普陀落渡海・11

 

 高台にある史浩の屋敷の、日当たりのいい座敷からは桃畑が見渡せる。

 文字通り桃色の花が霞のように覆い尽くす季節を経て、じきにその花は実を結ぶ。桃だけではない。春たけて夏の到来を前に、世界はときめき明るく柔らかくほどけている。……なのに。

 ここに居る、人は静かに、冷たい場所に向かおうとしている。

「……もう」

 医師として懸命に努力してくれた史浩が、辛そうに言った。

「本人の、望むとおりにしてやった方がいいと、思う」

 多分その判断は正しい。ここに移した当座はそれでも、一緒に花を眺めることも出来たけど、もうろくに歩けもしなくなった。

 座敷の庭から、縁へ上がって障子を開けると、

「……来たのか」

 うとうとしていたらしい彼は目覚めて、ゆっくり笑ってくれる。モノを喰えなくなって終末へ自分から、向かってるのは前と同じだけど俺に対する態度はずいぶん違う。俺を拒もうとは、してない。訪れれば微笑む、そして。

「よかった」

 褥から引き起こして痩せた体を抱き寄せると、静かだけど甘い声で、呟く。

「もう……、会えないと思った」

 ごめん。

 前に来てから十日近い日がたっていた。本当は毎日だって来たい。来たいけど、これない。権勢家から妻を娶れば情事がある程度、不自由になるのは覚悟してたけど、こんなのは考えもしなかった。俺には俺の時間がない。愛して、ずっとそばに居たい人がそばに居てくれと、言ってくれんのにその希望をかなえてやれない口惜しさ。

 ぎゅうっと抱き締める俺に彼が目を閉じる。シアワセそうに、力のぬけた腕を持ち上げて抱き返してくれる。飼い猫でなくなってからも彼は俺に優しかった。ただ俺と、生きてくれようとはしなかった。

「あえて嬉しい、啓介」

 そんなこと、言ってくれる愛情があるなら、なんで。

 なんでこんな風に、俺を嘆かせんの。

 なんで、俺の前から、居なくなろうと、するの。

「……お前のこと、憎みたくないから」

 だから海に戻してくれと、それは言葉を取り戻した時から繰り返されている望み。以前と違うのは俺が激しくかぶりを振ると言葉をとぎらせること。まるでそう、俺を嘆かせるまいとする、みたいに。

 黙った彼の、腕が伸びてきて。

 俺を抱き締める。慰めるように、優しく背中を撫でて、くれる。

 ……ねぇ、なんで。

 こんな風にしてくれるぐらいなら、どうして。

 憎んでいいから、そばに、居てよ。……生きて。

「苦しい、んだ」

 ぽつりと、耳元に零れる彼の言葉。あんなに切望した筈のそれが、苦い。

「お前のこと憎むの、すごく苦しいんだよ。……だって」

 愛しているから、と。

 消えそうに細い声。

「んなわけ、ねーじゃん」

 涙声になりそうなのを、奥歯を噛み締めて耐える。語尾の震えは止めようがなかった。

「俺、ひでぇコトばっかしたのに、あんたが俺んことスキな筈、なんか、ねぇよ」

「そう……、かな」

「そーだよッ」

 決め付ける俺の口調の激しさに彼は口をつぐみ、暫く考えていたけれど。

「だったらきっと、前から」

 お前のこと好きだったんだよと、俺の肩に頬を押し当てながら囁く。

「だからきっと、あんなに辛くて哀しかったんだ。お前に……、売女みたいに、思われて」

 使者一つ、書簡一枚で脚をひらきに来いと告げられて、もぅ、生きてるのさえ嫌になった。

「……、ごめッ」

 崩れる俺を、

「いいよ」

 彼が掬い上げて、くれる。

「俺が素直じゃなかった。お前のこと、なんかよく、分からなくって、ゴメン」

 お前、本当はこんなに優しいのにな、なんて。

 言わないでくれ。笑わないで。食い破りたくなるから、喉を。

 あんたのじゃないよ、俺を。

 あんたを、不幸にしか出来なかった自分を。

「そんなことは、ないよ。……お前と愛し合えて、シアワセ、だった」

 とても、とっても。だから。

「笑って死ねるよ。今度はきっと。お前のこと、今なら愛しながら」

 形のいい唇が、優しい声で苦い、恐ろしい言葉を、呟く。

 

『海に、棄ててくれ』

 言葉を取り戻した最初から、

『お前はそこで、俺を拾ったんだから』

 彼は俺に優しかった。俺の暴虐を責めもなじりもしなかった。猫だった頃と同じように。

あんまりあっさり言葉を取り戻したから、猫だったのは演技かと問い詰めたら、

『分からない』

 ずるい答えだった。でも多分、本当にそうなんだと思う。猫だった方が彼はシアワセだった。

 愛しているんだと。必ず会いに行くと。ガキが出来でもして落ち着いたら必ず迎えに行くと。

 何度も誓った。脚にくちづけながら、そばに居てくれと哀願した。彼は俺に優しかった。とても優しかったけれど、でも。

『出来ないよ、そんなこと、お前は』

 俺の、ことを、少しも。

『猫さえ、飼いきれなくって、放り出したじゃないか』

 ほんの欠片も、信じてはくれなかった。

 力ずくで口を開けさせて、食い物を押し込みもしたけれど。

『ヤメテくれ……、やめ……。クルシイ』

 受け入れきれない心と体は拒んで、背中を波打たせて吐いた。吐かせるまいと口を押さえると息が吸えなくなって恐慌を起こしてのたうつ。無呼吸の限界に苦しみ、ホントに死ぬんじゃないかって俺が思わず手を離すと、

『ヒュ……ッ』

 笛が鳴るような声を上げて、ようやく息を吸った。勿論、食わせたものを吐き棄てた後で。

 夜事にそんな騒ぎを何度、繰り返しただろう。

 どうしても不安で心配で、俺が持ち出した細帯を見るなり、彼は。

『また、縛るのか……?』

 哀しそうに言って俯いた。今にも泣きそうな顔をしてた。

 そうして俺はようやく気づく。このままじゃ繰り返すだけだと。

『逃げない?』

 彼を壊してしまった、過去を。

『俺が居ないうちにあんた、いなくなったり、しない?』

 しないなら縛らないと言うと、彼は頷き、俺は信じて帯を手放す。彼の哀しみを俺は信じたのだ。

 次に、彼の居る離れに行った時。彼はソコに居た。俺がほっとして、安心したら喉が渇いて水差しの水を飲もうとしたら、

『ダメだ』

 さっと伸びた手が水を零す。みるみる畳に、染みていく。

『砒素が入ってる。飲んだら、ダメだよ』

 言われて俺は真っ青になった。正妻とその侍女たちの思惑を気にするゆとりも無いまま、俺は彼の居る離れに入り浸っていた。女たちの攻撃は真っ直ぐ、彼に向いていた。

『楽に、なれるかなって、ちょっと思ったけど』

 白く濁った液体を見下ろしながら、彼は静かに、俺に告げた。

『約束したから、お前と』

 居なくならないと、確かに。

 

 手放すしか、なかった。

 本邸の離れから出されることを彼が、『棄てられる』ことと思っているのは分かっていたけれど。

 他にてだてがなかった。一日でも、一秒でも長く生きて欲しかったから。

 史浩の屋敷の、日当たりのいい座敷に彼を移す。彼はさからわなかったけれども哀しそうで。

『……抱いて、くれ』

 モノを喰えなくなって以来、カラダに負担がかかるから、してなかったことを強請られる。

『最後に抱いて。一回だけ』

 必死に縋り付いて、願うヒトの望みをかなえてやりたかったけど。

 俺はそれどころじゃなかった。

 涙ばかりが、溢れて。

 彼は俺を責めなかった。抱き締める俺の腕の中でうっとり目を閉じて、

『恨んで、ないよ』

 ごめんと繰り返すことしか出来ない俺にそう、告げる。

『お前のこと少しも恨んでない。ほんの少しも、悪く思ってない。……今は』

 そう、今はただ哀しいだけ。この哀しさが時を経て、憎悪になる前に死なせて。

 そんな風に言うヒトの、気持ちを帰られる言葉を、捜して、捜して、探したけど。

 魔法の呪文は、何処にも落ちて、いなかった。

 

「泊まれるのか……?」

 抱き合いながら、彼が尋ねる。そっと、勇気を振り絞った、ってカンジで。

 帰らなきゃいけない、とは言えなかった。

「あんたが眠るまでこうしてるよ」

「朝まで根ないかもしれないぜ?」

「いいよ。朝まで抱いていられる」

「……嘘だ。ごめん」

 そんな我儘は言わないと、彼が目を閉じる。

「俺は……、強欲だな」

 そんなこと、ない。少しも。

「お前を全部、欲しいんだ。……ダメなら、もう……」

 生きていたくもないのだと、言葉ではなく、骨が当たる背中が告げる。

「悲しませて、ごめんな」

 謝るな。あんたが、俺には。

 

 結局、朝まで抱いていた。

 朝日がうっすら、差し込む座敷の中で。

「……海に、還りたい?」

 怖いことを、尋ねる。

 怖かったけど尋ねる。俺は結局、彼の望みを何一つ、かなえてやれなかったから。

「お前が嫌なら、もう、いい」

「還してやるよ。あんたが、もーちょっと生きててくれたら」

 そう、せめて。

「桃が熟れたら、一番甘いの、とってきてやるから」

 それを、食べてくれたら。

「放して……、やるよ……」

 絶望とともに告げる、言葉。

結局俺は、本当に、彼を不幸にしただけで終わるのだ。

 こんなに愛しいヒトを、なくすのだ。

 考えるだけで哀しい。けどそれは、やがて訪れる未来。

 俺の、せいで。

 彼を……、壊すのだ。

 二度とこの手に戻らないほどに。