普陀落渡海・四                 

 

 呼ばれた医師は俺を診察し、過労と心労が酷いと言った。言われて男はチッと品のない舌打ち。俺も内心、あざわらう。そんなことは知れていた。俺も、おそらくは彼も、とうに承知していたこと、だった。
   細くなっていくばかりの俺の身体。肉が落ちると面白くないんだろう。男は俺に、ムリに食べさせようとした。弱った胃腸はそれを受け入れきれず、喉から腹には、落ちていかなかった。
   即身成仏、できるかもしれないなんて、思う。餓死も一つの、殉教の形。穢れたこの世にさようならと、告げて旅立つための手段。
「なんとか、ならねぇのかよ」
   男が医師にうめくように告げる。とぼけた顔の、丸まっちい体つきの医師は、
  「するのはお前の役目だ」
   けっこう、はっきり、ものを言う。
  「胃の腑も心の臓も弱りきってる。ここまでしたのはお前だろう。お前が責任をもて」
  「……んなに、無茶してやしねぇよ」
  男は言う。多分それは、男にとっては事実。でも俺には、百回死んでも十分な痛みだった。
  身体を、意志に反して犯される、こと。
   肉を割り裂かれてぶちまかれるアレだけじゃなしに。男の侵略は俺の、皮膚の内側にまで及んだ。血の色を晒した表皮の薄い場所を、嬲られれば背筋を異様な感覚が走り抜ける、ように俺は、変形させられていた。無意味に、無惨に、汚らしく。もともとこんな、顔も身体も大嫌いだった。美しいと褒められても、それで俺がシアワセになれるわけでも、キモチイイわけでもない。イイメをみるのは、俺を抱いてる男だけ。俺は押さえつけられて、泣かされて遊ばれる、だけ。
  「どーすりゃ、いいんだ」
  「自分で考えろ」
  「教えろよ、史浩。……頼む」
  「俺には分からない。お前がナニをしたのか知らないからな。お前が対処して、許してもらえれば死なないでいてくれるだろうよ」 医師は、男に冷淡な口をきき、
  「ナニか、ないか。伝言とか、気になることとか、欲しいものとか」
   俺に優しく尋ねてくれる。いい奴なんだなと、俺は素直に思えた。きっと、この医師は誰にでも優しいのだ。だから俺にも優しい。そんな優しさしか、俺にはもう、信じられなかった。
  お前だけ大事とか、特別とか。愛情に見せかけた、そんな言葉の裏側にあるのは欲望。肉欲だけじゃなく、金銭とか権勢とか、種類は違うけど、本質は同じ。……だから。
  だから俺は、普陀落渡海にひかれた。万物に等しく慈悲をたれたまう仏に。そんな愛情が、欲しかった。
  「……、あ」
   褥の上に、壁にもたれて座しながら、俺は医師に尋ねようとして口をひらく。けれど唇が動くだけ。言葉は出なかった。
  男に向かって、喋れなくなったのはあの夜から。別に、喋る必要もないまま、苦悶の時を過ごしてきたから、気づかなかったけど。
  俺は、男以外の相手にも言葉を失っていた。
   仕方がないから、てぶりで示す。まず、右手をあげて長い髪を指に絡める真似。女。そして、その髪を挟みで切る真似。断髪した女。出家した尼僧。
  「母上か。静かにお暮らしだ。一人息子に西方に旅立たれて、ずいぶんお嘆きだったが、最近は浄土でいずれ、会えるのだからと言っておられる」
  そう。……良かった。
   医師は暫く考えた後で、そっと。
  「お知らせするか?」
  尋ねられ、俺はかぶりを振る。知らせないでくれこんなことは。西の仏国土に旅立った筈の俺が、こんな場所で、男妾にされて、鳴いてるなんて、彼女には知らせないで。
   悲しませる、から。
  俺を男の褥に差し出して生活の保障を得ようとした彼女への、嫌悪が憐憫をこえたから捨てて渡海をしたけれど、だからって憎んでるわけじゃない。悲しませるのは、一度で十分だから。
  「そうか」
  医師は頷き、診療道具をおさめて帰り支度。けれども、耐えかねたように男に、言った。
  「お前がナニをしたのか一つ、分かったぜ啓介。彼の言葉を聞かなかっただろう。なにを言っても受け入れられないから、絶望して、彼は言葉を諦めたんだ。
  男は応えない。無視と言うより、非難を受け止めて。医師は俺に、
  「ともかく、心をおおらかにもって。一応、辛気を払うクスリを調合、しておくから飲んでくれ」
  ありがとう、と、唇だけで答える。医師には伝わったらしい。優しく、気の毒そうに俺に笑って帰り際、
  「ともかく、ここからは出してやれ。こんな場所じゃおおらかに、していろって言ったって無理だ」
   高い天井に、明り鳥の窓が一つ、あるっきりの味噌倉。湿っぽく、黴っぽく、空気が淀んでいる。人の背丈より高い桶の、狭間に汗をすった褥をのべて、汚れた薄い、小袖一枚。それだけが俺の持ち物。
   ここに閉じ込められてどれくらい、たったか俺はもう、覚えていなかった。
   最初は瀟洒な建物の中で、キレイな衣装を与えられていたけど、俺がいつまでも馴染まないと言って、男が怒って。何度も責められた。でも……、俺は何も出来なくて。その前に、どうすりゃいいかさえ、分からず。
  男の態度は夜毎にとげとげしくなって。いつか、爆発されることは分かっていた。練り絹の衣装をはがれ、瀟洒な部屋から裸足で引き出され、ここに放り込まれた。分かっていた結末。きれいな衣装も風のよく通る、明るく暖かな家も結局は自分のものじゃない。閉じ込められて、でも俺は少しほっとも、した。これで男の暴虐から逃れることが出来ると思った。
  『あんたが俺に馴れるまで、水もメシもやらねぇからなッ』
   ……そう、だな。
  この館の、水も食べ物も、男のものであって俺のじゃない。そう思ったとたんに欲しくはなくなった。なにも、一つも、少しも。
  このまま構わないで。させてくれ、餓死。楽になりたい、そろそろ、許されて。
   ……楽に、させて。
   医師が出て行く。蔵の扉が閉まった、途端。
  男の強い手が伸びる。俺は竦んだ。怖かった。もう、俺を壊さないでくれ。十分遊んだだろう?もう勘弁して。これ以上、俺を、俺が嫌なようになはつくり、変えないで。
  ……オネガイ。
  「オネガイ」
   俺の内心を、映したような男の、声。
  「ごめん。許して、お願い。……そんなに、嫌って、思わなかった。……ごめん」
  離せ。離して、出て行って。俺を一人に、して。静かに、安らかにさせて。
  そんな意志を、伝えるために力の入らない、腕を突っ張って男との距離をとろうとする。男は大人しく腕を離した。……瞬間。
  不意に、俺の目に入ってきた、男の。
   揺れて頼りない、捨てられた子供みたいな、表情。
  「好き、だったんだよ。……あんたんこと、ずっと……」
  花見や新年、父親に呼ばれて、その母と共に顔をあわせたことは何度かあった。そのたびに、あんたに俺は、一生懸命、笑ったし話し掛けようとした。遠く離れた席であんた、俺の方さえ見ようとしなかったから、分からなかっただろうけど。……ずっと。
  「好きだった。今も、好き。……こんな風にするつもりはなかったんだ。そりゃなくもなかったけど、ちゃんと、まず傍に呼んで、話しして、あんたを好きって言って……、ちゃんと、するつもりだった。……けど、あんたが普陀落渡海なんて言い出して、そんなに俺のそばに来るのがヤなのかって、思ったら腹たって……、ごめん」
  そうだなと、男はうつむいて呟く。ぼとっと、水滴が、俺の膝に落ちる。
  「死ぬほどキライ、だったんだよな……、俺んこと。……どして?」
  ぐいっと袖で、涙を拭いながら、尋ねられる。
  「今、嫌われてんのは分かるよ。ひでぇ真似したもん、俺。でも最初はなんで?話したこともなかったのに、どしてそこまで、俺がヤたったの?」
   ……違う。お前じゃない。
   疎ましかったのは自分自身。男と女の、欲望の対象になる、この腐った肉の詰まった皮袋。
  「ナンか、言って。……言ってくれたら、ナンでもするからさ。……ねぇ」
   ねぇ、と繰り返される哀願。答える言葉を、俺はもっていなかったけど。
  「ごめんなさい。……ごめん、なさい」
  泣き嘆く姿が悲しげで、健気で。それでも男の手は容赦なく、俺の股の奥を探ろうとする。
   きっと、悪い、奴じゃないんだろうと、思う。……ただ。
   肉欲に目がくらんで、こんな残虐な真似をするんだろう、こいつは。だとしたら、させているのは俺。俺が居なくなればきっと、男も、もとの明るく快活な若者に戻れる。
   ……戻してやるから、泣くな。
  俺が居なくなればいいんだ。そうだろう?
  「……シナ、ナイデ……」
   大丈夫。
  死んだら、居なくなるから、忘れられる、きっと。
  思い出せば悲しいなら、思い出さなきゃいいだけの話。
  「……嫌わないで、くれよ……」
  泣くなよ。可哀想になる。
   お前、ホントに俺の、弟なのかも、しれないな。
  泣くと可愛そうになるから。
  「一人で、遠くに、行かないで……」
   泣くな。
  「オネガイ……」
 

 泣く、なよ。

 

 ……啓介。