。

 そっちは客用にとっておいて、美味い3キロ前後の、鯛や平目、そしてマダラを、下処理して氷を詰めて、京一は涼介に持たせた。高崎の実家に帰るという彼に。今夜の高橋家の食卓は、豪華絢爛なチリ鍋になるだろう。

「……初詣、ドコに行く?」

 FCに乗り込んだ涼介に、京一は尋ねる。

「そこらへん」

「じゃ、終わったら連絡しな」

 迎えに行く。そして、会って、ヤルことは一つ。

「元旦にヒメハジメかよ。辛抱きかない奴だな」

「〆は早めに入れんのが好きでな」

「京一」

「おぅ」

「コロッケ、美味かった」

「……そうか」

「妬いたんだ」

「……コゲてたか?」

「鯛や平目を、釣ると姉貴が喜ぶってお前、すごく嬉しそうに言ったから」

 姉上に、嫉妬した。

 だから今日、仕事を無理算段してやって来た。

「俺を余計に、好きなら許してやるよ」

 うっすら微笑み、目を閉じる。

 意図を誤らず、京一はその唇に、重ねた。

 長く重ねて、探り合い絡めあい、離れたとき。

「……こっちで泊まってかねぇか」

「それは、気が早すぎるぜ」

 元旦の約束を、そんな言葉で承知する。