普陀落渡海・五
医師が処方した薬を飲む。甘い口当たりのそれは、何故だか喉にするりと落ちた。何日かぶりに摂った水分、だった。
医師はそれを見てほっとして、椀には薬とは違う、甘い湯が満たされる。それもするする、飲み下し、俺は医師の進めるまま寝床に横たわる。以前、住まわされていた離れに、再び連れ戻されていた。
絞った手ぬぐいで汗じみた顔と手足を拭われて気持ちがいい。とても。薬のせいだろうか身体がほっこり温まってきて、幸せなキモチで俺は、目を閉じた。
「……治った、のか?」
それまで一言も喋らず医師に任せていた啓介が小さな声で、尋ねる。
「分からん」
医師は、啓介には少しまだ、怒っているらしい。切り落とすような愛想のない返答。
「治してくれよ。この人居なくなったら、俺どーすりゃいいんだよ。俺が原因で殺すなんざ、冗談じゃねぇ」
医師は、家臣と言うより友人であるらしい。二人きりになると、啓介の口調が違っている。
「努力はしている。でも本当に、心の病だからな。……多分、原因はお前だけじゃない」
契機になったのはそうでも、それが全部じゃなさそうだと医師は言う。顔に似合わず鋭いと、俺は夢うつつの中で思った。
「普陀落渡海、なんてしようとする人間の心理は俺にも、よく分からないが」
「俺なんかさっぱりだよ」
「ナニが辛いかは人それぞれ、だからな」
医師が出て行く。そっと、部屋の隅から気配が近くに、来る。
髪がすかれる。指の感触が、優しい。
「……そばに、居て……」
声も、少しだけ。
「大好きなんだ。……わかって」
ごめん、それは、分からない。
だってお前は何も知らないじゃないか、俺のことを。
なのにスキって、ナニ。ろくに話した事もない相手をスキになんか、なるわけが、ないだろ?
あるとしたら、つまりそれは、見た目が気に入ったという、それだけ。
身体と顔の、形と色がお前の好み、だっただけ。……だろう?
「愛して、るんだ……」
ごめん、それは、信じ、られない……。
夢うつつの中で。
襖が拓く音がする。中庭に面した障子ではなくて。
「……見える?」
若い、女の声。
「綺麗な人?色は白い?」
「暗くてよく分からないわ」
「若様があれほどご寵愛の方って、どんな方?」
本邸の侍女たちか。若主人に囲われた妾を偵察に、きたのか。
「ずいぶん可愛がっていらっしゃるのよね」
「腹が立つったらないわ。私たちには、一顧だになさらないのに」
「あら、それは仕方ないわよ。今、大切な時期ですもの」
賢しげなよく通る声の持ち主が、訳知り顔に告げる。
「若様の、嫁取りがのびのびになっている理由、知っていて?」
「あの、右大臣様、お声がかりの、堂上家のお姫様、でしょ」
「召し女あがりの側室の、御子といってもこんな田舎に、都のお貴族様がよくもまぁ、娘を寄越す気になったものよね」
「だって今時、都の貴族といっても内実は、相等に苦しいらしいわよ。室町幕府に宮廷の所領は取り上げられて、代替わりの費用さえおぼつかないって」
「権威があってもお金がなけりゃ、つまらないわね」
「それに較べて、うちは豊かだもの」
この時代、最も豊かであったのは大陸との貿易が盛んな九州北部、及び瀬戸内。女たちの声も明るく朗らかだ。
「なかでも若様、評判が高くって、まぁこの瀬戸内じゃ出色の方よね」
「若くていい男だし」
「都で公家に嫁いで食うや喰わずでも、から渡りの錦の布団で、膳を重ねている方が、本音はいいに決まってるわ。だから、その姫様もその気になった、らしいの。それが、よ。噂を聞いた政敵の左大臣が」
「え、なになに」
「知らないわ、教えて」
「左大臣は、自分の娘を嫁がせようって、言い出したらしいのよ」
「……えーっ」
「うっそぉー」
「ちょっと、それ本当?」
「誰から聞いたのよ、そんなの」
「あたしの兄、先日、都に登ったのよ。幕府に献上品を届けにね。その時。……いま、右大臣と左大臣の、対立の最中よ。どっちが嫁いでこられるかで、勝敗がわかるわ。こんな、時期に」
「……そうね。若様にはもう側室が、っていうのは、マズイわね」
「特に、あたしたち、みたいなのは」
「警戒されてしまうわ。……コドモも、できるし」
「そ。あそこの、猫と違ってね」
……俺のことか?
「あたしたちには父上や兄上の後見があるから、条件さえ揃えば跡取りの母親にもなれるし正室と張り合える。だから今、若様は、あたしたちに手を伸ばせないの」
「あぁ、だから、猫を可愛がっておいでな訳ね」
「お寂しいのよ、きっと」
「若様、可哀想」
そんな言葉をききながら、俺の耳には、一語が奇妙に大きく、響いた。
……寂しい、のか。
そうか、あれは、寂しかったのか。
若くて強い、強靭な男だったから、俺はそんなの、思いつきもしなかったけど。
……寂しかったのか、そうか。
それなら、分かるよ。そうだな。考えてみれば、あいつ母親はとぉに亡くなって、父親をなくしたばっかり、だった。
寂しくっても、無理はない。……だから。
猫を、可愛がりたかった、のか。
侍女たちにそう呼ばれたことを、屈辱だとは思わなかった。かえって気が楽になる。そうだ、俺は、猫。膝に懐いて鳴いて、主人の無聊を慰めるのが、役目。
……猫なら、見た目で愛されて、当然。
主人に、餌を与えられるのも。
表皮を撫でられて、喉を鳴らすのも。
……猫なら、あたりまえのこと。
恥かしくはない。不自然ではない。淫らというのとも違う。穢れで、あるはずがない。
侍女たちが、侮蔑のつもりで俺に投げつけた一言は、俺の気持ちを、救ってくれた。
それから。
食事が喉を、通るようになった。
飼い猫に餌が与えられるのは当然。俺が、これを食べても当たり前。
『主人』は、まめに離れに通ってきた。俺が食事をしていると聞かされて、嬉しそうに駆け込んできたことも、ある。俺はちょうど、熱い雑炊で舌を焼いてしまったところで。『主人』は心配して、
「見せてみろ」
素直に舌を差し出した。飼い猫の、怪我を心配しくれるのも、当然。
「赤くなってる。だいたい、熱すぎるよ、これ」
木の匙ですくって、冷まされてから、差し出される雑炊を、首を傾げて口に含むと『主人』は、すごく嬉しそうにした。飼い猫に、餌をやるのが面白いのも、分かる。理解、できる。
だから。
「はい」
同じ動作を、続けた。
肉付きが、戻ってきて。
まだ全快ではないが命の危機は去ったと、医師が言う。
『主人』はひどく嬉しそうだった。そして、その夜。
「ごめ……、我慢、できねぇよ」
俺の寝所に、忍んだ。
「なぁ、やっぱりイヤ?どーしても?あんたのイイようにするけど、それでも……?」
なに、言ってるの?
好きなように、すればいいのに。俺は飼い猫だから、『主人』が、撫でたいならなでればいい。
「だめだ……、ゴメ……」
『主人』の、硬いモノが夜衣ごしに腿に当たる。……したいんだなって、凄くよく分かった。ずいぶんもう、カタそうでアツかったから。……だから。
すっと、身体をずらす。逃げると思ったのか警戒して抱きすくめる腕の力を強くした主人を、宥めるために、唇に接吻して、驚いたところをずれて、夜衣の、狭間に唇を、寄せる。
「……ッ、おいっ」
主人はひどく驚いた。……なんで?
よく、俺に、させたじゃないか。仕込まれた芸を披露、しているのにどうして、そんなに驚くの?
「マジ、かよ……」
呟きながら、驚きの収まらない様子で、それでも『主人』は、俺の後ろ髪をなでてくれる。……優しい。
優しくされて嬉しかったから、一生懸命、舌を使って仕えた。どくん、どくんって大きくなってくソレに喉を、圧迫されて苦しかったけど、でも。
悦んでくれてる証拠と思うと嬉しかった。
飼い猫だから、主人を悦ばせるのは、愉しませるのは、役目。
果たせて、嬉しい。これも当たり前のこと。
「ちょ……、も、離して。もたねぇ……」
ため息のような声で告げられ、苦い滴りが滲んできた先端を、舐めていた舌を止める。口からずるり、出て行く途中で、
「……、ッ」
悪戯の、つもりで逆に吸い付いた。先っぽをもう一度、舌先で弄ると、
「このッ」
乱暴な仕草で顎を掴まれ引き剥がされて、そのまま褥に、うつ伏せに這わされる。引き据えられる前に自分から腰をあげ、『主人』のスキな姿勢をしてみせた。
「よくも……。イッちまったら、どーするつもりだったんだよ」
みっともねぇ、とうめき声。
「久々なのに、キチィかもしんねーけど……、あんたのせぇだから、な」
興奮して舌ったらずな言い方が、可愛い。
そのまま、腰骨をきつく掴まれ、上げた以上に引き寄せられて、裂かれる。
「ひぅ、ひゃ……、んふ、……、ぁ、あ」
言葉は出ない。けど、声は出せる。猫だから、鳴くよ、俺は。
「きゅ……、ひぅ……ッ、ンーッ」
「いったく、ね、ぇ?」
問い掛けに、鳴きながら、がくがく首を、たてに振る。腰をふるふる、『主人』の突き上げにあわせて揺らしながら。
「そ。……、よ、かった……」
それから、『主人』も。
俺に合わせて、獣になってくれて、鳴くしかしなくなって。
春でもないのに鳴き交わし、ながら抱き合う。何度も、何度も……。
ぼんやり、部屋が明るくなってくる。
「ねぇ……、正気?」
さんざん可愛がられて、指一本、動かせなくなって。弛緩して、うっとりしていることしか出来ない俺に、『主人』が不安そうに、尋ねる。
……あ、れ?
嬉しそうじゃ、ない……?
どうして?
気に入らなかったの?
気に入られるように、一生懸命、したのに、足りなかった?
「おかしくなったのかよ。……、しっかりしてくれよ」
がくがく、肩を掴まれ揺すられる。『主人』が泣き出しそうだと、思っていたら、泣かれた。
なんで?
足りなかったなら、もう一回、踊るから泣かないで。泣かれると、俺まで悲しくなるから。
……だって、飼い猫、だから。
「そんなに……、イヤだった、のかよぉ……」
泣かないで。ねぇ。
だるい四肢を叱咤して、主人の上に跨ろうとした。抱きすくめ、られて出来なかった。慰める手段を阻まれて、せめてじゃあ、涙の痕を舐める。しょっぱくって、あったかい。舐めても舐めても、滲んでくるよ。……どうして?
「しっかり、してくれ……、なぁッ」
泣かないで、笑って。
「正気に戻ってよ。俺を罵っていいから」
肩を掴まれ、顔をまじまじと見つめられる。悲しそうな表情で。凛々しい目尻が頼りなく揺れて、いつもはきゅっと、したたかに引き締まった唇さえ震えてる。それを見て、俺まで悲しくなりかけたけど、はっと気づいて、笑った。……微笑んだ。
笑ったのに、なんで?どうしてそんなに、ますます悲しそうなの?
前はよく言っていたのに。笑えって、そう言って、出来なかった俺を殴ったことも、あったのに。
……ごめん、なさい。
俺、あの時はわかっていなかったんだ。自分が飼い猫だって知らなかった。だから、うまく言う事をきけなくって、苛々させて、ごめんなさい。今は分かったから、ほら、笑ってるだろ?泣かないで。
そんな風に悲しそうな顔、しないで。
……俺も、本当はね、笑ってるお前が、スキ。
何回か、しか見たことないけど。いっつもお前のこと、怒らせてばっかりだったから。今はなんでか、悲しませているし。
笑ってるお前がすき。当たり前だよな。お前は俺の、飼い主だから。笑って欲しいって、俺が思ってもおかしくは、ないだろ?
だから、笑って。
「ごめん……、ごめん、なさい」
なんで、泣くの。
「しっかりしてくれよぉー……」
泣かないで、笑って。
笑った顔、すごく好きだから。ねぇ。
笑ってよ、お願いだから。
……ねぇ。