普陀落渡海・12  

 

 死にたいと、さほど一途に思い込んでいるわけではなかった。前と違って、今回は。

 ただ、生に絶望して消えてなくなりたがる体の欲求を止めようとは思わなかった。俺としては、海に沈みたかったけれど。屍を晒すこともなく、深い海底で、覚えた愛情を抱いて居たかったけど。

 嫌だと、泣くから、諦めた。

 泣かせてまで押し通すほどの意地は無かった。

 俺の恐怖はただ一つ。母親みたいな、終わり方が嫌なだけ。若い頃に愛された記憶だけに縋って、生きていくのが嫌なだけ。

 だから、居なくなることが出来れば、それでいい。

 あいつの前から、消える事が、出来れば。

 

『死なないでくれよ。そばに、居て』

 うん。俺も、居たかったよ。

 お前が愛してくれさえすればずっと、飼い猫でいいからあそこに居たかった。

 愉しかったな、あそこに居るの。最初はちょっと、イロイロあったけど、その後はお前も優しかったし。

 とても……、シアワセ、だった。

『好きなんだよ。……あんたのこと、愛して……』

 それは、俺の、台詞。

 お前を愛しているよ、とても。

『一緒に、居て……』

 あぁ、でも、ごめん。

 お前を信じる、ことは出来ないよ。

 だって、お前は、俺を……。

犯して、遊んで、弄って、棄てる。

身分の高い男の言葉は、信じられない。

『愛して、いるんだ、よぉ』

 そうだな、……今は。

 今だけは、な……。

 

 それでも、俺に桃を食べさせたいって、泣くから。

 与えられる蜜をすすって、それまで生きとく努力は、してみた。

 最後だから。お前のために、できる最後のことだから。

 それほど待つ必要もなく、熟れた果実が差し出される。

 甘い果実にそっと唇を寄せて、ちゅっ、と齧る俺を、男は泣きそうな目で見ていた。

 甘い果実は、罪の匂いがした。泣き出しそうなオトコの嘆きをうっすら、悦ぶ自分を、自覚した。

 俺に死なれて哀しいか?……啓介。

 俺も凄く、とても悲しかったよ。お前にムリに体をたわめられて。身体だけ、ゆがめられて。

 愛してるけど信じてはいない。そうしてこれは、復讐。

 さよなら。誰より愛しくて、残酷で憎いオトコだった、お前……。

 

 竹篭に、竹の皮を敷いて、桃が詰められていた。

 人間一人、横たわれば隙間もないような刳船の船尾にくくりつけられた籠に微笑む。あっちに着けたら、種を埋めよう。実がみのったら思い出せるだろう。信じてないけど、少し憎んでるけど、やっぱりダイスキなオトコのことを。

 長く、世話になった医師に会釈して、船に乗り込む。最初と違って一人だけで、真夜中の、静かな船出。浜から潮の流れる場所まで押し出してくれる人数の中にオトコは居なかった。あいつの手で送り出して欲しいなんて、ムリって分かっていたから、期待はしてなかったけど。

 最後に顔は、見たかったかも。

 そんなことを考えながら目を閉じる。船がゆったり、外海に流れていくのを感じながら。月の光がまぶたの裏にも射して静かに明るかった。月の光は、オトコの俤を照らしていた。

 ……さようなら。

 心の中で繰り返すうちに、不純な気持ちが溶けていく。憎しみ、恨み、そういった粒がゆっくりと消えて、残るのはやっぱり、いとおしさだった。

 怖い、強い、痛いオトコだったけど、一途で可愛いところもあった。可愛がって、くれたことも。

 前の渡海から、半年。

 何も知らないままで沈む予定だった海に、今はあのオトコの俤とともに沈む。

 半年前より、シアワセな気がした。

 

 ゆったりと、安らかに眠って。

 夜明けとともに、目覚める。

 身体を起こして髪をかき上げながら周囲を見回してみた。陸は見えない。周囲は海原、ぐるりと海ばかり。それが、凄く、幸福なことに思えた。

 明けていく空と海がとても、きれいで。

 うっとり、無意識に微笑んでいたとき。

「……おはよう」

 思い掛けない近さから声を掛けられる。

「ッ……ッ」

 独りきりに安心しきっていた、貝が殻から抜け出して佇んでいたような時に声を、掛けられて。

 恐怖に俺は狭い船の、それでも声とは反対側へ張り付くように、逃れる。

 均衡を失って揺れる船の。

 船縁に手をかけて、揺れをおさめてくれたのは。

「ナンにも、しねぇよ」

 露骨に怖がる俺に傷ついた表情で。

「あんたに無理強いは、もぅ、しねぇ」

 半年前には、力ずくで、押さえつけて犯された。

 今は……、海から、静かに見上げている。

「ど、して」

 すくみ上がった俺が問えたのは、どれだけたってからだったろう。

「さぁ、どーして、かな」

 他人事みたいにオトコは答えた毛けど、暫く考えて。

「史浩の屋敷から俺、あんたを見送ってたんだ。浜まで行ったら絶対見苦しく泣くか喚くか、あんたを行かせてやれねぇか、だから」

 だから離れて見送ろうとしたけれど。

「なんか、でも、……なんか」

 心残りで、どうしても。何かなのかは考える間もなく屋敷から駆け下りて、別の浜から海に飛び込んだ。抜き手をきって泳ぐうちに船が見えて。眠っていたようだったからそのまま、ついて泳いでいた。

「バカな、ことを……」

 声が震える。

「早く戻れ。お前なら、今ならまだ、陸に泳ぎつけるだろう?」

「どうかな、ムリかも。潮に乗ってずいぶん、遠くまで来たし」

「戻れよ、早くッ」

 癇癪を起こした女みたいに叫んでも、

「それは、嫌なんだ」

 平然と、オトコは告げた。

「どうして、……こんな、バカな……」

「俺にも、分からないけど」

 オトコは曖昧に笑うだけ。

「戻れよ、死ぬぞ」

「俺さぁ、普陀落渡海とか即身成仏とかって、自殺する奴の気が知れ無かったよ」

 今でもよく分からないけど、けれど、と。

 俺を切なくなるような深い目で見て。

「でも今、おかしいぐらいシアワセ。あんたの傍に居れて」

「帰れよ、岸に。こんなの……、違う」

 こんなつもりじゃなかった。

「お前はあっちでシアワセに、長生きするんだ。……戻ってくれ」

「あぁ、俺、いま分かった」

「ナニが……」

「あんたと話、したかったの」

 どうしてもあのまま、さよならを出来なかった訳は。

「あんたにまだ、分かってもらってねぇもん」

「ナニがッ」

「俺が、あんたを好きだって」

 どう、しよう。

 こんなつもりじゃ、なかった、のに。

「泣くなよ。干上がっちまうぜ」

 そんなの、泣かなくたって、時間の問題。最大限、生きてもあと、二三日。

「分かってるけど、今、ムチャクチャ、シアワセ」

「お願い、啓介。……戻ってくれ」

 反対側にはりついていた身体を、オトコの泳ぐ側に寄せる。手を伸ばすと男は、その手をとってくれた。

「愛しているよ」

「……そう?」

「お前が愛してくれてるのも、分かったから……、戻って」

「嘘つくのヘタだね。声が震えてる」

「お願い、だから」

「ごめん」

 手を、ぎゅっとつかまれて。

「あんたのそばに、居たいんだよ」

 気が遠くなる。これは、罰か……?

 俺が素直でなかった、罰?

 

 日が昇りきり、初夏の日差しが容赦なく照りつける。

 昨夜から、眠りもせずに泳ぎっぱなして、さぞ疲れただろうにオトコは、そんな様子も見せないで、

「暑くねぇ?大丈夫?」

 俺に、そんなことを、尋ねる。

「……上がれよ」

 せめて、船に。

「疲れた、だろう?」

「大丈夫」

 一人でいっぱいの船に、二人で乗ったら沈没が早まる。そう考えているのがミエミエの、笑顔。

 どうしよう。今更の、後悔。

 こんな……、つもりじゃなかったのに。

 泣いてくれれば、それでよかったのに。

 ほんの少しだけ、嘆いて、俺への無体を後悔して、くれれば。

 俺はそれだけで、なにもかも許してやれたのに。

「お前を……、こんな、目に合わせたい……」

 訳じゃなかった、のに……ッ。

「泣くなって。なぁ。あんたのせーじゃねぇよ。俺が、あんたのそばに居たかったの」

 だから、泣かないで。

 笑って、話、してくれよ。なぁ。

 言われて俯いた顔を上げた。笑ってみる。上手に出来た、自信はなかったけど。

「……いきなり、悪かったよ」

 俺の顔を見ながら男が言う。

「ホント、悪かった。ごめんな。親父の四十九日が明けたら出仕、しろってそう、いきなりだったよな。……忌明けに招待、すりゃあ良かったよ」

 ごめんなと繰り返されてふるふる、頭を振る。

「下心、すげぇあったから、しょーがねぇけどさ……。いきなりあんたを寝間にひっぱりこんだりする気は……、ないでも、なかったかな……」

 俺はホントに、ずっとあんたを好きだったけど、あんたにとってはろくに喋ったこともない相手だったな。……ごめん。

 そんな風に謝るな。

「最初んときも、それからも、ごめんな」

 もういいから。許すって、何度も言ったじゃないか。

「嘘だよ。あんた、許してくれて、ねぇよ」

 だから一人で死のうとしてるんだろうと、真っ直ぐな目が俺の虚偽を見抜く。

 俺は何もいえないまま、舳先の竹籠に手を伸ばした。熟れた桃の皮を、震える指で剥く。

「……喉、渇いた、だろう?」

 船ばたから身を乗り出して差し出すと、柔らかな果肉にかじりついて、くれた。

「啓介」

「……ん?」

「ごめん」

 こんなつもりじゃ、なかった。

「ごめん、なさい……」

 あてつけの意図がほんの少し、俺には確かに、あったけど。

「ごめん……」

 お前を滅ぼす、つもりはなかったのに。

「愛して、るよ」

 告白が甘く耳元に響く。

「あんたをダイスキ」

 俺もだと、素直に言えば、良かった。

 そうしていたら、こんなことには……。

 

 西の空に、暗雲が湧いて。

 チッと舌打ち一つして、啓介が舳先に抱きつく。

「身体、低くしてろ。竜巻だ」

 船が揺れる。酷く、激しく。

「啓介、けーすけッ」

「船底に伏せてろッ」

「帰れよ。戻って。頼むから、陸に」

「冗談。今離したら、船沈んじまうぜ」

 波にもまれて木の葉のように舞う小船。舳先の重みでなんとか重心を保っているだけ。

「離してくれ。……沈んで、いいから」

 俺は海に沈んで、そこでお前の記憶と幸福に眠るから。

「お前、陸に、戻って」

 お願い、おねがいだから、そうして。

「あんたを、好きなんだ」

 繰り返される告白が、甘さを通り越して痛い。

「そんな、どうせ俺は、もう」

「分かってるけどさ……、でも……」

 一分でも、一秒でも。

「……生きて」

 それは、俺の、台詞。

 生きて。死なないで。隠し切れない疲れを目元に漂わせながら、それでも俺を必死に守ってくれようとしてる、お前のことを。

 生かしたい。助けて、誰か……。

 なんでもするから、誰か……ッ。

 

 生かされておきながら死を、選ぼうとした俺への。

 罰のように、海は荒れ狂った。

 意識があるのかさえ分からないのに、こわばった腕で舳先にしがみついてくれてる男の、冷たい肌に。

 せめて体温をわけたくて抱きつく。

「伏せて……、ろっ、てば……。濡れ……、ちまう」

 掠れた声が悲しい。こんな大事な相手を、嘆かせた俺への、これは、罰。

 助けて。助けて。このオトコを誰か。

 俺の愛しいオトコを、助けて。

 

 日が沈み、冷えてゆく。世界も、抱いた男の肌も。

 昨夜とはうってかわった闇夜に、かすかに見えたのは。

「……助けて、くれ」

 海面高く鎌首をもたげた、それがナンでも、良かった。

「助けてくれ。こいつを陸に戻して。……お願い」

 海竜も、竜巻も、俺は怖くは、なかった。

「これを、……助けて」

 冷えていくオトコの肌にもう一度、ぬくもりが戻るなら。

「なんでも、するから……ッ」

 

 つまらない、意地を張った。

 分かっていたのに、頑なに拒んだ。

 素直になって、いればよかった。

 お前をなくす、くらいなら。

 

 

 

 

 

                                 普陀落渡海第一部・完結

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 長らくのお付き合い、ありがとうございました。
 第二部は、新年あけましておめでとうの、元旦からのスタートの、予定は未定です。
これに呆れられず、続きもどうぞ、御付き合いくださいませ。

 作者 拝