普陀落渡海・8
賊が、座敷に土足で上がってくる。
美貌の主は、それをじっと見ていた。
「知恵遅れって言ってたな。言葉は分かんのか?」
問われても答えない。じっと刀を、見ていた。あぁ、と賊は気づいて。
「斬りゃしないぜ。さ、こっちに来い」
怖がらせないように血刀を背後にまわす。あいている手を伸ばされて、麗人は素直に男に近づいた。
「へぇ、素直なんだな。こりゃ扱いやす……」
い、と、最後まではいえなかった。
ぎゃあと、大きな悲鳴が上がる。
「うぎゃあ、指、指がぁッ」
賊の右の指は三本、無惨に関節が逆に折れていた。
「お……、追え、獲物が、逃げたッ」
痛みに脂汗を流しながら賊が叫んだとき、麗人は血刀を手にして、離れを飛び出していた。
やわらかな夜衣に、血刀をさげて。
黒い瓦を踏みしめる素足の白さが見るものの目を射る。
軒から伝って、領主の妾は離れの屋根の上に逃げた。若猫のように俊敏な動作だった。そして素晴らしい判断だった。見通しのきく高所から、よじ登ってくる賊たちを刀で叩き落す。
反撃しようとすれば登れず、登っていては血刀で指を斬られる。指がきかなければ屋根によじ登ることは出来ない。賊たちは、歯軋りしながら屋根を見上げる。見られても麗人は平然としている。狙われた身でありながら逆に、賊の男たちを獲物を狙うような目で、見返す。
「話が違うぜ。ナニが、白痴の美女だ。……無茶苦茶に、気丈じゃねぇかよ」
「美女には違いないがな。……しかし、どうにかしないと、約定が……」
「あれの身柄と引き換えの手引きだろ?みすみす逃がしちゃ、俺らの名が廃るぜ」
「京一さんは何処行ったんだ。この一大事に」
何人かが指を切られた後は、あえて屋根に登ろうという者はない。油断なく見下ろしながらゆうゆうと、麗人は白綾の夜衣の袖で刀の血を拭う。離れの背面は深い崖、そこには岩にへばりつくようにして、何本かの黒松が生えているだけ。
「おい、あんた」
折られた指を応急処置した賊の副将が、屋根上の麗人に声をかける。
「意地張らずに降りて来い。……火ぃ掛けるぜ」
副将の背後では、脅すように松明が振られる。陽の暮れかけた薄闇の中で、赤い炎が禍々しく燃え立つ。
「その若さで、焼け死にたかぁないだろ」
脅された、瞬間。
屋根の上で麗人は、不思議な反応をした。
それまで冷静な無表情だった美貌が、綻ぶ。
艶を通り越して淫らなほどに、うっとりと。
それこそが、望みであるといいたげに。
瞬間、全員が息も忘れて魅入ったが、
「……」
無言のままで、刀を麗人は手放し。
「そう。……聞き分けいいじゃねぇか」
屋根から落とされた自分の刀を拾いながら、副将は言った。
「ここに居たってあんたにいい事ぁない。主人は都の姫を娶るんだろ?正妻に、いびり出されて野垂れ死にするしかねぇさ。それよりゃ、俺たちと来た方がシアワセだぜ」
降りて来いともう一度促す。麗人は屋根の端に寄り、下を見下ろし、
「……」
ふるふると、頭を振る。
「怖いのかよ……?登ったのに降りれねぇなんざ、猫みてぇだな。おい、誰か手伝ってやれ」
自分は指がきかなくて出来ないと、副将。
「刀はもう持ってねぇ。大丈夫だ」
「お、俺が」
「いや、俺が」
「俺が」
わらわら、寄ってくる男たちの中から、麗人は一人を指差した。
差された若者は、伽を命じられたような気持ちで勇んで軒にとりつく。よじのぼり上体を屋根の上に引き上げた。麗人が近づき、屈む。ひっぱって登るのを手伝ってくれるのかと若者が頬を緩めた、途端。
「うわ、わーッ」
しがみついた手を踏まれ、突き飛ばされて、おちる。
なんとか頭を抱え込んで怪我?しなかったが、背に負っていた大太刀は、屋根上の麗人の掌の中。
最初から、それが目的、だったのだ。
血糊で切れ味の悪くなった刀の、代わりが欲しかった。
「この……ッ」
「どうします、清二さん」
「京一は、居ないのかよッ」
「何処にも、姿が」
ぎりっ、と奥歯を噛み締めて。
「火を、点けろ」
清二の指示に麗人が微笑む。その、背後に。
「……ッ」
いきなり被さった、影。
「……、……、、……ッ」
手首を逆手に捻られてぽろり、大太刀は瓦におちた。
背後から被さった影がそれを、屋根の下に蹴る。
慌てて、清二が拾い上げ、頭上をふり仰ぐ。
「京一……」
「短気すぎだ、清二」
必死で暴れる麗人をやすやすと押さえつけ、軽々と肩に担ぎながら、豪気な男の、低く響く声。
きりたった崖に生えた、松を伝って離れの背後に居たらしい。そうしてそこで、好機をうかがっていた。
「こんな特上をそう、簡単に炭焼きにするな」
「わ……、るかったよ」
「引き上げるぞ」
ひと一人肩に担ぎながら、悠々と頑丈な影は地面に、降り立った。
「え、まだ土蔵、破れてねぇぜ」
「仕方ねぇだろ。海に船が浮いてる。救援が来たらしい」
「あぁ……、そうか。くそぅ。その女にてこずらされたせいだぜ」
「女をさらえば領主に恥はかかせられる。約定も守って、目的は、果たした」
「よぉし、引き上げだッ」
ばたばたと、邸内から男たちが駆け出す。賊の頭目も同じく、まるで自分の屋敷を歩くように落ち着いた足取りで歩いていくが。
「おい……、暴れるな」
担いだ身体の跳ねる抵抗を持て余し、抱えなおすために一度、おろした。
刀の下げ緒で腕は拘束している。
渡殿に下ろして初めて、頭目はまじまじと、麗人を眺めた。
「……」
冷やかす声さえ、出てこない。麗人は不自由な手で必死に、渡殿の柱にしがみつこうと、足掻く。
手首を結ばれて、無駄な足掻きだったけれど。
男が手を伸ばす。ふるふると、麗人はかぶりを振る。必死の目の色で、許してくれと男を、哀願するように見つめた。瞳は確かに、涙で潤んでいた。
何処にも行きたくないのだと。
ここで、愛しい主人に、かわいがられていたいのだと。
連れて行かないで、奪わないでくれ、と。
「来た方が、あんたの、為だぜ」
ごついみかけと裏腹の穏やかな声で賊の頭目が告げる。
「あんたは、棄てられたんだよ。……可哀相だけどな」
ちがう、と麗人はかぶりを振る。やわらかな前髪が水平に揺れるほど激しく。
「いいとこの姫を女房にした男の妾なんざ……、やめた方がいいぜ」
きゅっと唇が噛まれる。海賊の住処で飼われるよりもマシだと、その目が告げていた。
「ひでぇ真似は、しねぇよ」
告げてしまったのは頭目らしくないゆれ。この麗人は下女や召人とは違う。領主の女で、それを奪って陵辱することは領主に対する攻撃になる。権力者に愛された女は、敵対する勢力の男たちからその身に復讐されることを覚悟、しなければならない時代だった。
「さ……、来い」
男の手が今度は容赦なく伸びる。担ぎ上げられる。今度は肩ではなく、膝を抱えて、抱かれて。
まるでそう、大切なものを抱えるように。
……麗人の、目の前に。
頑丈そうな、喉仏が、あった。