普陀落渡海。

 そんな行為が、流行した時代があった。

 西方浄土に存在するという楽土。そこへ行き着くことを求めて、海へ漕ぎ出す。

 粗末な船で、たいした水も食料も持たず。

 あてどないその旅立ちは、浄土希求の衣を纏った集団自殺であった。

 多くの船が沈み、多くの命が波間に沈み、鱶の餌となる。

 そんな結末を望むほど、生きていく事が辛い時代であったのだ。

 

 銀の月がうつくしく波を照らした、その夜。

 前領主の、四十九日の、夜だった。

 砂浜に、粗末な船が一艘。難破船を応急処置しただけの、いまにも沈みそうなぼろ船。しかしそこには、不相応な人物が乗っていた。月光を弾き返しそうに冴え冴えと、白い美貌の、死んだ前領主の、継子。

 いや、本当は実子かもしれない。

 前領主が拾った流れ巫女。その巫女が産んだのは、領主にとっては初めての男児だった。しかし、懐妊の時期が微妙で、領主の種でない公算もあったが、種かもしれなかった。我が子と明確に認知はせず、しかし追い出すこともせず曖昧に放置された翌年、領主は都から高貴な姫を娶った。その正妻が男児をあげて、とうぜん、家督はその男児が、継いだ。

 巫女とはいえ、実質は売春婦であった女と、その息子は別宅を与えられそこで過ごした。そして今夜、息子は父親の菩提を弔うために、普陀落渡海を行おうとしている。共に旅立つことを求めた三十人ほどの、老若男女らとともに。

「実のお子であったかも知れぬな、父上の菩提のために、このような有難いことをなさるのじゃから」

「いやいや、家督相続の混乱を恐れた新領主に、無理にやられるとも聞いたぞ」

「あの覚悟の決まった顔は、無理強いされたとは思えぬが……」

「あのお若さで、しかもあの美貌で、勿体無いような気もするが、の」

 見送りの者たちが見守る中で、船は海に浮いた。おさらばと、声は出さずに船板の上から若君は頭を下げ、下げたまま、ゆっくりと、銀の光に紛れていく。

 

 海は、静かだった。

 銀色の月を眺めながら、心静かに、若者はくつろいでいた。死の待つ旅路にあってようやく、彼は心から安らぐことが出来た。突然やってきた父親の死、そしてその法要の席で顔をあわせる義弟。既に海賊討伐に多くの手柄をたて都の覚えもめでたく、なんの破綻もなく家督を継ぐだろう弟の目が、怖かった。

 ……とても。とても。

 四十九日が終わったら別宅ではなく本屋敷に移れと、遣わされた使者。

 その意味がわからないほど、鈍感な涼介ではなく、謹厳な時代でもなかった。そして弟は、兄かもしれない彼に向ける欲望をもう、隠してはいなかった。

 でも、これで、ようやく逃れられる。

 父親の菩提のため。その大義名分の前には、次期領主の権限も口出しを、することが出来なくて。

 邪魔されることなく漕ぎ出せた、外海。これでもう、安心。あいつの手は届かない。

 うっとり、といっていいほどの充足感に身体を浸していた彼の耳に、

「なにをするぅー」

 穏やかな浄土への旅には不似合いな声が聞こえる。何事か、と顔を上げると、そこでは。

 西方浄土に旅立つために、死出の旅とは知りつつも、それぞれが着こんできた一張羅を剥ぎ取っている、男。何処に隠していたのか刀をふりかざし。

「死んでいく奴に錦は必要なかろう」

 嘲笑し、掴みかかろうとする老人を海に蹴落とす。悲鳴と共に老人は海におち、そのまま波に呑まれた。

「ヤメロッ」

 一同の主宰者として彼は叫び、乱暴を止めようとした。途端、別の男が彼に踊りかかる。三人がかりで、甲板に押さえ込まれ。

「大人しくしてな。若様は、つれて帰って可愛がってやるさ」

刀をふりかざした男の仲間らしい男が、彼にそう囁く合間にも、衣装を剥がれ親や連れ愛の形見の櫛や錦、そんなものを奪われた渡海者たちは次々と、海に落とされる。

「おい、その女もだ、殺すなよ。男も働けるのは都に熟れるからな」

「わかってるって。へへ、スゲェ実入りだぜ。領主の若様の渡海のお供の連中は、ぼろばっかりの爺婆とは違うなぁ」

「……海賊か」

 彼はそう、低くうめいた。そうだと男は、軽々と答える。渡海者に紛れては船を乗っ取り、点在する島々にある本拠地にたどり着く。渡海者を奴隷として売り、懐を肥やしている。

「あんたが渡海するって聞いて、仲間全員、楽しみにしていたんだぜ。有名だからな、あんたとあんたの母親は」

 透ける白い肌、潤んだように美しい目元。逼塞した生活をする母子は滅多に人目につく場所には出てこないが、正月やその他の祝いの席に時折、ほんの時たま、姿を見せる。その噂は国中に広がっている。こんな海賊たちにまで。

「ここで味見、って訳にゃいかねぇのが残念だぜ」

 言いながら、男の手が襟の合わせに忍び込む。怖ましさに彼が身体を竦める、間もなかった。

 唐突に、あがる悲鳴。

 押さえつけられていた手が緩み、自由になったことさえ、咄嗟には分からなかった。

「ぎゃあ、腕が、腕がァ」

 のたうちまわる男が振り回す傷口から、血が飛び散って彼の頬を汚す。べたべたと、悪い冗談のように、溢れる黒い液体の生臭さ。肘から斬りおとされた腕が、転がって彼の手に触れた。

「……勝手に触るなよ」

 静かに。恐ろしいほど、静かに。

 聞こえてきた……、のは。

「俺だってまだ、指一本、触れてねぇのに」

 ……どうやって紛れ込んだ?

 袈裟を被った僧侶が何人かいたから、その一人として?

 月光を弾いて輝く、銀色の太刀。海賊たちが持っている刀とは冴えも光も、切れ味も各段に違う。違うのは太刀だけではない。それを中段、斜めに構える技量も。

「てめ……、何者だッ」

「そのツラ、真野の跡取りかッ」

 海賊たちの間に動揺が走る。このあたりでは知られた海戦と戦闘の名手。

「もぅ跡取りじゃねぇよ。俺が領主だ」

 ふてぶてしく笑う男に海賊たちはぎらぎら光る敵意を向けたが、誰一人、打ちかかろうとはしない。間合いに入れば一刀両断されることは、試すまでもなく分かりきっている。そうするうちに近づく、赤い光。海面に映える松明の炎。足の速い戦闘船がぐんぐんと、今にも沈みそうなこの船向けて近づいてくる。

「畜生め、最初ッから、罠かよ」

「覚えやがれっ」

 口々に悪罵を放ち海賊どもは刀を口にくわえ海に飛び込む。しかしその姿は月に映されて、追っ手の何艘かが進路を変えた。じきに追いつき、海賊たちは捕らえられるだろう。

「囮、ご苦労様、アニキ」

 刀を鞘にぱちんと収めながら、男は笑う。……怖い声だった。

「……行こうか」

 伸ばされる手を拒んで、彼は海上に身を躍らせようとした。寸前、その身体は強靭な腕に囚われ、引き据えられる。海賊たちの手よりも何倍も強く荒々しく、怒りが篭っていた。

「イ……、ヤだ……」

 怖くて。とても怖くて、ろくに言葉も、つむげない。

「イヤダ……、ハナシ……、ヤ……」

「そんな、脅えさすような真似、したっけ……?」

 いっそ傷ついた、ようにさえ聞こえる弟の問いかけ。

「これからする、けどさ」

 残酷な宣言。そして。

「ヒ……ッ」

 荷物のように軽々と、肩に担がれて。

「若、あ、いえ、ご領主」

「上首尾でございましたな。これで海賊の本拠地も知れましょう」

「普陀落渡海などという、馬鹿な真似をする領民も、減りましょう」

口々に祝福し、近づく快速船。その一艘から板が渡され揺れるそれを危なげなく踏んで、担いだ兄ごと新領主は船に乗る。

「お、お連れ下され、ご領主」

「お助けくだされ、ご領主」

海賊たちの手から逃れた渡海者たちが口々に、懇願する。部下は黙って新領主の判断を待った。新領主が普陀落渡海を企てる者らをキライなことは、知れ渡っていた。

「だってさ、どうする?」

 快速船の狭い板間に兄の身体を下ろし間近で問い掛ける。意地悪なその目に脅えながら、それでも兄は口を開いた。

「……助けて、やって、くれ」

「いいの。一緒に渡海、すんだろ?」

「俺の……、渡海だ、もともと。……俺だけ、戻し、て……」

「帰るぞ

 部下に、きつく、新領主は言った。

「一回、行くって自分で決めた連中を、俺が助ける義理はねぇ」

「承知」

「了解」

 その語調を恐れながら、それでも兄は、同行者だった者たちのために哀願を、繰り返そうとしたけれど。

「……ッ」

 出来なかった。他人を救うために、何かをできる状態では、なくなった。

 無造作に、乱暴に、服を剥がれる。

 部下たちが操船のために行き交う、船板の上で。

 嫌とか、やめろとか、告げる間もなかった。

「ヒー……っ、うぅっ」

 引き裂かれる。何の馴らしも、経験もない身体を。

 悲痛な悲鳴が、海上に響いた。

「……イタイ?」

 がくがくと、前をくつろげただけの弟の、直垂に縋りながら頷く。

「可哀想に。でも、あんたに、死ぬほど嫌がられて

「ひぅ、ヒッ、……、ヒーッ」

「俺は、もっと、痛かった……」

 腕に、脚に、抱きこまれて、楔に犯されて身動きもできない。

 助けを求めて伸ばされた手指が虚しく、銀の月を掴む。

 

 西方浄土は、遥かな果てにあり。

 憂き世で、彼は、涙を流し続けた。