序章

 

 帝国の皇帝が死去したニュースは、即座に大陸中をかけ巡った。そして二時間後、各地の『地方領主』に帝都への召集令が届く。

「なんのこったか……」

 不満気に呟いたのはトゥーラ王国の宰相。「帝国はまだ俺たちを臣下と思ってるのか。税金なんか百年も払っていないのに」

 夜明け前、最も闇が深い時刻。急報を受けた大臣や長官、将軍たちが集まった懇談室。

「何のために呼ばれるの」

 まだ若い国王の質問に、

「皇帝を選ぶ為だ」

 宰相が答える。令状は帝国の古代語で書かれて一般の人間には読めない。辞書も普通には手に入らない。ただ宰相は帝国中央大学卒業の秀才で、皆に翻訳してきかせた。

「皇帝には皇太子が居ない。娘は居るが、女帝の習慣はない。死んだ皇帝のはとこだのまた従兄弟だのが立候補してて」

「ごちゃごちゃしているようですな」

 頷いたのは外務大臣。

「そんな場合には選帝権を持つ旧領主の投票で選ばれるのが通例です。といっても最後にそれが行なわれたのは百年以上も前ですが」

 資料をめくりながら、法務省長官。

「かつて選帝公と称されていた帝国地方領主は十一。うち、三つが我国にあります」

「我国の委任状要請に応じそうなのは四カ国。実質的に我々が皇帝を選べます」

「他国の状況はまだ不明です。書簡による投票を行なうことも出来ますが」

「帝都へ行くよ」

 国王の決断は早い。

「賭ける馬は、直で見なけりゃね」

 その場に居る全員が腕組みで服従の意思表示。打ち合わせを終えて首脳陣は解散した。奥宮へ国王を送りながら、

「お前、一人で行ってこい」

 宰相は国王にしか聞こえない声。

「国際舞台に単独デビューしていい頃合だ」

「あなたは?」

「留守番しといてやるよ」

「一緒においで。あなたを一人で残しておくのは物騒だ」

 優しい、でも逆らうことを許さない口調。

「俺の何処が」

「今にも逃げ出しそうなところ」

「俺が?どこに逃げるっていうんだ」

「僕の手の届かないところ。逃げたくないとは言わせないよ。ずっと避けておいて」

「……アケト」

 宰相は足を止める。国王も立ち止まる。

「男を抱いてあっためてやれるのは女だけだ。俺は出来ない」

「出来るよ。しようとしないだけ」

「諦めろ」

 国王の私的な居住スペースである奥宮と、行政機関の集まった表との区切る大きな扉。その前で、二人は低い声で口論。

「確かにうちじゃ国王は三権分立の更に上位にある。けど、それは政治の話だ。個人の人権を蹂躙していい規定はどこにもないぜ。お前に俺をどうこうする権利はない」

「した覚えはない」

「息苦しいんだよ。心理的苦痛だ」

「忍耐の範囲内さ。おやすみ」

 じきに夜はあけるがそんなことを言って国王は奥宮へ。扉の手前で立ち尽くし宰相はため息。以前はここで足を止めることなどなかったのに。

 今も鍵はかかっていない。その気になればいつでも入れる。押せば開く扉が、なんだか鋼鉄の壁みたいに思える。求められている筈なのに拒まれているようで、扉をこつんと叩いてみた。いきなり凄い勢いで内側から開く。 咄嗟に背を反らして避けた宰相。

「入る?」

 扉の内側には国王。静かだが思いつめた、恐い目をしている。広く押し開かれた向こう側には中庭へ続く回廊。照明にうっすら浮き上がる景色がひどく懐かしい。

「いや」

 宰相が首を横に振ると、

「そう」

 扉はもう一度閉まる。艶の出た桜材に浮き彫りされた虎の紋章を音のしないように撫で、宰相はわざと足音をたてその場から離れた。正門の車寄せに出たとき、東の山の稜線が白く染まる夜明け。

「お帰りなさいませ。お館へ?」

 秘書がドアを開けながら尋ねる。

「直接役所へやってくれ」

「承りました。陛下はお元気でしたか?」

「あぁ」

「それはよかった。長い兄弟喧嘩でしたね」

 秘書は笑っている。宰相は答えない。宰相が国王を避けていたことは皆が知っている。けれど深刻に受けとめた者はいなかった。

 国王は幼児期を宰相の家に預けられて過ごした。宰相の父親が王太子の傅役で、家族のようなものだった。

 誰にも言えない悩みを抱いたまま宰相は目を閉じる。少しでも仮眠をとろうと背中をシートにもたれさす。山頂の王宮から山道を下る途中で、朝一番の光を受けた海がきらめく。

 

帝都争乱始末記

 

 日が暮れて、既に陸地は見えない。

「寒いな」

 甲板に溢れた客は冷たい風に肩を竦めた。

「贅沢を言うのはお止しよ。無事に街から出れただけでも運が良かったんだ」

「まさか帝都をこんな風に出ていくとは。神聖帝国の首都、諸国からの貢ぎ物を運ぶ使者であふれた街が」

「それだってどっかの街を滅ぼしての繁栄だったんだろ。今度はこっちが滅ぼされる番。それだけさ」

「俺は何処を滅ぼしたこともない。一生懸命働いて持った店だったのに」

「店ならまた持てるよ。命さえ助かれば」

 戦乱を避けて都落ちしてゆく人々。あちこちで似た会話が交わされている。権力も武力も持たず翻弄される庶民。羊たちの群れ。

 そんな中に異質の男が居た。風よけのマントを目深に被り、腰には一目で業物と分かる剣。広い肩幅、厚い胸。

 男はさっきから微動もしない。じっと見つめるその先にはこれまた避難民の群れには不似合いな人物が居る。蜂蜜色の頭髪を夜風になびかせて、心細い燎の光を受けたその横顔に見覚えがあったのだ。こんな所にいる筈のない人物。

 人違いか?いやそうではない。涼しいのを通りこして艶なほどきつい、印象的な目尻は間違いようが無い。聖都の学生風の、安い綿の短衣が彼をくすませているけれど。

「ねぇ、一人?」

 それでも彼の、ただものでない物腰に気づいた女が声を掛けた。

「学生さん?留学生?」

「可哀想ね、せっかく都にきたのに」

「毛布持ってないの?寒いでしょ」

 商売女らしい男をからかい誘い慣れた口調。彼は目を上げて女たちを見た。途端、年若いのも年増も一斉に口を噤む。

 色男だ。

 不意に見合えば絶句してしまうほど。迫力に、息も出来ないほど。

「仲間に入れてくれるわけ?」

 完璧過ぎて冷たい美貌とは裏腹に、彼の口からでた言葉は気安い。強ばった女たちを宥めるように少しだけ笑う。

「え、ええ、勿論」

「こっちに来なさい、わたしの毛布に入れてあげる」

「何処まで行くの?名前は?」

 娼婦たちを小娘のようにはしゃがせながら彼は移動した。見ていて男ははらはらした。黄色い声は人目を集める。そんなに目立っていいのだろうか。

「汗臭いかも。昨日から風呂入ってないから」「大丈夫よ。平気」

「何処の国から来たの?幾つ?」

「二十四歳」

 男は眉を寄せる。それは男が知っている彼の年齢。もう間違いない。

「若く見えるわ。十代かと思った」

「よく言われるよ」

「ハンサムねぇ。あなたみたいな人が帝都に居たなんて知らなかったわ」

「勉強より役者になればいいのに。歌手とか。楽して稼げるわよ」

「音痴だから」

「これから何処に行くの?」

「あんたたちは?あてあるのかい」

「あたしたちみたいな女は何処でも生きていけるのよ」

「出来ればもう戦争に巻き込まれない、安全な街がいいわ」

「そんな所あるかしら。これからどんどん世の中は荒れていくばっかりみたい」

「トゥーラは?」

 彼の言葉に女たちは顔色を変えた。

「ちょっと遠いけど、海路の便利がいいからオリブスで乗り換えればすぐだ」

「冗談でも止めて。そんな名前、聞きたくもないわ」

 年増の女が尖った声を出す。

「悪い名前よ。世の中が荒れたのもわたしたちが帝都から出て行かなけりゃならないのも全部トゥーラ王国のせい。東の辺境国、三国が統合されてできた成り上がりの国のくせに帝都に出兵してくるなんて、許せないわ」

 聞いていた男は内心で冷や汗を流したが、「……かもな」

 聞かされた本人はほろ苦く笑っただけ。帝国に、匹敵するとまではいかないが対抗できる勢力の台頭が老大国の尊厳を揺るがしていることは否定できない事実。

 弱体化した神聖帝国の皇帝が死去したのは半月前。皇帝には娘一人しか子はなく女帝の前例はない。皇帝の遠い血縁者がごちゃごちゃ立候補して、後継者争いは泥沼の様相を呈している。

 帝都に出兵したのはトゥーラ王国だけではない。パルス諸国連合、オリブス半島、サラブ首長国連合その他、クラーク帝国支配下にある国々はこぞって精鋭を聖都に送り込み、それぞれが自国に都合のいい皇帝候補を擁立し対立を続けている。

 加えてそこに、選帝権こそ持たないが随一の海軍力を誇るサラブが皇女擁立派として名乗りをあげ、首都は荒れ果てた。

「わたしたちの街に来て勝手なことばかり言う連中の、中でも一番、たちが悪いのよトゥーラは」

「でも強い」

 落ち着き払って彼は短く答える。

「移民を保護しているし、治安もいい。住人が着のみ着のまま逃げ惑うことは絶対ない」

「余所を食い荒らす狼に服従して、生き延びて意味があるかしら」

「帝都をそんなに好きなのか。あんたたちを守ってやれない間抜けばかりが治めてるのに」「生まれ故郷だもの」

 女の言葉に場がしんみりとした途端、耳をつんざく警告音。

「え、なに。なんなの」

 寝ていた客も飛び起きた。

「落ち着いて下さい皆さん。大丈夫検問です。船がサラブ首長国連邦の領海に入ったのです」 船員が声を張り上げる。

「貨物のチェックがあります。武器や火薬を積んでいないかだけの簡単な審査です。一時間もすれば終わります」

 客たちは一様にほっとした様子。それでももう一度眠ろうとする者はなく、近づく船影を眺めている。堂々たる偉容の大型船。貨物船を流用した難民船に乗っているのが恥ずかしくなるほど。

 彼は女たちから離れて舷に立った。近づいてくる船影を見定めようと目を細める。その背に男は足音をたてず近づく。

「貨物検査とは思えません。軍艦ですよ、あれは」

 彼にだけ聞こえる低い声。

「捜索に来たんでしょうあなたを。トゥーラ王国宰相、ウィルス・サージ公爵」

「……」

 彼は男に横目の一瞥をくれる。それは確かに、服従させることに慣れた狼の目つき。

「だからといって海に飛び込まないように。この海域は波が高い。泳ぎきるのは無理です」「何者だ」

「イルゲン・ジアンと申します。傭兵部隊の元締め、のようなことをしていまして、トゥーラ国軍とは同じ戦場に居たことが何度か」 彼は口元で皮肉に笑った。

「時には敵、時には味方として、か」

「公爵の傭兵嫌いは存じ上げております。有名ですから。しかし今、わたしはお味方です。なんとかこの検問を突破しませんと」

「無理だろ」

 不自然なくらい落ち着いて彼は言った。

「俺のツラは大陸じゅうの軍人に知られてる。契約したことない傭兵にまでな。あれがサラブの軍艦なら逃げようがない」

「逃げ場のない船になぜ、乗られたのですか」 男の質問に彼は答えなかった。

「わたしをとりあえずお供ということにして下さい。お一人よりも二人の方が切り抜けられる可能性は高い。何とか小形艇、最悪の場合は救命ボートでも奪えれば……」

 男は台詞を最後まで言えなかった。

 白い美貌が振り向きざま男の喉を狙った。辛うじてそれは避けたが反らした懐に飛び込まれ腹に一撃くらう。細身からは信じられないくらい重い拳。呼吸が出来なくなったところにもう一度、喉を狙われて今度は避けきれなかった。

 何故という問いをする間も無く、甲板に崩れる。

「……学生さん?」

 いきなり始まった格闘と一方的な勝利に女たちは呆然。

「どうしたの、その人」

 軍艦の強力な投光機に照らされた甲板は真昼のように明るい。

「スケベなこと言われたんだ。ところで、落ち着き先のこと」

 眩しすぎる光を掌で遮りながら、彼は軍艦に顔を向ける。

「トゥーラ王国はいいところだ。あんたたちの故郷の次くらいには」

 軍艦がざわめく。声は聞こえないがそんな気配が伝わってきた。全速力でこちらへ向かってくる。

「強いのねあなた。優しい顔してるのに」

「俺は優しいよ」

 ぬけぬけと自分で言いながら男を肩に抱える。自分より一回り大きな身体を、そう苦労もせずに。

「だから弱いって発想は間違いだけど」

「ねぇ一緒に来ない?ボディーガードを探しているの、あたしたち」

「あなたならみんなの恋人でもいいわ。好きなだけ暖めてあげる」

「そうしたいよ、ホント」

 彼は屈み、毛布に入れてくれた女の手を握る。

「ありがとう。気をつけて。あんたたちの風向きが変わったらトゥーラにおいで」

 軍艦が寄せられ、投げ下ろされる縄梯子。男を担いだまま彼はのぼっていく。甲板でみながその様子に見惚れた。中でも手を握られた女は、一緒に包まっていた毛布に残る彼の体温を消すまいとするように肩にからめる。夢見るような、うっとりとした顔で。

 

 その頃、軍艦の甲板では。

「なんだその荷物」

 待ち受けていたサラブの将軍は、彼を見るなりそう言った。

「なんでお前が居るんだ」

 彼も将軍を見るなり尋ねる。

「お前を追ってきたに決まってるだろ。妙な連れだな。とうとう宗旨替えしたか」

「傭兵だって自分では名乗ってた。俺の面を知っていたから、置いてくる訳にゃいかなかっただけだ」

「寄越せよ、預かる」

 当て身をくらってのびた男を船倉に運ばせ、「もっといい連れが居るんじゃないか?そっちはどうした」

 彼の耳元で囁く。

「駆け落ちした、帝国の皇女様は?」

「……なんの話だ」

「誤魔化すなって。帝都じゃもう評判だぜ。たらし公爵が皇女を強奪しちまったって」

「どんな仇名をつけても構わないが、俺の前では俺の名前を呼べ」

「皇女の寝室から逃げ出したんだろ?花婿候補たちが目の色変えてお前らを探してる。彼女をどうした」

 ごく短い時間、ウィルスは黙って、そして。「隠してきたさ。安全なところに」

「意外だな。お前がそんな真似をするとは。神をも恐れぬ自信家だったくせに。……あてが外れたな」

 将軍は少し悔しそう。

「絶対に連れて逃げてると思ったから、大騒ぎの帝都を放り出して追いかけてきたのに」

「いい気味だぜ」

「あの……、将軍」

 二人の会話に恐る恐る、サラブの別の軍人が入ってくる。

「一応、あの船を捜索した方が?」

 言われて将軍は、

「何故だ?」

 不思議そうな顔。本当に分からないらしい。「公爵が嘘をついているかもしれないからです。案外、あの船に置いてきたのかも」

「こいつが、女を、一人でねぇ」

 まじまじと将軍は彼を眺める。

「毛も生え揃わない頃からのつき合いだが、こいつが嘘ついたところと女を置いてったところは見たことがないな。まぁいい、一応は調べて来い。多分居ないと思うが」

「ご信頼、ありがとうよ」

 彼は皮肉に言った。そして。

「風呂入れるか」

 真顔で尋ねる。

 

 イルゲンが意識を取り戻したのは簡素だが機能的な船室。かすかに揺れる波の感触が伝わってくる。

 横たえられたベットにも飾りはないがクッションは快適。起き上がろうとして、手首を縛られていることに気づいた。

「起きたか、ひどい目にあったな」

 間仕切りの向こうからひょいと顔を出したのはサラブの軍服を着た背の高い男。

「身元を確認させてもらった。オリブス半島領主の依頼で帝都の情勢を調べていたんだって?役に立つ男だから殺してくれるなと領主の妻から依頼があった」

 アラビアの子孫らしい浅黒い肌。引き締まった頬をしているが笑う目尻は垂れ気味で、笑い皺がよっている。左目尻の傷で、それが誰だかイルゲンには分かった。

 ザカート・ファティス。サラブ第一艦隊司令官。海軍力を誇るサラブ首長国の中でも戦績抜群の海戦指揮官。

「縄解いてやろう。いきなり殴り倒されて、災難だったな」

 気軽に近寄り手を伸ばす。

「恐縮です」

「気にするな。縛ったのも俺だ。武器は下船するまで預からせてもらうが」

「当然です。……ウィルス公は?」

「風呂に入ってる」

 あっさり言われて、イルゲンは驚いた。そういえば水音がする。

「サラブとトゥーラは対立していたのではないんですか。帝国の皇帝候補の件で」

 皇女を女帝として推薦したサラブ。それになかなか同調しないトゥーラ。一触即発な緊張関係だった。

「一昨日までは」

「今は?」

「奴は貴重な協力者だ。女帝擁立の為の」

「何時の間にそんな話に?」

「奴が皇女の寝床から逃げ出した瞬間から」

 呆然とするイルゲン。将軍はニッと笑ってみせた。

「お前の身柄はとりあえずウィルスの保護下だ。下船までは客人として待遇しよう。それでいいな」

 問われたのはイルゲンではなかった。

「仕方ねぇな。リィアの関係者じゃ、海に捨ててく訳にもいくまい」

 衝立の向こうから答える声。リィアとはオリブス半島妃の名だ。イルゲンの雇い主。

「おい、この服借りていいんだな?」

「メシの用意も出来てるぜ。奥の食堂」

 髪を湿らせ貫衣の帯を締めながらウィルスは衝立から出てくる。青い更紗の生地に繻子の帯。舞台衣装と見紛う派手さが、彼の美貌によく似合っていた。

「先に行くぜ」

 言い捨ててさっさと将軍の部屋を出る。

「態度のでかい奴。ああ堂々とされてると、こっちまで捕虜って気がしなくなる」

 将軍は笑って、自分も食堂へ向かう。

「お前の分はここに運ばせる。ちょっとあいつと、内緒話があってな」

「彼は捕虜なのですか」

「取引材料かな。トゥーラの国王に、奴はさぞ高く売れるだろう」

「サラブの方らしい発言ですね」

 身代金の習慣は何処の国にもある。しかしサラブにはもう一歩進んだ人身売買の習慣があって、人間を金額に換算するのは得意だ。 イルゲンの言葉に将軍はもう一度笑って出ていく。

 

 司令官専用の食堂は船の中とは思えないほど天井の高い立派な部屋。赤いテーブルクロスの上には酒瓶とグラスと料理。

「あっちこっちの会議で顔は会わせたが、一対一で飯を喰うのは十年ぶりくらいか」

 将軍はなんだか楽しそう。ウィルスは不機嫌に手酌でグラスに酒を注ぐ。料理には殆ど手をつけない。

「気に入らないか?好きなものばかり作らせたんだがな」

「気に入らないのは相変わらずの、お前のそのニヤニヤ笑いだよ」

 言われてザカートはさらに笑った。笑った目尻は優しく見えるけど、視線そのものは少しも和んでいない。

「止めれるもんなら止めてみな。お前は今、俺の庇護下だぜ。ここはサラブの領海だし。あんまり偉そうにするなよ。密通した女の寝床からあわくって逃げ出したばかりで」

 軍人は意地悪く絡む。

「で、女は何処に置いてきた?」

「安全なところに」

「何処か、教えろよ」

「帝都に戻ったらな」

 取り付くしまもないウィルスに軍人は一枚の写真を差し出す。嫌そうに見た途端、ウィルスの表情が固まる。

 濡れ場の写真だ。背けた顔と繋がった体にピントをあわせて撮られている。

「心当たり、あるか?」

 あるもなにもない。その顔は、この公爵のもの。

「さぁな」

「帝都に集まってる各国の代表団全部に送り付けられてるぞ、それ。たらしで知られたお前にも、さすがに大した醜聞だ」

「……なんでお前が笑い止まるんだ?」

 逆に今度はウィルスが笑い出す。

「お前が笑い止まった面を見るのは二度目だな。一度目は昔、俺がお前の姉貴を口説いたとき」

「ありゃ迷惑だったぜ。姉貴は総首の後宮に入るの決まってから」

「美人の姉上、お元気か」

「死んだって話し聞かないから生きてるんじゃないか?後宮に入った女の消息なんぞ聞こえてくるもんか」

「そういうところだったな。サラブは」

「で、これは本物な訳か?」

「……」

 黙り込んだままウィルスは写真を眺める。えげつないそれを。

「どうなんだよ」

「しつこいなお前。関係ねぇだろ」

「まぁ、そうなんだけどな」

 席を立ち、ウィルスの横に立つ軍人。ウィルスは無視してグラスの酒を飲む。飲み込んで喉が動いた瞬間、軍人は屈んだ。キスされかけて、

「ポルノショットぐらいに挑発されんなよ、ガキじゃあるまいし」

 ウィルスは容赦なくあごを突き上げる。

「本物かどうか、お前が言わないからだろ」「通じる理屈かそんなの」

「暴れるな。見てやるって」

 将軍が手を伸ばす。

「冗談、手ぇ離しやがれ、馬鹿野郎ッ」

 羽交い締めにされる寸前で逃れて、ウィルスは柳眉をさかだてる。右肩は、それでも捕えられた。

「口は達者だな。でも顔色悪いぜ。メシも食わないし」

「離せって言ってるだろ、触んなッ」

「っと、そんな暴れるなよ。別に抱いてやるって言ってんじゃない。確かめたいだけだ」

 もみ合う二人。サラブの将軍は傭兵とは格が違った。ウィルスを強引に床に押しつける。上等の絨毯の感触が頬にあたる。

「殺すぞッ」

「分かった分かった。じゃあ見ないから、触るだけな」

 脅し文句に耳も貸さず将軍は手を、はだけたズボンの内側へつっ込む。

「っ、……ッ」

 途端に罵詈雑言は止んだ。

「あーあ」

 将軍は肺を空っぽにするようなため息。

「ひでぇ」

 ウィルスは弱みを暴かれてぴくりとも動けない。

「お得意の蹴りがでない筈だぜ。なんて下手糞なんだ。お前生意気だから痛めつけたい気持ちはわからんじゃないが、それでも下手過ぎる」

 押さえつけたまま一度は手を引いて、懐から取り出されたのは小さな瓶。

「俺なら一晩中鳴かせても身体には傷ひとつつけないでおいてみせるのに」

「……触るな」

「泣きそうな声出すなって。俺は女だけだぜ知ってるだろ」

 瓶からコルクが抜き取られ、優しい香りが室内に広がる。薬のようだ。

「そうじゃなくっても怪我人に突っ込むほど無茶な真似しやしねぇよ。愉しくないし。手当しといてやるから今夜は鎮痛剤飲んで早く寝ろ」

 ウィルスは観念したらしい。大人しく俯いて手当に耐える。そうしていると乱れた前髪が額にかかって、少年時代の艶やかさが蘇る。ふと心引かれて、将軍はその前髪に偶然のふりで唇を当てた。

「明後日の昼には帝都に着く。トゥーラ国王には連絡しといた。……なぁ」

 その場所から手を引いて、問いかけ。

「お前も確か、女専門だったよな。初めてだった?」

「お前の知ったことじゃない」

「その筈なんだが、胸が痛い」

 サラブの将軍は正直な台詞。

「同情ならいらんぞ」

「するかよ、俺が。どっちかってぇと笑える筈だぜ。お前の傷は相対的に俺の得になる」

 対立する陣営に属した者同士、相手の失策は己の利になるのに。

「なのに不思議と喜ぶ気になれない。胸が痛いんだよ。なんでだと思う?」

 間近で見下ろす美貌に問いかける。

 昔馴染みのこの学友は十三、四歳のガキの頃から極上の見た目だった。蜂蜜色の明るい髪の毛と同じ色の瞳は女たちの視線を釘づけにしたし、それは女に限ってはいなかった。自分でもそれを知っていて、何かと騒ぎを起こすことも多く、当時どちらかというと禁欲的な少年だった将軍は苦々しく思っていた。

 人騒がせなところは昔と少しも変わらない。眺めているうちにだんだん心が、さざなみだってくる。

「古いダチだからかな」

「よく言う。俺を嫌いだったくせに」

「そんな顔して昔、俺より強かったから」

 喧嘩して負けた最初の相手。兄が母国では有名な武闘家だとあとで聞いた。

「ほら、立て。寝室に連れていってやる」

「自分が転がしたくせに……」

 言いながらウィルスは上体を起こした。差し出された手を胡散くさげに睨む。

「なんだこれ」

「立つの手伝おうと思って」

「お前が親切だとなんか気持ち悪ィ」

「だろうな」

 ザカートは頷く。心境の変化は彼自身にも不思議なほどだった。

「俺だって気持ち悪いくらいさ。なんかお前が美人に見える」

「悪い冗談……」

「いや本当に。仲いい女友達に乱暴された気がして無茶苦茶に腹が立ってんだ、今」

「お前と仲良しだった記憶は一度もねぇ」

「あの頃に俺が食ってりゃよかった」

「お前幾つだよ。確か俺より年上だっただろ。思春期のガキじゃあるまいし、写真一枚にそんな揺らされんな」

「まったくだ」

 しかし心が揺れてしまった事実は今更、どうしようもない。

「怪我なおったら一回口説かせろよ。別口がかかる前に。あの写真があちこち廻ったとすると競争率高くなりそうだ」

「一度や二度、やられたからって女扱いされちゃたまらんぜ」

 男の手を撥ね除けてウィルスは立ち上がる「そう言うな。俺は優しいぞ。女には」

「俺は厳しいぜ男には」

「一緒に寝ないか?」

「だからお前はさっきからなに言ってんだ」

「なんにもしないって」

 将軍は両手を上げる。その指に挟まれているのは例の写真。

「隣で寝たら返してやるぜ」

「要るかよそんなもん。せいぜい寂しい夜の相手してもらいな」

「どうせなら御本尊にそう願いたいね」

 将軍の目尻に笑い皺が戻った。持っていた写真を不意に、びりびりに破く。

「……」

 ウィルスは眉を寄せたまま何も言わない。

「なに不思議そうな顔してんだ。こんなモノ、破り捨てて当然だろ。お前はこんなので脅されるほど可愛い奴じゃないし」

「当たり前だ」

「なんの役にもたたないくせに俺の気分を悪くする。最悪だ」

 ウィルスは答えない。ゆっくり、だんだん、男の本気を理解しつつある顔をしていた。

「寝室は俺のを使え。鍵がかかるのあそこだけだから。俺は隣の部屋に居る。何かあったら、呼べ」

 

 翌日、昼前の帝都。

 すりばち状の大教室。科目は地政学。教授が黒板に大陸の略図を描く間、学生たちは小声で私語をかわす。

「皇女が男と逃げたって」

「そりゃ逃げるさ。彼女、六十歳近いじじいと結婚させられそうだったんだろ?」

「一昨日から皇居が騒がしいのはそれかよ。外交官ナンバーの車が走り回ってるし」

「間男はトゥーラの宰相だって」

「またかよ。オリブスのお妃も、確かそいつのお手つきだったよな」

「なんか皇女の寝床から、二人とも裸同然で逃げだしたらしいぜ」

「よく逃げれたな。皇居の奥宮から」

「たらし公爵、軟派なわりに腕っ節は強い」

「どうする?二人を追いかけて帝都の警備網は薄れた。逃げ出すなら、今のうちかも」

 彼らの囁きを、

「静かに」

 教授の声が制す。

「静かに。動揺しないように。君たちは帝国中央大学の学生だ。在学中は政治活動と無関係で、学業にのみ専念することを誓っている。忘れたのかね?」

 忘れる筈はない。けれど守られない宣誓は世間に数多い。皇帝の死去いらい、学生は三割ほど減った。動乱の帝都を脱出した者もいる。それ以上に多いのは他国からの留学生が進駐中の母国の陣中に参戦したたぐい。

「連中は恩知らずだ。帝都のまなびやで習ったことを、帝都を傾けることに使おうとしている。……ともあれ、授業を始める。第三次世界対戦は様々な負の遺産をその後の人類に遺した。何が思い浮かぶ?前列の君」

「軍事破壊人工衛星です」

「そう。それによって現在も科学の進歩は大変妨げられている。人工衛星の脅威点は?左から順に」

「動力が原子炉で、半永久的なこと」

「軌跡が微妙で、撃ち落としたら地球上に墜落して、しかも特殊チタン製なので大気圏での燃焼率が少なく、墜落後地上に甚大な影響を及ぼすであこうこと」

「一定高度以上の人工物を破壊してしまうこと。ビルも監視塔も、地上40メートルが限界です」

「同じ理由で現在、飛行機及び飛行船は使用できません」

「一定出力以上のアンテナを破壊してしまう事。電波での通信距離は180キロを限界として、結果、外界を航海することは難しくなりました」

「そうだ」

 教授はそこで大きく頷く。

「第三次大戦以前と以後の最も重要な差異は海の重要性である。戦争においても交易においても。現在、それを最も強く握っているのはサラブ首長国連邦およびトゥーラ帝国。このうちトゥーラ王国は、……ミツバ」

 教授が生徒を指名する。しかし返事はない。指名された生徒は教本の裏側で熟睡。両隣の学友からつつかれて上げた顔はまだ少年。二十歳前後の学友たちの中では子供のようにさえ見える。

「はい」

 度胸は座っているらしい。落ち着いた声。「トゥーラ王国の成立を言ってみたまえ。地政学的な観点から」

「トゥーラですか。トゥーラ、えーと。六十年前の西国境戦争における大殊勲者、ブラタル海峡主にしてナカータ公領主のアクナテン・サトメアンが」

「そうだ」

「超絶の色男でなかったら、世界の歴史は変わっていたでしょう」

 教室のあちこちから、くすくす笑いが漏れる。教授もつられて苦笑した。

「彼はオストラコン王国の女王に惚れられて子供を孕ませる。その子が三領地を纏めて継いで、その時につけられた国名がトゥーラ。古代語で伝説上の、三脚の烏の名前。以上」

 教授は一つ、咳払い。

「間違いではないが」

「分かり易いでしょう?」

「トゥーラ王国関係者の前では出来ない説明だ。しかしその通りで、トゥーラ王国は一国二領地の集合国家として成立した。故に既得権として、国王は皇帝を決めるに当たって投票権を三つ持っている。現在の国王は三代目、十六歳。彼については、あまり芳しい評判は聞かない。ひどい無口で、失語症という噂もある。一国の主人となるべき人物ではないらしく、前国王が廃嫡を考えていたと言う風説もあながち根拠のないものではない」

 再び居眠りしかけていたミツバが不意に顔を上げ、何か言いたげな表情。結局口は開かなかったけれど。

「しかし二年前、従兄弟でありトゥーラ王国家臣筆頭でもあるウィルス・サージ公爵の後援を得て即位した。実務を執っているのはサージ公爵。実質的にトゥーラ王国を統治しているのは彼だと言っていい。この公爵は君たちの先輩でもある。……私も教えた」

 ここで教師は、少し得意気な表情。

「十四歳で卒業試験に合格した、大した秀才だった。同じ時期にサラブの第一艦隊指揮官も留学中で、あの頃の学園は華やかだった。公爵は卒業後母国へ帰り内政に専念していたらしくあまり名前を聞かなかった。その間、特筆すべき成果をあげている。それは?」

 指名された生徒は立ち上がり、答える。

「ブラタル海峡の両端に水門を設置したことです」

「そう。二つの大洋を結ぶ海峡は幅2.5キロ、長さ17キロ。その両端に設けられた水門は潮の満干を利用して、今までの十陪近い船が通行できるようになった。設計上、日に二度づつの一方通行だがいたしかたあるまい。これによってもたらされる効果は?」

「貿易中継都市としての一層の繁栄」

「海峡を通過する船からの税収の、飛躍的な増大」

 主に経済面の利点を上げる生徒たち。

「拡張・浚渫しなくてすんだことによる、防衛力低下の回避」

 ただ一人、さっき居眠りで指名されたミツバだけが軍事的理由を口にした。

「そうだ。さすがにあの男は着眼点が鋭い。入り口を広げれば広げるほど防衛力は低下する。それを避けて税収を倍増させた、一石二鳥の手段だ。トゥーラ帝国は、純粋な軍事力ではサラブ首長国連邦の七割ほど。しかしながら、東海の虎と呼ばれたかつてのブラタル海峡主アクナテン・サトメアン以来、あそこには東方諸国からの絶大な支持がある。パルス諸国連合やオリブス半島を含めて東方同盟として見た場合、総合力はサラブ首長国連邦に匹敵するかそれ以上」

 教師は黒板にまとめとして各国の経済力・軍事力・統率力・君主の能力などを一覧表にしてみせる。十評価で、トゥーラの君主欄は1。ただし括弧して9とあるのは

「背後で操っているサージ公爵への評価だ」 そう言う講師にミツバは目を細める。それは殆ど、物騒な激しさで。

 そこへ唐突に、学内に鳴り響く警戒警報。

「何事だ?」

 騒然となる学内。ミツバは素早く窓から外を見た。正門に次々にとめられる高級車。数は十台近い。なかでも一番目立つのは黒の装甲車。国家的VIP送迎用に使われる代物。降り立ったのは黒服の男たち。堂々たる体躯にサングラス。白の手袋が眩しい。

「何者だ、あれは」

「どこかの国の軍人か?トゥーラの宰相がここに隠れているとでも思って?」

「いや、あれはトゥーラの近衛兵ですよ」

 ミツバはそう言いながら窓を開ける。危ないと止める学友を後目に手を振ると、気づいた黒服が敬礼を返す。

「お気遣いなく」

 ミツバはスリ鉢状の大教室を下りていく。途中、講師席黒板の横を通るとき、ふと立ち止まった。チョークを手にして表を訂正。トゥーラの君主能力欄、1の横にゼロを書き足した。

 庭に出てきた少年に近衛は深い礼をする。装甲車の後部座席に、うやうやしくドアを開けられて乗り込むミツバを眺めながら、

「……トゥーラ国王?」

「まさか。あいつもう二年も寮生活してたぜ」「歳も十五だし」

「一歳くらいは誤魔化せるさ」

 学内は騒ぎ続けた。

 

 トゥーラ王国の大使館は旧一王国二領地を統合した大きなもの。新国王が即位した二年前、郊外に移転してさらに敷地を買い足して、大使館と言うより砦に近くなっている。新しい皇帝を選ぶ為に国王が上洛している現在、警護の為の私服・制服の近衛に駐屯兵まで目に付いて、本陣と呼ぶに相応しい雰囲気。

 そこをミツバはずかずか進んでいく。着崩した黒いシャツの胸元を開けて、歩く姿は街角でよく見かける今時の少年。しかし周囲の反応は違っている。

「若」

「若君、お久しぶりです」

「大きくなられましたな、若」

「若君、お戻りですか」

 奥に進むたびに声を掛けてくる文官・軍人が増えて、近衛たちの殆どは顔見知りらしい。中には、

「思ったより背ぇ伸びてませんね」

 正直に本当のことを言ってミツバに顔をしかめさせる者も居た。最奥の滅多に使われない貴賓室へずかずかとミツバは踏み込み、そして。

「あんたもっと表に出ろ」

 そこに居た国王に、挨拶もなしで言ったのはそんな台詞。

「その面さらして歩きさえすりゃ、あんたを馬鹿とかふ抜けとかほざく連中は口を閉じるのに」

 ミツバは本当に悔しそうだ。

 国王は肩を竦めるだけ。無口というのは本当らしい。しかしその目もとは涼しく口元はきりりと引き締まり、とても知能に問題があるとは思えない。むしろ落ち着きがあって、頭も良いように見える。

「悪かった」

 国王はいきなり謝った。

「なにが。学校のことなら気にするなよ。どうせじき卒業だったし。それに今の大学は、昔と違ってイマイチだし」

 何かと斜陽の帝都だがまだ幾つかの長所は存在する。教育機関の充実もその一つで、帝都大学には各国の名士子弟も留学する。

「兄貴の頃と違ってさ」

 ミツバが言うと国王は頷く。

 ミツバはウィルスの弟ではない。若死した兄の息子だから本当は甥っ子。ただし父親の死後はウィルスの養子になった。でも歳は九つしか離れていなくて、子供の頃から彼のことを『兄貴』と呼んでいた。国王も幼少時には公爵家で過ごしていることが多く、二人ともウィルスが親代わりだった。

 二人は兄弟のようにして、ウィルスの膝の上で寝たり転んだり執務室の机に食べ物をこぼしたり、悪戯をして殴られたり足蹴にされたり背中によじのぼったりして、一緒に大きくなったのだ。

 そんなミツバに、国王は用意されていた茶器で茶を煎れてやる。

「うまい」

 一口飲むなり、ミツバはうなる。トゥーラ王国近辺で飲まれる未発酵の緑茶。濃く煎れられたそれは鮮やかな色で、苦いけど微妙に甘くもある。

「うまいよ。寮生活はそんな不自由でもないけど、茶の不味いのだけは閉口だった」

「実は困ってる」

 空の茶碗に二杯目をついでやりながら国王は言う。

「そりゃ困ってるだろうさ」

 茶碗を差し出しながらミツバは笑う。

「右腕に女連れで駆け落ちされりゃ普通困るって。その女が渦中の帝国皇女なら尚更。しっかしなんだね、兄貴にしちゃドジったもんだぜ」

 茶碗を抱えてどっかりとソファーに身を寄せる。皮を嫌う国王の為に、水鳥の羽根を詰め込んだ布張りソファー。極上のクッションに身体が沈み込みそう。

「今まで浮き名は流してもドジ踏んだことないのが自慢だったのにさ。これからはそう威張れなくなるよな俺たちに。……で、どうすんだ?」

 すず、と音立てて茶をすする。今度は一気飲みでなく味わって飲んだ。

「あんた兄貴を帝国の婿養子に差し出すつもりはないんだろ?」

「当たり前だ」

「だよなぁ。ありゃうちの看板だ。余所に譲れやしない。皇女も悪い男に惚れたよ。あの人が禁婚者だってこと知っていたのかね」

 禁婚者とは国王命令によって婚姻が禁止されている者を言う。主に国王と血の近い王族で、子女の出生が王位継承権に関わると判断された場合に指定される。

「仮に皇女が帝位も帝国も棄てて兄貴に嫁いだとするよ。今度は皇女を女帝にするつもりのサラブも、義叔父と結婚させちまう気の帝国の廷臣らも黙っちゃいない。下手すりゃ戦争に……、え」

 頭をゆっくり、左右に振る国王。

「違う?何がさ」

 国王は秘書に目配せ。秘書は心得た様子で部屋を出ていく。やがて戻ってきたときは、一人ではなかった。

 連れてこられたのは二十代半ばくらいの女。美人だが、顔立ち以上に人目をひくのは育ちの良さそうな物腰。ゆっくりと首を傾げて、

「初めまして。サージ公爵の、弟さん?」

 優しい声。語りかけるというよりお言葉を与える、という感じの。ミツバは表情を引き締めた。目の前の女性が何者なのか察して。 トゥーラ国王同席のこの場で、こんな態度をとる女は帝国の皇女以外にはない。

「いえ、養子です」

「そう。彼には本当に感謝しているわ。私たちを身を呈して逃がしてくれて」

「え?」

「義父上のご無事を祈っています」

「え?」

 訳がわからずミツバは混乱する。この皇女はウィルスと駆け落ちしたのではなかったか。私たちというのは一体、誰と誰のことか。

 でもここには自分と皇女と、あと一人だけしかいない。年若いトゥーラ国王。

 国王は目を伏せている。側近が皇女を部屋から連れ出す。パタンとドアが閉まって二人きりになった途端、国王はきれた。

 机の上の空茶碗を床に、力いっぱい投げつけた。分厚い絨毯に受けとめられて割れはしなかったけれど。

「……おい」

 ごくり、ミツバは唾を飲む。口の中はからからに乾いている。

「何があったんだよ。いったいどういう事だ」 無意識にソファーから腰を浮かす。

「皇帝が死んで各国が帝都に進駐してきて十日。迎えが来ないってことはこのまんま身元を隠して留学してていいんだと、俺は思ってた。なのに急に呼び戻した理由は?」

「市街戦になるかもしれないからだ」

「兄貴はどうなったんだよ」

「サラブの艦に保護されて、今は帝都に向かっている」

「なんだ……」

 ほっとしてもう一度ソファーに沈み込む。「驚かせんなよ。一瞬マジ心配した」

 ミツバは九歳で実父をなくしている。この上、十五で養父にまで死なれたくはない。

「あんたがそんな深刻そうな顔してるから、何があったのかと思った」

「俺のせいだ」

 国王が苦く呟く。

「兄貴怪我でもしたのか。ひどいのか。命に別状はないんだろ?」

「女なんか置いて逃げればよかった」

「……おい?」

 もう一度、ミツバの表情が深刻になる。

「何が、あった?」

 静かに問いかける。国王は辛そうに目を閉じ、やがて静かな声で話し出す。

「傷をつけてしまった」