普陀落渡海・十
春長けて、だんだん夜明けが早くなる。
優しい日差しの春の夜明けを、俺は一人で、無為に迎えている。抱き締めてくれるはずの腕は花嫁に奪われて、甘く仕えるための唇は主人を失って久しい。
冬の間は夜明けが辛かった。暖かな優しさが引き剥がされてしまうから。今はぼんやりした絶望を感じながら目覚める。今日も、なにもない一日を過ごさなければならない。
主人は俺を、撫でてくれには来ない。祝言をあげたばかりでそばを離れられないのだ。分かっていたことだけど寂しい。寂しくて、なんにもすることがないからぼんやり、座敷や縁に座っていることしかできない。
陽だまりに丸まって眠っていても、不意に影がさして撫でてくれることはない。
食事と入浴、それを繰り返すうちに一日が終わる。餌を食べても、ナンになるんだろう。喉を鳴らして懐いていくこともできない、させてもらえない俺になんで、餌をくれるの?
撫で回してくれる人も居ない毛並みを整えて、どうなる?
時々、主人からだと言ってモノが届けられる。錦の袋を開いてみたら綿にくるまれた黒真珠の大粒が入っていて、老女は目を見張ったが俺にはナンとも思えない。こんなのどう……、しろって、いうのさ。
猫に、黄金や珠は要らないよ。
俺はただ、主人が俺にくれるのが嬉しかっただけ。キレイなモノを捜してきてくれた愛情を受け取って幸せだっただけ。だから、使者に渡された珠なんかに興味はない。錦の袋ごと、真珠を俺は座敷に放置した。何時の間にかなくなったそれがとうなったのか、興味はなかった。
代わりに手文庫の木の実を眺める。秋の名残だと、拾ってきてくれた椎の実。焼いてお食べって言ってくれたけど、そんなの、もったいなくって出来なかった。
春になったね。
花が咲いたよ。取って来てくれないの。
……ねぇ。
暖かな縁で庭を眺めながらうとうとしていた、時。
座敷から物音がして飛び起きる。主人が着てくれたのかと思って。明り障子を開けた俺が見たのは、
「……、しかたないじゃないかね」
身の回りの世話をする老女が俺の、衣桁を漁っているところ。
「あんたの世話係だっていうだけで、あたしがどれだけ母屋の上臈衆から苛められているか。あんたの着物や宝物を貢いで、ようやく賄いもマトモにしてもらえるんだよ」
そんなのはどうでもいい。いいから手文庫は、離して。
それは俺のだ。あいつが俺にくれた。
「あんた、勾玉は何処にやったんだい」
強張ったままの俺を尻目に老女は無造作に、俺の手分を引っ掻き回す。俺は既に、主筋として見られていない。早晩、棄てられる妾として、軽んじられて、いる。
「まさか無くしたんじゃなかろうね。ありゃ相当の値打ち物なんだよ」
これだからバカは困るよ。そう言って老女は衣装の数枚を持って出て行く。残された部屋で一人になるなり、俺はぺたんと、畳に座り込む。
……なくしてしまったよ。
あの日、連れ去られそうになった日。抱き上げた男の頑丈そうな顎の下、太い血管の場所を狙って噛み付いた。狙った場所はさけられたけど、喉近くの肉を噛み千切って逃れる事が出来た、あの日。
逃れる俺に、伸ばされた男の手に袖をつかまれて。必死で振りほどいたけど、そのひょうしに勾玉はとんでしまった。男の肩に当たって転がったのを取り戻したかったけど、そうしていたら、捕らえられたから。
逃げた。何よりも、ここから何処にも、行きたくなかったから。
引き離されたく、なかった。
乱雑に引っ掻き回された衣装箱から、男ものの直垂が除いている。ここに住んでるようなものだった主人の持ち物。冬物と一緒に樟脳を挟んでなおされてる。これを来年、主人がここで着てくれることはあるんだろうか。
掴んで、引き寄せる。抱き締める。キツイ樟脳の匂いに消されて主人の気配はしなかったけれど、頬に当たる感触には覚えがある。
……ねぇ。
春になった。花が咲いたよ。とってきて。
とって、きて……。
泣きながら眠った。
最近、よく眠れなくって、疲れ果てていた。
だから物音で、目覚めたときも意識はぼんやりしてた。
「文句があるんなら、すぐに出て行け。女中に不自由するほど落ちぶれちゃいねぇぞッ」
鋭い声で主人が叱責してる。俺のことか、と思って跳ね起きる。ごめん、なさい。
文句なんか無い。ないから、ここから、追い出さないで……ッ。
いきなり俺が起きたから驚いた主人に必死に、しがみつく。ごめんなさい。不平顔をしません。ごめんなさい。文句なんか、ありません。ごめんなさい。笑うから、許して。
「……震えんなよ。ん?……大声出して、悪かったよ」
よしよしと、抱き締めて慰めてくれる主人の手が優しい。やさしくって、涙が出そうになる。唇を噛み締めて我慢した。顔を上げて、笑おうとする。引きつったその俺の、顔がどんな風に見えたかは分からない。
「もう、いいから行け。二度とこんな真似したら即座に、たたき出す」
びくっと俺の身体を竦めた。俺に言われたんじゃないのは分かっていたけれど。部屋の隅では老女が震えていた。主人の手には老女が俺から奪った衣装が握られている。小袖だったのを打ち掛けに仕立て直してある。そんな程度じゃ、この目ざとい男から隠すことは出来やしないのに。
「随分来れなくって、悪かったな」
優しく囁かれ唇を重ねられる。それだけで俺の心の滓は溶けた。いいよ、分かってる。お前も大変だってことは、俺ちゃんと分かってるから。
ききわけよく、している、から。
「元気……、だった感じじゃねぇな。痩せちまってさ」
ごめんなさい。
お前が居てくれないと、なんか何もかも、つまらなくって、面倒で。
食事することさえ。
ごめんなさい。ちゃんと食べます。肉付きよく、抱きごこち良くしておきます。だからお願い……、棄てないで。俺を、屋敷の壁の外に放り出さないで。
お願い……ッ。
「抱っこして、いい?」
うん。……勿論。
いっぱいして。沢山、して。されたいから。
お前のそばに、居たいから。
自分で衣装の紐を解いた。脚を拓いた。唇に耳たぶをやわらかく、噛まれるだけで正直な身体が震えた。
「飢えてんね」
だって……、お前が来てくれないから。
俺は、お前じゃなきゃもう、ダメなのに。
優しい舌が耳元から首筋、胸を辿って狭間に落ちる頃にはもう、俺はのたうち回っていた。ねぇ、いいから早くして。早くお前が欲しい。ナカに来て、奥……ッ。
「……、ぁー、キモチイー」
「はふぅ、……っく、んーッ」
「俺やっぱ、あんたじゃないと、ダメだわ」
……そ、う?なら……、もっと。
「っ、バカ、イッちまう、だろ……」
全身の力で身体を内側に向けて絞ると、主人はそういって俺のに指を絡めた。きゅっと握りこまれ指先でくびれと割れ目を嬲られて眩暈がする。びくんと、乗ってる主人を振り落としそうなほど腰を、跳ねさせる。
「……ジャジャウマ」
嬉しそうに主人は、俺の耳元に囁く。
「でもさ、知ってる……?荒駒のりこなすの、俺、すっげー得意、なんだぜ?」
知ってる。知ってるから、……早く。
もっと……、してくれ。ひどく。俺を乗りこなして。お前の鞭で、息も出来ないくらい。
俺を……、お前だけで、ミタシテ……。
抱き尽くされて、身動きも出来なくて。
主人も同様に疲れ果て、それでもやさしく、俺の髪を撫でてくれて。
嬉しい。硬くて強い、指の感触が。
この指が毎夜、都の姫の麗しい黒髪をまきとっていとおしんでるだろうことは……、今は、考えない。
幸福な時間を味わって居たいけど、精も根も尽き果てた身体は
「……あのさ……」
呼びかけられた。嫌な予感が、した。
「あんた暫く、史浩んとこ、行かねぇ?」
……イヤ。
とっさにふるふる、かぶりをふる。
スヤ。ここから出て行くのは、厭。
「危ねーんだ。正直言って。俺は主だけど、昼間は留守にする。屋敷ん中の細かいことには、どーしたって目が届かない」
たまたま侍女の打ち掛けが俺から奪われたものだと気づいて怒りに任せて今日は来れたけど、ここは一目が多すぎる。女の視線が何をしていても絡みつく。
「だから……、外に置いといた方が、かえって通えるし。あんたも安全だし」
……嘘つき。
そんな嘘には、俺はだまされないよ。……だって。
俺は母の一生を見てきた。
男はいつも同じコトを言う。その方がかえって仲良くできるからって騙して遠ざけて、遠ざけた後は知らんふり。連絡をとる手段さえ与えられない女は泣くしかない。
俺は……、イヤだ、そんなのは。
あの母みたい、なのは嫌。
「聞き分けてくれよ、頼む。史浩の屋敷いま、増築させてっから。住み心地のいい離れ、作ってやるからさ」
……うそ。
もう、そんなところまで話しは進んでるの?
俺が知らないうちに、俺を放り出す計画……。
お前が……、俺に……、そんな真似、する、なん、て……。
「海に出る途中とかよれる。前みたいに、毎日、顔、見れる」
そっちがいいとあんたも思うだろう、と。
問い掛けられて俯く。……思えない。
きっと最初は、熱心に通ってくれるだろうよ、きっと。
でもいつか、面倒くさくなるか喧嘩をするかして、足が遠ざかっていつしか、それっきり。
お前の父親がそうだったように。
きっと、お前は、俺を……、棄てる。
「あそこさ、桃林があるんだぜ。花きれいだし、桃喰い放題。ガキん頃から遊びにいってるから、どの木が美味いか俺、詳しいよ。なったらあんたに一番甘いの、とってやるから」
ありがとう。
食べてみたかったな、それ。……でも。
それまでもつとは、限らない、から……。
「……行きたくない」
「え?」
「棄てるなら、海にして」
「……あんた、コトバ……」
「お前、海で俺を、拾ったんだから」
「ちょ……、待てって」
「海に、戻してくれ」