当然。マスクの下から出てきたのはひどく若い顔だった。まだ少年の気配さえ残した、その顔は。

「アケト……」

 思わず漏らしたウィルスの言葉に、

「それって、あれか?トゥーラの国王だよな。おまえのお人形って話だが」

 そんな顔ではない。そんな目はしていない。見上げる位置から堂々とウィルスを射貫いた。ザカートのことは視界に入ってもいない。

「馬鹿が……」

 ウィルスは呟いた。でも小さな声だ。下までは聞こえない。他国の君主に対してザカートが何かを居える筈もなくて、ふたりはただ、ホールの国王を見守る。

 国王は国王らしく無言のまま、追いつめた群れに分け居る。群れは逃げようとするが国王の狙いは定まっていた。一人の男を捕える。怯えたような表情のその男は。

「……ツーショットのお相手だな」

 ザカートの言葉をウィルスは無視した。

 国王は男の襟首を掴んで引きずり、歩き出す。片手には抜き身の刀を掴んだまま。血塗れた青白い刀身。

 男を引き摺りながら国王は階段をあがってくる。誰にも声はかけない。そして、彼に声をかけられる者もない。

 出来るたった一人の人間は強ばったまま、呆然と国王を眺めていた。

 壁にそって螺旋状の階段を国王は上る。時々、桟敷にするための平面な空間があるせいで時間がかかる。高さは四階分ほどの吹き抜けを、姿を消したり見せたりしながら。ホールにはただ、泣きわめく男の声だけが響いた。

「助けてくれ、助け……」

 狼に運ばれる獲物のような気持ちなのだろう。男は半分ほどの歳の国王に恥も外聞もなく哀願した。

 国王はもちろん答えない。ウィルスの居る最上部まで男を引き摺ってくる。そしてウィルスの目前で男の腕をねじあげ膝に敷く。

「どうする?」

 ウィルスを見上げて尋ねた。

「殺すか、犯すか、皮を剥いで晒すか。好きなようにしてやるよ」

「止めてく……」

 男が言いかける。国王は男の後ろ髪を掴み情け容赦なく床に叩き付けた。二三度すると歯が折れたのが気力が萎えたのか男の口から漏れるのは呻きごえになる。

「きりおとして奴隷にするのもいい。うちに宦官の習慣はないけど、一人くらい居てもいいだろう。便所で汚物を食わせて飼うのもいい。手足切り落として酒甕に漬けようか。あなたの好きに始末してやるよ」

 男は縋る相手を変えようと思ったらしい。床に這いながらウィルスに手を伸ばす。

「公、お助け…、」

 男が話しかけた瞬間、国王の顔色が変わった。さっと凶悪に。

 持っていた刀で伸ばされた手を床に縫いつける。男が悲鳴をあげる。その声さえ耳障りだ、という風に口元を蹴り上げる。そのまま無茶苦茶に蹴った。腹といわず顔といわず手当たり、いや足当たり次第に。

 血が飛び散る。骨の折れる鈍い音がする。息をきらしながら国王が蹴りつけるのを止めた時、男は殆ど虫の息。

「どうするか、決まった?」

 息を整えながら国王がもう一度尋ねる。ウィルスは黙ったまま身じろぎもしない。瞳は国王と、血塗れでのたうちまわる男眺めている。

「あなたが決めないなら僕の好きにするけど、いい?」

 ようやくウィルスは反応した。頷いた。国王は薄く笑って男をウィルスの足下に投げ出す。ゴミか何かみたいに。

 ウィルスは動かない。

 男は意識がもうろうとしていた。それでも身体が自由になったのを察して起き上がった瞬間、

「……ッ」

 血が吹き上げるのを、ウィルスはひどく嫌そうに見た。

 血柱の向こうには国王。見事と言うしかない一撃で、男の首を落とした。

 国王は首を拾い上げ、少し持ち上げてみる。いる?と聞いているように見えた。

 ウィルスは首を横に振る。そんなのは要らない。触りたくもない。国王は首を捨てた。ぽいっという感じでひどく、無造作に。まるで屑をダストシュートに放り込むみたいに。 首が落ちて壊れる音がするまで、えらく時間がかかったような気がした。やがてぐしゃっと、砕ける音がする。凄惨な場面に慣れているとはいえ、ホールに居た軍人たちは気の毒だった。策謀家ばかりの宮廷官僚の中には、目をまわしてしまった者もいたらしい。

 ウィルスは見なかった。音だけが聞こえた。 ホールを覗くどころではなかった。彼は視線も動かせなかった。国王に抱きすくめられて。血まみれの手が彼の背中や肩、腰なんかを撫でる。

「……、ア」

 文句を言おうにも胸が圧迫されて、息継ぎさえろくに出来ない。

「アケト」

 それでもようやく名前を呼ぶと、

「なに」

 ずらした唇の隙間から反問。

「よせ……」

「今のが婿引出物だよ」

 人前で抱きしめらるのを嫌がって俯くウィルス。仕方なく髪にくちづけながら国王は、優しい声で言った。もっとも聞いているウィルスにとっては優しいどころか、ひどく恐い声だ。

「嬉しいだろう?」

 ウィルスはつい笑ってしまった。そしてゆっくり顔を上げる。国王が落ち着いたようだったので。

「後始末、大変だな。刑事事件で裁くべき男を私刑したんだ。事故じゃないことは、そこの男が見てるし」

 頬に触れられながら、横目でザカートを見る。

「殺す?」

「馬鹿言うな」

「邪魔な奴が居たら何でも言いいなよ。始末してやるから」

「……あぁ」

 早口で答えてウィルスは横向く。それまで頬に触れていただけの国王の手にいきなり力がこもり、顎を掴んで強引に視線をあわさせた。

「こっち見てごらん」

 強情な恋人に言い聞かせるような口調。ウィルスは口を開かない。その唇に、国王はくちづけた。

「愛してる」

 そうだということを二人しか知らないけど、それは初めてのキス。終わったあとで囁かれたのはそんなありきたりの言葉。でも血塗れの姿が告白の言葉を完全に補完している。

 二人が何をしているか下からは見えない。立ち会い人、みたいな立場になってしまったザカートは目を見開いて二人を見ている。

「なんか、言って」

「何を言わせたい。礼の言葉でも言えば満足か。名誉守ってもらった女みたいに」

「あんたは僕の妻だ。昔からそう決まってた。あんたは結婚が憂鬱で、悪あがきしてただけ」 答えながら国王は距離を詰める。ウィルスが下がる間も与えずに背中をかき抱く。しかも背中で交差させた腕は、露骨に尻の肉を掴んでいる。

「ば……、よせ」

「抱きたい。抱かせて」

 国王の声が本気に掠れる。

「すごい気持ち良い。無茶苦茶いい感触」

 舌舐めずりしたいほど。耐え切れなくて耳たぶを嘗める。嫌がってウィルスは身体をよじる。締まった腰骨が国王の下腹に当たる。ズキン、ときた。

 抱きついたことは何度もあった。でもそれは子供の頃だった。成人した雄として、突き刺す相手として抱きしめたのは初めて。そんなに華奢ではない。むしろしなやかでしたたか。濡れた毛並みの肉食獣を抱いているようだ。甘い肉、と言った皇女の台詞がやっと理解できた。

 噛みつきたくなる、身体。

「よせ……、アケト」

 ウィルスが本気で嫌がって暴れた。

「人が居る」

「床入りには立ち会い人が付き物だ」

「嫌だよ俺は」

「我ままだな」

 何処が、と叫びたかった。でもそんなことしたら逆効果になりそうで黙った。

「今度だけだよ。これが最後だ。あなたの嘘につきあってあげるのは」

 嘘ってなんだよと言いかけて、視線があう。「あなたは僕を好きなのさ。ずっとね」

 抗議する気力はなかった。

「……お前は俺をよく分かってるよ」

 それは愛情に違いないのだけど、ウィルスをどうしても苦しめる。居心地が悪くて呼吸がしにくい。知られたくない本音を、無造作に剥かれてく気がして。

 

 皇女の載冠は大々的に行なわれた。

 窮乏著しい帝国に代わってその費用を購ったのは選帝権を持つ国々。無論、投票権を三つ持ち富強なトゥーラは相応の金額を出した。諸侯の金銭で女帝となる代償に彼女は各国を国家として認めなければならない。そして帝国は旧大帝国領地に属する諸侯同盟の、一種の外枠となる。

 載冠式とそれに続く式典の間、ウィルスは表に出なかった。国王をトゥーラ代表、ミツバをその補佐として外交舞台に立たせる。二人とも立派という以上に役目を果たし終えた。 式典が終了したのは夕刻。夜の祝賀会まで二時間の余裕がある。ご婦人たちにドレスを着替えさせる為だ。所在のない男たちは回廊のあちこちで煙草を吸いながら立ち話。話題はどうしても今回の黒幕、裏で全てを操っているとおぼしい彼に集中する。

「皇女とはかつて関係があったとか。やはりその縁で、皇女がトゥーラに泣きつかれたのでしょうか」

「でもそれは昔の話だろ。帰国してからは婚約寸前までいった女が居たし」

「その女、今ではオリブス半島妃だ。二人ともそれぞれ美しいが、どっちが彼の本命か」

「本命?オリブスの方はもう結婚しているではないか」

「既婚ごときで遠慮する方とも思えませんが」「……ところで、あれは本当ですか」

 きつい目をした三十過ぎの男が煙を吐き出すついでのように、発言。

「やつがここで暴行を受けたという話は?」

 しん、とする一同。

 写真は殆どが回収された。加害者は首を斬られた。けれど人の口に戸は立てられない。「それでトゥーラの国王が激怒したという話もあります。女帝がトゥーラ国王にびくついているのを貴殿らも目になさったでしょう」「それは、言うてはならぬ事ではありませんかな」

「然様。公は正面きって喧嘩を売ってくる馬鹿者には比較的寛容だが」

「足下を狙って落とし穴を掘る輩には容赦ない。泥穴に、逆に顔から突き落とされますぞ」 助言、或いは巻き込まれることを嫌った牽制を煙草の男は聞き流す。そこへ噂のタラシ公爵、ウィルス・サージ本人がやって来たからたまらない。

「これは、サージ公」

「今回は誠におめでとうございます」

 礼服の群れにわっと取り囲まれて、

「俺が祝福される所以はない」

 ウィルスは答えた。

「失礼、急いでいるので」

 回廊の向こうには国王クラスの控室がある。ウィルスはそこへ行こうとしているのだ。われてゆく礼服の群れ。しかし、その正面。

「サージ公」

 進路を阻むように立っているのは煙草の男。ウィルスは嫌な顔をした。その視線は男の煙草に向いている。切れ長の目尻が印象的な美貌には嫌煙権、と書いてある。

「あぁ、失礼」

 男は煙草を手にとって消した。吸い滓を中庭に投げ捨てる。それでますますウィルスは嫌な顔になる。これまでそんな真似した事のない男だ。

 パルス諸国連合の一員で、国許では外務と貿易双方の実権を持つ切れもの。ウィルスに妙な敵対心を持っていて、会議や交渉で顔をみるたびに白煙を吹き上げていた。

「なんの用だ」

 そんな男にウィルスが好意を持つ筈もない。もともと女に優しい分、男には無愛想窮まりない性質。例外はトゥーラ国王と甥のミツバだけ。

「一言ご挨拶を」

「嫌みを聞いてる暇はない。どけ」

「お見事な手腕でした。早々の治安回復、有り難うございます」

 男の口からこぼれた言葉は嫌みでも中傷でもない。ウィルスが受けた暴行をあてこする台詞でもない。

 かえって困惑するウィルス。

「うちみたいな貿易国家は、戦乱が一番迷惑なんですよ」

 男はくだけた口調になる。

「ご存じでしょうがパルスは今、新港竣工の国債償還中でしてね。帝国の混乱が続いてたら利子があがって、あぶないとこでした」

「……そりゃ良かったな」

「パルスを代表して礼を言います。近々うちに保養にどうぞ。接待しますよ」

 パルスは貿易都市であると同時に温泉地としても知られる。特にこの男の領地には海岸近くに知られた名湯があって、贅を尽くした滞在施設が立ち並んでいる。

「そのうちに」

 ウィルスは答え、男は会釈し、通路をあける。擦れ違い様、男の手がウィルスの背中に触れたのを気づいた者もあった。

「……クルーガ」

 同じパルスの、男より年嵩の代表が男の肩を叩く。

「お主の気持ちはよく分かる。お前はパルスきっての利け者だ。パルスがトゥーラの庇護を受けているせいで、自分より若いサージ公に頭を下げなければならないのはさぞ口惜しかろう」

「今まで意識したことありませんでしたが」「しかしよく言った。よく公と和解したな。帝国への影響力を強めたトゥーラ王国はますます強大になる。対抗することは不可能だ。それより協力者として寄り添っていれば、お主の才幹をいかせる日も来よう」

「いい身体していますよ」

 男は歳よりの言葉など聞いてはいない。掌の感触を愛おしむようにそっと握り込む。

「顔がちょっとヤワ過ぎるけど中身が過激なのはよく知ってるし。その上に身体がアレなら、もう文句はない」

「ク、クールガ」

「絶品です。和解します。全面降伏だ」

 ため息のような声で呟きながら懐から煙草を取り出してくわえる。

「お、お主……」

 男は利け者であると同時に男色家としても有名。もっともこの御時勢、珍しくもなければ社会的評価に支障がある訳でもない。縁談に差し障りがないこともないが、漁色家という評判よりは遙に受け入れられる。男色家は庶子を増やさないから。

「一緒に風呂に入ってくれたら、なんでも言うこときいてやりますがね」

 堂々と吐かれた暴言に年寄りは絶句した。

 

 トゥーラ国王の控室には当然のようにミツバも居た。ウィルスが祝賀会に出ないと言いに来たとき、

「どうしてさ。俺ずいぶん聞かれたぜ、サージ公はどうしているのかって。居るから夜には出てくるって答えちまったよ」

 即座に反問したのはミツバ。国王は黙っている。

「用があるんだ」

「用ってどんな?単に雌虎のはちあわせに、同席したくないだけじゃねぇの?」

「他の連中が祝賀会で動けない間に、サラブの連中と話つけておきたい」

「……なるほど」

 ようやくミツバは納得した表情。

「だってさ、どうする?」

 国王を振り向く。仕方ないな、という顔で国王は頷いた。

「オーライ、好きにしろよ。有能な補佐が二人も居てよかったな兄貴。お城の中での代役は、キッチリ果たしといてやる」

「口に気をつけろ、ミツバ。そうじゃなくって俺たち二人が、陛下の補佐だ」

 言われてミツバははっとした。

「……ごめん」

 国王にぺこりと頭を下げる。

「ごめん。なんか実感なくってさ。アケトが即位してすぐ、俺留学に出たから。でも軽率だった。ごめんな」

「構わん。お前とは兄弟だ」

 国王にそう言われ、ミツバは素直に嬉しそうに笑う。

「だよな。俺たち一緒に育ったもんな。でもこれから人前じゃ気をつける。国に帰ればうるさいこと言う連中も多いし」

「戻ってくるな?」

 国王の問いはウィルスに向けられていた。

「当たり前だ」

 ウィルスは答えて、部屋を出ていく。

「ちょい待った。兄貴、姐御から伝言」

 振り向いたウィルスの嫌そうな顔とは裏腹に、ミツバはにこにこ笑み。

 ミツバが姐御と呼ぶのはオリブス半島妃のこと。ウィルスと嫁入り以前に交際があってミツバとも親しかった。タイプがミツバの母親と似ていて、それでミツバはひどく懐いていた。

「俺がさぁ、傭兵譲ってもらっただろ?あのお礼言いに言ったら、あんたと話がしたいって」

「……で?お前は俺を売ったのか」

「伺わせますって約束しといたよ。ヨロシク」 ミツバはひどく愛嬌のあるウィンク。

 

 控室を訪れたウィルスは、中へどうぞと侍女に招かれて、

「いや、ここでいい」

 頑固に廊下に立ち尽くす。

「人妻の部屋に立ち入る訳にはいかない」

「お着替え中なのです。廊下へ立ってはこられません」

「ならばなおさら入る訳にはいかない」

「相変わらず頑固ね、ウィル」

 騒ぎをききつけたらしい女が奥の部屋から出てくる。スリップ姿にガウンを羽織っただけで。アーモンド型の瞳とやや肉厚の唇。豊かな胸元。扇情的な印象を燃えるような赤毛が更に煽る。色っぽいが淫乱な感じはしない。まっすぐに見上げる瞳には知性がある。

 大国とはいえ伯爵家にうまれ、ウィルスと関係を持ちながらなお、他国の王家に望まれて嫁いだ女。留学こそしなかったが母国では評判の才媛。とくに語学に優れ、七か国語を自在に操る。ウィルスが彼女に魅かれた理由も情熱的な赤毛ばかりのせいではなく、対等の会話が楽しいからだと言われていた。

 そう。

 女なら誰でもいいような顔をしたウィルスだが、実は頭のいい女に対する嗜好がある。遊び相手ではない、婿入りや婚約の話がでるまで深入りした女はみんなそう。

 廊下には人通りがある。そのまま扉を開け放す訳にはいかなくて、仕方なくウィルスは侍女を押し入れるようにして中へ入った。

「さっさと話せ。俺は忙しい」

「冷たいのね。以前はあんなに優しかったのに」

「別れた女とどうこうするような、ケジメのない真似は嫌いだ」

「皇女、いえ、女帝陛下とは?」

「同じことだ」

「そう、ならいいわ」

 ウィルスは背中を扉にぴたりとつけて距離を保つ。女は奥の間へ戻り、鏡台に座り、ガウン姿のまま侍女に髪を結わせる。ゆったり脚を組むとスリップの裾が割れ、お見事なふくらはぎが見えた。

「あの女に負けたんじゃないならいいのよ」

 女同士の対抗心をウィルスは聞かない素振り。そういうところはひどく上手い。

「国王陛下にお会いしたわ。お言葉を掛けて下さった。誉められたわよ。相変わらず奇麗だって」

「そうか」

「二年ぶりだったけど、いい男に育ったじゃない。私と彼女を捨てて選んだ甲斐があって、よかったわね」

「話ってのは?」

「もう済んだわよ」

 鏡の中で女は唇に口紅。

「焼けぼっくいに火が点いたんじゃないなら、いいの」

「なんだそれは」

「一度終わった相手と盛り上がることをそう言うのよ。あなたが国王を捨てて皇女に婿入りする気なら、わたしにも考えがあるわって言いたかったの」

「意味がよくわからん」

 皇女に対抗心を持つところまでは理解できる。しかしどうして、そこに国王が絡む?しかもこの女は国王を庇うふうを見せた。

「第一俺がどうしようがお前には関係ないだろ。俺を捨てて他国に嫁いだお前には」

「あなたは、陛下のものだもの」

 人を食ってきたような赤で彩られた女の唇。夜会用の化粧は濃くて艶やかだ。

「陛下はあなたをとても大切にしている。だからわたしは彼にあなたを譲ったの」

「俺はモノかよ」

「自分から陛下のものになっておいて、いまさらそれはないでしょう?あなたを禁婚者にした時にわたしは分かったわ。陛下は本気なんだって」

「話がすんだんなら俺は行くぞ」

「ちょっと待って。いま、あたしの可愛い人が来るから」

 女のせりふが終わらないうちに足音。仕方なくウィルスは扉から背中をずらす。

「公がいらっしゃってるって?」

 駆けつけてきたのはオリブス半島主。

「……やぁ」

 飛び込んできた半島主にウィルスは薄くだが笑いかけた。男に無愛想な彼にしては珍しいことだ。しかしある意味では当然。半島主はまだウィルスの、胸ほどの背丈しかない、ほんの子供だった。

 十一歳。トゥーラ王国なら成人前で、結婚は許されない年齢。妃はウィルスと同じ歳だから、実に夫婦の歳の差は十三歳。

 オリブス半島はサラブと地理的に近く、支配地であったこともある。その影響を受けて一夫多妻制と、トゥーラより更に早い結婚の習慣がある。支配階級の男なら十歳前後で最初の妻を迎えるから、正妻との年齢差が十以上なのは珍しくない。

「こんにちわ」

 子供は全開で笑う。飼い主に会った小犬のよう。

「相変わらず子供にもてる男ね、ウィル」

 女は鏡の中から皮肉な目でこちらを見た。

「でもそいつをどんなに慕っても無駄よ、あなた。そいつには昔から本命が居てね、その為ならなにもかも捨ててしまうの」

「じゃあな」

 一度ぱたんと扉が閉じて、もう一度あいた。「金利は上がるぜ」

 残されたのは先程までの会話とは無縁の、そんな一言。

 鏡の中で女は深くため息。

「まだ彼を好きなの?」

 子供は下着姿の妻の背後に立つ。肩に額をそっと当てて、生意気にも慰める仕種。

「いいえ。あたしはあなたの妻よ」

「彼はあなたに未練があるんだよ。じゃなきゃあんなコトを教えてはいかない」

 子供は子供らしくない聡明な表情。

「彼は争乱を未然に防いだ。なのに金利が上がるって言うのは世相が荒れるっていうことだろう?何かを仕掛けるつもりなんだ。ものすごく貴重な情報をばらしていったよ」

「あたしが弟を助けてあげたから、そのお礼でしょうよ」

「泣かないで目が腫れる。勢揃いした女たちの中で、あなたが一番美人なのに」

「本当?」

 鏡の中で女は俯いた顔を上げる。子供の慰めを、そうと知りつつ受け入れる優しい表情。「女帝陛下よりも?」

「あの人も悪くはないよ。でもあなたとじゃ勝負にならない。宴会に美女は必需品だ。あなたは奇麗な顔で笑わなきゃ。……大好きだよ、奥方」

 

 治安が回復し、人口の流出がようやくおさまった帝都。女帝即位を祝う花火が打ち上げられる丘とは反対の、郊外のホテル。

 そこでサラブとトゥーラの、秘密の会談は行なわれた。

 サラブは載冠式には関わらなかった。しかしトゥーラと連帯して女帝擁立に功績があった以上、なんらかの報酬を受ける権利がある。その調整の為の実務官レベルでの打ち合わせ。「んだよ、なにしてんだ。今夜はお城でパーティーじゃないのかよ、お前」

 ザカートの口調は荒れている。ウィルスは気にせず、

「ちょっと付き合え。話がある」

「どーせロクな話じゃないんだろ」

「ろくでもない話ではあるかな」

 嫌そうなザカートをウィルスは強引に引き摺っていく。彼らはホテル最上階、展望パブで向き合う。互いの部下や護衛や側近が固めて、パブは二人の貸し切りとなっていた。

「話ってなんだ、さっさとしろ」

 なのに二人はテーブルで向き合わずカウンターに並ぶ。バーテンは追い出され、二人の前にはグラスと酒瓶。

「ご苦労されてるぞ」

「あぁ、苦労したさ。ったく損な役目だったぜ。サラブの権益を代表して駐屯したはいいものの、次から次に嫌な相手ばっかり出てくるわガキどもにゃコケにされるわ」

「お前の苦労なんか知るか。美人の姉上の話だ」

 ウィルスは唇を殆ど動かさずに喋る。言われてザカートは表情を消した。それは姉の身を思って、ではない。蟻の這い出る隙間もないほど厳重な宗主の後宮の情報を、目の前の男が握っていると知った戦慄だった。

「結婚した女の泣き言につきあってられるかよ」

 とりあえずそんなことを言ってみる。

「姑にいびられてるとかそういうレベルじゃない。宦官の勢力争いの渦中で、命が危ない様子だ。万一の事態の前に逃げろって言ってあるが」

「姉貴に?」

「いや、俺の手先に」

 ウィルスは冷静に告げる。ザカートは黙り込む。

「警告はしたぞ。お前が動かないなら俺が動く。後で文句を言うなよ」

「なんだってお前はそう姉貴を気にするんだ」「仲良くしてもらったことがあるから」

「お前、あの国王の女なんだろ?」

「……そうだが」

 否定するのも嘘をつくようでウィルスはそう答える。床入りはまだだが時間の問題。

「俺は節操がない」

 言われる前に自分で言ってしまう。

「相変わらず、世界中の女は自分のもんだと思ってるのかよ」

「あぁ」

「よくそれで国王黙ってるな」

「女と付き合うのをどうこう言われた覚えは一度もねぇ」

「男は首を切り落とすくせにか」

「複雑怪奇な男心だよ」

 ウィルスは皮肉に笑ってみる。ザカートは笑うどころではない。椅子に座り直してウィルスのすました横顔を眺める。

「苦労ばかりだった今回の唯一の収穫は、トゥーラ国王の素っピンを拝めたことだ。何が傀儡だびんびんにキレやがる。この俺が先越されて、たらし公爵がコロッと参っちまったんだから」

 ころっとまいった事になるのかとウィルスは考え込む。その頬に、掠めるみたいにザカートはくちづけた。

「……おい」

 何をされたのか分かっていない様子のウィルス。

「何だ今の」

「キスだよ知らないか」

「じゃなくって、」

「お前のことを好きだ」

「よせよ……」

 ウィルスは笑ってしまう。

「首、切り落とされるぜ」

「帝都の腰抜け官僚と一緒にすんな。やられやしねぇよ、あんなガキに」

「お前は負ける。あれはトゥーラの国王だ。張り合えんのはサラブの宗主くらいさ」

 ウィルスの言葉にザカートは息を呑む。ウィルスはじっと、ザカートの目を見据える。嘘偽りの通用しない距離で。

「本題はそれか」

「いつでも手伝ってやるぜ?」

 下剋上する気があるのなら。

 ザカートは手元のグラスをあおる。帝国の誇る真赤な蒸留酒は凍るほど冷たくされていたが、炎の熱さで喉を灼く。

 ウィルスはそれ以上なにも言わなかった。悪魔の囁きは一度耳に入れれば棲みつく。何度でも蘇り、魂を揺すぶっていく。

「俺がもし、そうなったら」

 下剋上してサラブの宗主になったら。

「お前を貰う。俺はお前の男より心が狭い。女とも寝せない」

「なってみせてから言いな」

「……おうよ」

 乱暴な仕種でザカートはグラスに酒を注ぎ足す。酒も煙草もやらないウィルスのミネラルウォーターの入ったグラスを取り上げ、中身を飲み干し、その中にまで。

「持て」

 ザカートはグラスを掲げる。ウィルスは仕方ない、という表情でザカートの方に身体を向けた。グラスを持ちあげた腕を、手首でザカートと交差させる。

「へぇ、知ってんだな」

 それはサラブの誓いの仕種。肘をついて手首を交差させ、相手の杯に口をつける。

「昔、お前の姉上に教えてもらった」

「お前って本当は姉貴を好きなのか?あっちこっちにふらついて、まさかとおもうけど本命は、もしかして俺の姉貴かよ」

「女の人はみんな好きだ」

 正直に答え、目を伏せてグラスに口をつける。縁をほんの少し嘗めただけでも、誓いは誓いだ。

 ザカートはウィルスのグラスを飲み干した。

「またな、タラシの大悪党」

 頬をぱしっと弾いてザカートは引き上げる。ウィルスは立ち上がろうとしない。真赤な酒の色が彼に一人の女性を思い出させる。嫁いでしまえば終生会えないからその前に、留学中の弟に会いに来たザカートの姉上。

 彼女はアルビノだった。血を凝らしたように鮮やかな、ルビーの瞳をしていた。真っ白な肌に赤の鮮やかさが忘れられない。細い脚を伝っていった赤も。

『心配しないで、わたしは満足だから』

 女が貴重品みたいに取り引きされるサラブで、生娘がどれだけ珍重されるかくらい知ってた。さすがに顔色を変えたウィルスに彼女はそう言った。

『アルビノの珍しさだけで欲しがる男に最初に触られるのが我慢できなかったの。あなたハンサムで優しかった。わたしは満足よ』

 しかしバレれば彼女の命はない。サラブで花嫁の密通は死罪。

『バレやしないわ。出血しない女はいくらでも居るし。男には、何も分かりはしないもの』 女が血を拭う。服を着るのをウィルスは手伝った。混乱したまま習慣でそうしたのだが、『優しいのね……、』

 それが彼女の心の琴線に触れたらしい。ぽろぽろ、涙がこぼれる。

 結婚が、いや後宮入りが泣くほど嫌なら止めればいいのに、と思った。

『いいのよ、気にしないで。それは出来ないの。わたしが逃げれば一族が困るもの』

 サラブの宗主は絶対君主。トゥーラも王権の強い国だが個人として非行を為せば訴えられ、裁判所で法に基づいて裁かれる。サラブの宗主とは性質が違う。サラブでは、宗主自身が法だ。

『せめて宗主があなたみたいなハンサムなら、骨抜きにしてやる愉しみもあるのにね……』 服を着終わった時、ザカートが殴り込んできた。予想していたから腹に一発くれてやって、でも彼女が居たからそこで止めた。

『……腰抜け』

 彼女に聞こえないように、言った台詞は半分は自分に向けたもの。

 

 ウィルスはカウンターに肘をつく。一口だけしか飲んでいない酒だが滅多に飲まないせいでまわる。頭の芯が、くらくらする。

「……公」

 心配した側近が声を掛けてきたが、

「なんでもない。酔っただけだ」

 近づかせなかった。

 ぐるぐるまわる頭の、なかで記憶が錯綜する。そうだよ腰抜けなのは俺だって同じだった。国に連れて帰って、いや留学中だったからそれは無理だけど先に帰らせて、結婚はともかく生活の面倒くらいはみれた筈だ。兄がかつてミツバの母親をそうしたように。

 そんなことを思いながらなんとなく無駄に時間を過ごしてしまう。

 彼女のことを思い出すのは今の自分と似てる気がするから。男のベットの際まで追いつめられてる。こっちは知った相手だし、おぞけがするほど嫌いでもないし、泣くほど厭かというとそうでもないのだが、選択肢がないという意味では同じこと。

 彼女に会いたい。真っ白な脚の間の血を冷静に拭っていたあの女に、会って尋ねたいことがある。破瓜を俺に放り投げてあんたは本当に満足だったか、と。

 無理に女にされそうで、それが嫌で泣いていた彼女に、あれが少しは救いになったのだろうか。宗主はどんな男だった?もしかしてそいつに少しでも心許したなら、俺とのあのことを後悔しなかっただろうか?

 それともあんな昔のことは忘れてしまっただろうか。それでもいいさ、あれは秘密のこと。本人さえ忘れてしまえば、ほぼなかった事にできる。俺は決して喋らない。あんたの弟以外には。

 でも俺は違う。

 公表されているんだ。俺が暴行を受けたって、みんなが知ってる。証拠に見ろよ、優しいんだ野郎どもが。気持ち悪いよ正直言って。下心がすごくよく分かるから。だって俺だって女に優しいのは、結局そういうことだから。 なぁ、俺とのことを、あんたは後悔しなかったかい?

 俺は今、本当は無茶苦茶に悔いてる。それは暴行、された事にじゃない。あれは天災、不意に訪れる不幸。そうじゃなくって、俺は……。

「……ウィルス様」

 そっと名前を呼ばれて振り向くと、掛け時計は十二時をまわっている。立っているのは国王の秘書官。

「お迎えに上がりました」

 国王の側近がどうして自分を連れに来るのか、おかしいと思わない訳ではなかったが。「お戻り下さい、大使館に」

 そう言われて拒む理由はない。別に戻りたくない訳ではなくて、ただちょっと、ぐずぐずしていただけ。

 迎えの車に乗り込んで、その後。

「失礼ですがご同乗させていただきます」

 そこまで言われてようやく気がつく。何のためにこの秘書官がやって来たか。

「なんだ、俺、逃げるとでも思われてる訳か」 秘書官は否定しなかった。

「逃げやしない。逃げるところもないし」

「それは直接、陛下に仰って下さい」

 防弾シールドされた車の窓からは、少し夜景がゆがんで見える。億劫なのは公邸へ戻ることではない。国王と向き合うことでもない。向き合って、その後。自分の気持ちを剥かれるのが嫌だ。

 いつでもそれが、一番いやなのだ。

 

 二年前、トゥーラ王国を大地震が襲った。

 当時、ウィルスは内務省の次官補佐。公爵家の跡取りに相応しい役職で、執務室は王宮の一角にあった。

 大地が揺れたのは昼前だった。立っていられないほどの揺れが二分も続いた。

 ウィルスは軍関係の施設の多くある北宮の、火薬庫に火が入ることを寸前で止めた。風に煽られた炎が迫る中、近くに居た軍人や官僚たちを指示して噴水を塞ぎ水を火薬庫に流し込んだ。口では矢継ぎ早に指揮しながら自らは上着を脱いで軍人に混ざって綱引いた。

 遊び人だが怠惰ではない、信頼できるという軍からの評価はその時に定着した。もともとサージ公爵家は武官の家柄で、毛色の変わった次男坊ということで知られていたが、彼は軍の誰よりも早く走った。裾長の官僚服を脱ぎ棄てた彼が、実にいい身体をしている事をその時、初めてみなが知った。女が寄ってくるはずだと彼らは感心したという。

 火薬の始末をするなりウィルスが向かったのは国王の執務室。扉を開けると国王は振り向き、驚いた顔をした。そして。

「来たか」

 短い言葉だった。でも嬉しそうなのが聞いていて分かった。

「早く避難を。揺り返しが来る前に前庭に」

 挨拶もなしで言い、国王を先導する。混乱に紛れた刺客を警戒してだだっ広い前庭へ。そこへ近衛がやってきて、国王の身柄の安全は確保された。

「じゃあ、俺は一旦、屋敷に戻る」

 踵を返そうとするウィルスに、

「このままここに居ろ」

 国王が言う。ウィルスは振り向き、国王と向き合った。

「ここに残れ」

 もう一度言われる。でも頭を横に振って歩き出す、背中を国王の言葉が追った。

「気をつけろよ」

 耐え切れず駆け出す。仇と心に決めていた男にどうして気遣われなければならないのか。いや違う、それ以前の話だ。仇と心に決めていた男のもとへ、血相変えて安否を確かめに行ったのは自分自身。

 嫌いなつもりだった。兄を地方に遠ざけていた国王。大嫌いな筈だった。なのに駆けつけてしまった。

 走っていくウィルスの姿を見て、

「若、若様」

 慌てて呼び止めたのは内務省の役人。

「大変です。今、連絡が入りました。公のお屋敷が……」

「どうかしたのか」

「潰れてしまったそうです。ミツバ殿は外出中で無事でしたが、公爵夫妻と、滞在中の皇太子殿下も」

 

「……」

 屋敷へ駆けつけるなりウィルスは立ち尽くした。公爵邸は想像以上の被害を受けていた。三階は比較的無事だが崩壊した二階部分が一階を潰していて、その圧力で一階もヤバかった。一階の、石造りの分厚い壁だけが違和感を覚えるほど堅固に立っていた。

 病臥する妻のために公爵が増築した二階のテラスがいけなかったのだ。

「王太子殿下は三階貴賓室においでだったと思われます」

「公爵ご夫妻は二階に。あのあたりに埋まっておられるかと」

「ウィルス様、火が迫っています。いかがいたしましょう」

「兄貴、どうする」

 地震と同時に発生した火事の、炎はすぐそこに迫っていた。

「放水しろ」

 決断を、どうしても、ウィルスがしなければならなかった。

「父上母上よりも、アケトが生きてる確率の方が高い」

 それは確かにそうだった。けれど、公爵夫妻が生きている可能性もゼロではなかった。「兄貴……」

 ミツバが悲鳴に似た声をあげて、でもその判断を非難はしなかった。

 放水車が凄まじい量の水を撒く。水は三階を湿らせ潰れた一・二階部分に溜まっていく。火勢は強くて、なかなか水は止められない。堅固な石壁の内側にどんどん、たまっていく。 火が納まってから救出活動は行なわれた。ウィルスもミツバも軍人や救急隊員に混じって瓦礫を押し退けた。比較的しっかりしていた三階の、柱の陰から王太子はびしょ濡れで救出された。即座に病院で検査を受けたが、擦り傷と打撲だけで、すぐ王宮に戻った。

 二時間後、公爵夫妻の遺体が発見される。圧死ではなくて溺死だった。

 遺体の口から水が溢れた途端、ウィルスはとすんと地面にへたり込む。

「俺が殺したのか」

「違うよ」

 はっきりと否定したのは、横に居たミツバ。「違う。水を撒かなきゃ火事で焼け死んでた。火が来る前に救けるのは、どうしたって無理だったんだから」

 ミツバの言葉を、ウィルスは虚ろな表情で聞いていた。そこへやって来たのは、国王。

「駄目だったか……」

 姉と公爵の遺体を見る。さすがにその目は沈痛だったが、それも一瞬のこと。

「可哀想に。しかし天災では致し方あるまい。とりあえず遺体は王宮に安置する。脚を持て」 言われてふらふら、ウィルスは父親の足元へ。しかし国王が先に手をつけたのは公爵夫人。自分の姉。

 二人は並べられていたから、ウィルスはそのまま横にずれた。公爵夫人の遺体は国王とウィルスによって国王の車の助手席へ。顔には国王が自分の上着を掛けてやった。公爵のそれは部下たちに、護衛車両へ運ばれる。

 立ち尽くし、見送ろうとしたウィルスに、後部座席に乗った国王は無言のままドアを開けさせる。

「……」

 こちらも無言で、ウィルスは頭を横に振った。

「乗れ。お前もついて来い」

「後始末があるから」

 ありますから結構です、なんて敬語を使う余裕はない。

「いいから乗るんだ。こちらもお前に用がある」

 国王は、なんと自分が下りてきた。ウィルスの腕をつかんで車へ引き摺りこむ。普段なら大人しく引き摺られるウィルスではなかったけれど。

 ショック状態だった。抵抗力は、ないに等しかった。

「……兄貴」

 ウィルスに置き去りにされそうで、心細さにミツバにそっと、声をかけられなかったら。 あのまま流されてしまったかもしれない。

 

 公邸に到着するなり秘書官はさっと離れる。いかにも自分の義務は警護であって、ウィルスの自由を侵害するつもりはないのだとでも言いたげに。帰還の挨拶をするつもりでウィルスは国王の居室へ。挨拶だけで、すむとは思わなかったけれど。

 しかし国王は居なかった。執務室は居間に続き、居間の置くには寝室がある。しかしそこまで自分から出向くのも妙な気がして、ウィルスは自分の部屋へ戻った。

 私室のドアを閉めた途端、酔いがふたたびぶりかえして足元がふらつく。深い息を吐いてネクタイを外した。寮生活以来の癖で、身の回りのことは侍女にはさせず自分でしている。シャワーを浴びるのも面倒でシャツを、脱ぎかけながら寝室へ入った時。

「……お帰り」

 そこで本を読んでいたのは国王。読みかけの地理史が、あいていたページに栞を挟まれて国王の手の中にある。

「なんだ、こっちに来てたのか」

「何時間待ったと思ってる」

「お前の部屋行ったら居なかったから、寝てるかと思った」

「知ってるよ。足音がここ通り過ぎたから。だから今、こうやって喋ってる。本当は、戻ってきたら即座に縛ってやろうかって、思ってたけど」

「怖いこと言う奴」

「僕のとこ行く足音聞いたら落ち着いた」

 そんな風にはとても見えない。目が据わっている。

「どうしてこんなに遅かったの」

「ちょっとな」

「どこかに逃げるつもりだった?」

「何処に」

 この子から逃げられる場所はない。証拠に今、寝室の寝台の上に乗られている。これは国王。ウィルスの部屋に勝手に入って持ち物に触れる権利のある人物。この子を国王にしたのは自分自身だからか、ウィルスは誰を恨みようもない。

「誰かと逃げるつもりだったんじゃないの?サラブのあの男とか」

「俺がお前と比べて別の奴を、選んだことが一度でもあったか」

「じゃあどうして、こんなに遅かったの」

 国王は本を棚に置く。ベットの上で起き上がる。答えを得るまでは追求を止めない。なんとなく正視ではなくて、ウィルスは目を伏せた。

「考え事してた」

「何を考えてた?」

 手を差し伸ばされる。拒むのも今更で、その手に掌を乗せる。掴まれて引き寄せられる。ベットの上に倒れ込む。仰向けに押さえられ伸しかかられながら、

「答えろ。何を考えてた?」

 尋ねられ答える。

「ミツバがどう思うかなぁとか、他の連中にも、なるべく知られたくないなぁとか」

「気弱なことを」

「俺がおまえを愛してることは、とおの昔に公表してあるのに」

 この子の為に野心さえ凍結した。世界征服に旅立つどころが十年間、母国で育児中も同然だった。悔いはない。無駄に過ごしたとも思わない。だって子供は二人とも立派な男に仕上がった。誇らしくって、満足だったのに。「この上、どうして、セックスしなきゃならないんだろうか、とか」

「あんたの中で出したいんだ」

 股間を優しくすりあげられる。ベルトを外される。シャツは脱ぎかけだったから、そう気にないらしい。前をはだけられただけ。

「我慢できないんだ」

 キスをする。口の中の傷に舌先が触れて、なんだろうという風に動く、治癒しかけの傷を刺激されてウィルスの背中が強ばる。

「殴られたの?」

 そうとしか思えない傷だ。そしてこの男が人に殴られるようなことは、三日前のあの事件しかない。

「暴れたからな。大人しくしてりゃ良かったんだが、なんか、反射で」

「痛かった?殴られたのなんか初めてだろ。……僕はよくあなたの手ぇあげられてたけどさ」