普陀落渡海・2
泣いている。泣く声が聞こえる。
女の声だ。泣くのはいつも、女だ。
恨んでいる。恨まれるのはいつも、男。
愛していたのに。愛してくれたから愛したのに、と、女が泣く。自分を棄てた男を恨んで、男にそうさせた自分以外の女を恨んで。美しい女の貌が醜く歪んでいた。嫉妬という感情の、激しさ生臭さ、そしてやりきれなさを、俺は毎日、見続けた。
泣く女の、背中を撫でて慰める。慰めながらでも、俺はだんだん、怖くなっていく。俺の前で領主を罵る彼女は、当の本人の前ではにこやかに微笑む。淫らがましいほどの媚を見せられて、俺は俯くことしかできない。嫌な気持ちになる。その嫌さは俺の胸の、内側に長年かけて、つもり積もっていった。
……だから。
領主の息子に意味のある視線を向けられても、俺は俯くことしかできなかった。時にきつく、時には真摯で、ごく稀には哀訴の色さえ浮かぶ視線を、ことごとく避けた。失礼だと母に怒られるほど。
「出家、したいんです」
母親に言うと驚かれた。それはもう、天地がひっくり返るような大騒ぎだった。ナニを言い出すのどうして、と。俺は曖昧に笑った。生きていくことの罪深さが辛いのだと、それをあなたから教えられたと、答えることはできなかった。それはあまりにも残酷な宣言だったから。あなたのようには、生きたくないのだと。
領主が、亡くなって。
後ろ盾を失った母親の狼狽は凄まじかった。苛々して、怒鳴り散らし、時々は泣いていた。どうして死んでしまったのと、位牌に恨み言を言っていた。男が位牌になってようやく、思ったとおりの言葉を告げる事が赦されて、彼女は板に書き記された文字に 長年の恨みをとつとつと訴えていた。
彼女に残されたのは家屋敷と、僅かな家産。半国を治め都の高貴な姫を妻にして、強大な勢力を誇っていた男は、だからこそ女に、さほど甘い汁は吸わせなかった。それでも男が生きていた頃はよかった。生活の心配はなかったから。
彼女は俺に、新領主の館に出仕しろと要求した。俺は拒んだ。働くことは嫌じゃなかったけれど、俺はちょっと、微妙な立場だから。新領主の、もしかしたら腹違いの兄かもしれない、立場。俺の態度に母親は怒りかけたが、
「家督を狙っているとでも思われたらどうします。わたしも母上も、命はありませんよ」
その一言で黙った。なんのために生きているのか、俺から見ると分からない人だったけど、それでも生きていたいらしい。……何のために?
やがて、新領主から、使いが寄越されて。
四十九日が過ぎたら、俺に、館に引き移るように、と。
その意味を分からない俺でも、母でもなかった。母親は、安心したように笑った。どうして安心できるのか俺には理解できなかった。新しい権力者の臥所に侍って、それでどうなる。母と違ってこの身体では、子種を孕むこともない。生活や将来が、それで保障される訳ではない。綺麗な時だけやさしくされて、遊ばれて弄られて、棄てられることは自身の経験で、分かっているだろうに。
夜ごと枕を変える下賎な、遊女であった身分で領主に、拾われた母親は美しい女だった。それはもう、確実に。文句のつけようがないほど。俺は……、それより上だって最近、言われる。母親の若い頃よりも上物だ、と。言われるたびに俺は、自分が屠所に引き出される牛馬みたいな気がして嫌になる。嫌を通り越して哀しくさえ、なる。母親がそのたびに口惜しそうな顔をするから、いっそう。
疎ましい、この肉体と、顔。
あの真っ直ぐな目をした男も結局は、服の下の肉が欲しいだけ。俺の顔を歪ませて愉しませたいだけ。うまく楽しませる事ができれば、食っていくことはできるかもしれないけど、だからってそれが、ナニ。そんなのにどんな意味がある。俺は……、嫌だった。
愛とか恋とか、そんなのは、全部、嘘。
飾った言葉を引き剥がせば、繋がる場所だけ。なまぐさい粘液だけ。俺の、ナカで出したがってる若い男に、そうさせて、……それで?
身体と一緒に気持ちまで、踏み込まれ揉みくちゃにされて挙句にどうなるか、それは母親が教えてくれたから。
厭だった。だから、旅立とうと思った。西方浄土へ。どうせいつかは辿り付く安らぎに。
母親が俺にみせつけた、あの苦しみを味あわない、うちに。
……運ばれる。
怖くて声も出せない。
渡海の船からは荷物みたいに担いだ俺を、男は今、抱え上げている。直垂に包まれて抱き上げられて。巻きつく腕が怖い。逆らえない。
船底に、押し付けられて身動きも出来なかった。水夫たちが行き来する床の上で、……された。
痛くて、痛くて、苦しくて。惨めで、哀しくって、とても……、みじめ、で。
息も、ろくに継げない俺のカラダを抱いて、裂いて、男が揺らして、吐き出す。怖くて堅くて熱いイタイものがずるっと抜けていった後、俺の身体からも、ずるりと力が抜けた。意識はうっすらあったけど身動きできず声も出ない。貧血の症状。
水夫らは誰も、男に声を掛けなかった。汚れた俺の服で股間を拭われる。他人の手に、そんなところを触られるのが……、とても、厭だった。
男が直垂を脱ぐ。素肌をそれで、包まれる。男の体温の移ったそれは暖かかった。打ち絹の感触が肌にやさしく、かすかな香のかおりまで、した。けど、それは、俺の服ではなかった。男から気まぐれに与えられた布は、男の都合で恣意的に引き剥がされる。……怖かった。
「おい。急げ」
冷たい風を避けるようにきつく、俺を抱きしめながら男が水夫たちに告げる。
「凍えちまう。急げ」
「はい」
「へい」
船足が上がる。がくがく、怖さと寒さで震える俺を、男は抱き締める。力を入れて胸元に抱き込まれれば抱かれるほど、俺の恐怖はまして震えはひどくなる。……のに。
「すぐだ。ついたらすぐ、風呂に入れてやるから」
もうちょっとだけ我慢しろと、やさしく聞こえる声も、嘘。優しいふりして、また引き裂きたい、ダケ……。
離してくれと、言葉にするのも怖くって、涙が出た。困ったようにそれを唇で拭って男は、
「……、してる」
俺が、一番、きらいな言葉を俺に告げる。
「あんたを、……、してるよ」
だから泣くなといわれて、涙も止まった。あんまり馬鹿馬鹿しく、なったから。俺にこんなキタナイことして、イヤな言葉を告げといて、それを祝福だとでも思っているのかお前。
思っている、んだろうな。
手を伸ばせば、相手は悦ぶと。……俺はそうじゃない、のに。
船が岸に、着く。
大切なものを抱き上げる仕草で運ばれる。そのやりかたで、分かった。このオスがまだ、満足していないってこと。……満腹したんなら、俺を船底に棄てていくだろうから。
まだ、するのか。
まだ、俺は我慢、しなきゃならないのか。
おののく俺を抱きながら男は歩いていく。
怖い夜の、それはほんの、始まりでしか、なかった。