A romantic triangle・後編
「俺のどこが、つまらない?」
繰り返し抱き合う為の小休止。睦言じみて、京一は追求した。
「抱いてあっためても、おおきくならないとこ」
「……なるぞ」
京一は涼介の手を取り自分の、湿った股間に添えさせる。
「馬鹿……」
涼介は苦笑し、それでも指を蠢かす。もう一方の手も忍ばせて柔らかく揉み立てた。
「ドライバーとしてお前は既に完成している。いまさら俺が手を加えるところはない。暖めて撫でても舐めても孵化も羽化もしない。……つまらない」
「弟をそうやって、お前、育ててきた訳か。秋名のあいつも、そうするつもりなのか?」
「……好きなんだ」
「俺を?」
「天才肌のガキを。……難しいんだぜ育てるの。脆くて繊細で方向音痴ですぐ迷い込む。誰にも知られずに迷走する。自分のことがよく分かってないから、くだらない挑発に乗って時々、無防備にコケる」
京一は苦笑した。『くだらない挑発』でこかした覚えがあった。
「手が掛かって……、すごく、可愛い」
「余所でそんなこと口走るなよ」
涼介の腰を抱え濡れた奥を指で探りながら、京一は半ば本気で忠告した。
「ひときわ淫らだ。犯されるぞ」
「そんな物好き、お前くらいだ」
「ガキども同様、自覚が足りねぇな」
添えさせていた手首を掴んでシーツに張り付ける。目を伏せて待っていた涼介が、不意にきゅっと目蓋を閉じた。何かを拒むように。
何が、と思って京一は視線を巡らす。床には空缶、酒瓶、本、車の部品、紙屑に服といった雑多な物が散乱していて、どれが涼介の気分を揺らしたか分からない。
「……殴り返したか?」
挿れながら耳たぶにこすりつけるように尋ねる。まさか、と、涼介は笑った。
「だろーな。お前が弟を殴れる筈がねぇ。弟は?なんで殴った、お前を」
「なんだったかな……」
細かい呼吸を唇で繋ぎながら、涼介は真剣に思い出そうとする表情。
「秋名のやつを入れるのは嫌とでも?」
「そんな風には言わなかった。……二十一年も俺の、弟してるんだ。俺の気性くらい分かってる」
「じゃ、なんだ?」
「よく……、わからない。お前のこともそう言えば、ちょっと、……、ん」
それだけ聞けば京一には十分だった。
「……」
ベットの上、壁を向いて腕を伸ばした姿勢で、涼介はびくりともしない。
「……」
煙草を吸いながら京一も声は掛けない。カーテンをしたまま窓が細く開けられて、部屋に籠もった空気を薄めていく。
それが少し、惜しいような気もした。
ペアガラスの窓を閉じていれば音もない密室だったこの部屋に、隙間から入ってくるのは風ばかりではない。樹木のざわめき、車の音。そして。
「……客だぞ」
軽やかな音楽の呼び鈴。
何度かは無視した。しかし、しつこく、客は鳴らし続ける。
「出てくれ」
指先も動かさないままで答える涼介の、声はわりあい、はっきりしていた。
「お前ん家の客だろう」
「俺はうっとりしてるんだ。まだ動きたくない」
そんな言い方をされて拒める男は居ない。シャツを羽織ってワーキングパンツの前を整え、京一は手を伸ばし涼介の、向こうを向いたままの唇に親指の腹を当てた。心得て涼介は指を舐める。それが彼らの、キスがわり。
唇を重ねたことはない。それはヤバイとお互いに承知していた。今でも充分、ヤバイくらいに身体はピタリと添う。
キスなんかしたら気持ちまで添ってしまう。
それはヤバい。遊び相手にしておかないと、どこまでいくか分からない。
証拠に今でも京一は余計なことを口走りそうだ。弟がお前を殴った理由は多分、欲情したからだ、なんて。
恐いことをこの口からは、言えない。
不意に、殴りたい、と。
男に思わせるほどの衝動は、欲情以外ではあり得ない。 京一は高橋啓介のことをよく知らない。名前と顔と、走りの他は、涼介を通した知識。涼介があの生意気そうな弟を、どれだけ大切に愛してるかってことだけ。
京一も大昔、似た衝動を抱いたことがあった。理由もないのに必要以上の激昂が腹から湧いて喉まで詰まった。あれは今かんがえてみると……。
そこまでで京一は考えるのを止めた。裸足で階段を下りてゆく。恋に落ちた瞬間なんて恥ずかしげな言葉は、彼にとっては禁句。
リビングにインターホンがあるのは気づいた。が、家人でもないのに来客を推誰するのも妙な気がして京一は玄関へ。ただっ広いホールを横切り、ドアを開ける為には靴を履いてから、三歩も歩かなければならなかった。
「遅いぞ、涼す……」
来客は史浩。現れた人影に文句を言いかけたが、それが涼介でないことに気づいて口を噤む。知っている顔だ。でもまさか、この家で会うとは思わなかった。
ごつい身体と頑丈な顎と、強い眼光を持つ男、須藤京一。
日光いろは坂のランエボ軍団、エンペラーのリーダー。つい先日まで群馬エリア全域を震撼させた張本人。
「……」
その須藤は表情を消して黙っている。レッドサンズとエンペラーとの交流戦でも段取りをとり仕切った史浩を、須藤の方も知っている。
「……涼介は、居るかな」
先に平常心に戻ったのは史浩だった。
「ああ」
「失礼」
史浩は須藤を退かせ、玄関脇のインターホン横にある、車庫シャッターの操作ボタンを押した。
「車を入れてくる」
「……」
須藤は二階へ涼介を呼びに行く。史浩が車を車庫に入れ玄関に戻ってきても涼介は下りていなかった。須藤も居ない。
史浩は勝手に靴を脱ぎリビングへ。高橋家の身体の沈み込むようなソファーで一人、難しい顔をして唸る。
「……何も見なかったぞ」
自分に言い聞かせる。
「何も見なかった。須藤が素足だったのも、けっこう動揺してたのにも気づかなかった」
須藤のような男でさえ、情事がばれれば困惑するのか、という奇妙な感慨が胸を過るのをあわてて否定する。
「俺はなにも気づかないぞ。例えば下りてくる涼介の、髪がもし湿ってたとしてもだ」
「なにをぶつぶつ言ってる?」
現れた涼介は全身からほかほかと湯気をたたせていた。石鹸とシャンプーのいい匂いが漂う。勘弁してくれぇ、と、史浩は頭を抱えたくなった。髪は湿っているどころか水滴が滴りそうに濡れ、それをタオルで無造作に拭いながら、史浩の向かいのソファーに腰を下ろす。
真っ白のTシャツに白いタオル、白い指。指に絡まる黒髪だけが、まるで烏の濡れ羽色……、とそこでまで考え史浩は頭を振る。濡れ場と漢字変換そうになって。
「おやしな奴」
ふっと笑う、笑顔は華が咲いたよう。史浩はしかし、涼介の色香に揺れたことはない。
「昨日のタイムアタックの資料だ。選抜候補も一応、絞ってある」
「持ってきたのか。峠で渡してくれれば良かったのに」
「やっぱ来るつもりだったな。それを止めにも来たんだよ。妙な噂になってる」
「聞いた。京一が俺を殴ったことになっているんだろ」
資料に目を通しながら涼介は微笑み続ける。
「そうじゃないんだな?」
「言いがかり、というか、デマだ。踊らされて遠路遙々、文句をつけに来た奴も居るがな」
「お前が広めた訳じゃないな?」
「俺がどうしてそんな事をする必要がある?」
「半分自棄になってるって昨夜、自分で言っただろ」
そんな話をしているところに須藤が下りて来る。今度は靴下をちゃんと履いてると、気づく自分に史浩は嫌気がさした。史浩に会釈とも頷きともつかない微妙な顎の引き方をして、そのままリビングを抜けて行こうとする。「大学まで送れ」
背中に涼介はタオルを投げつける。
「今夜は峠に行くつもりなんだ」
「……」
須藤は振り向いて投げられたタオルをサイドボードの棚に置く。そこのそいつに送ってもらえばいいだろうと、目が言っている。
「FCを置いてきたのはお前のせいだからな。責任とれ」「来るのか……」
史浩は諦めたようなため息。
「当たり前だ。土曜の夜だし啓介も居ない。あとで、峠でな。資料は読んでおくよ」
「ランエボ軍団の騒ぎ、仕掛け人はお前だったのか?」
いつもの口調で史浩は尋ねる。その軍団のリーダーが、すぐそこに居るのに。
「そういえばあの時、お前は予想ついてた顔してたな。お前の筋書きだったのか」
「心当たりがあっただけだ」
「……行くぞ」
須藤の一言に涼介は腰を上げる。
外はもう暗かった。
京一が黒の車を走らせる隣で、涼介はシートを少しリクライニングさせた姿勢で史浩が渡した資料を読んでいる。
「見えるのか?」
「……だいたい」
「顔、隠したいなら上着を貸してやるぜ」
嫌みだった。
「ホテルに入る時はそうしてくれ」
「お前のところの、あの男」
「史浩だ」
「ダチか」
「十年ごしのな」
「見かけによらねぇな」
「ガキの頃から聡明さはピカ一だ。度胸もあるし、何よりも爪の隠し方が、うまい。余所に行く時はそういう資質が一番必要だ。お前みたいじゃすぐに行き詰まる」
嫌みのお返しが来た。
「で、本当のところはどうだ」
「なにが」
「俺もお前の掌で転がされたのか」
「史浩の言ったことなら気にするな。あいつは気がつき過ぎるんだ」
ぺら、と紙を捲る音。
「わざと殴らせたりしない」
ぼそっと、低く、呟かれた言葉。独言の口調だったから京一は聞かなかったことにした。
「あいつは気をまわし過ぎる。事情を知らないから仕方ないけどな。お前が」
ちらっと横目で涼介は笑った。
「気乗りしなかった俺を無理矢理、ホームコースに引っぱりだして、負けたからって拗ねて一年も音沙汰なしだった」
京一は無言でハンドルを切る。
「なんて、ことは」
「涼介。お前の関東なんたらかんたら」
「うちの母親並みだな」
「始めるつもりか」
「近々」
「一年前の勝負の時、勝てたら入れろと、言うつもりだった」
「……駄目だ」
長い睫を伏せて涼介は、聞いたこともないような優しい声。
「お前は、駄目だ。お前じゃ勝っても俺の勝ちにならない」
「……」
「たとえ車を俺が弄っても。俺が決めたコースラインにお前が乗せても、お前の勝ちを、俺のものとは思えない」「そうか」
「お前じゃ、駄目なんだ」
「わかった」
「……、じわらが……、」
最初から気分は荒れていた。新しい遠征チームの概要を聞かされた時から。もしかしたらもっと前、兄が負けても平気な顔してた時から。
取り込む気だと、それは最初から分かってた。強かったり目立ったり凄かったりした奴をアメーバみたいに、包み込んで自分のものにしちまうところを何度も見てきたから。
「たいした奴だぜ。惚れ惚れする」
話しながら走行ビデオを見てた。藤原拓海が雨の中を走ってる、あれだ。何度も見たのに自分が負けた後なのに飽きもせず、うっとり見入ってる兄が腹立たしかった。「誘うんだろ、あいつも」
「そのつもりだが……、来るかな」
「アニキが誘って乗ってこない奴なんか居ねぇよ。さっさと声かけちまおうぜ」
少しでも早く話しを切り上げたくってそう言った。
「どうかな。今度ばかりは断られたくない。どう持ちかけようかって今、思案中だ」
それさえ愉しげに話す。心臓が、チリッと焦げた気がした。
嫉妬だという自覚はあった。だからその場を離れようとした。でも立てなかった。ヤバイくらいの熱心さで画面を見る横顔から目が離せなかった。
「お前と似てるな。少し」
「……どこが?」
「頭で理解する前に感覚でわかっちまうところ。天才肌ってのはそんなもんかな。お前たちはもしかして最初から、何もかも知ってんじゃないかって思う」
「んな訳、ねぇよ」
「先が愉しみだ」
目を細める兄があんまり愉しそうだったから、
「俺と、どっち?」
禁句にしていた言葉を吐いてしまう。
「どっちも。俺の思惑通りに行けば来年の春には、お前と藤原のダブルエースに関東全体は大揺れに揺れてる筈だ」
「どうせそうなるさ。なにもかも、アニキの思い通りに」「……啓介?」
弟のひねた物言いに気づいて涼介は、クシャっと髪に手を差し入れる。外ではしないけど家の中では、こんな風に子供扱いをされることが時々ある。
「須藤は?」
勢いで、気になっていた別のことを尋ねる。
「京一がどうかしたのか」
名前を呼び捨てるのがらしくない。古い知り合いだと言ってた。そんなの知らなかった。
「なんで須藤には声かけねぇの?あいつもいい腕だろ」
「論外だ。啓介。チームのレベルってのはドライバーの腕だけで決まるんじゃない」
分かってる、そんな事は。
「組織はトップダウンじゃないと動かない。奇麗ごと抜きの、それが本当のことだ。京一は俺の言うことをきかない。あんなのを俺のチームに、入れる訳にはいかない」 柔和な顔立ちと裏腹のキツイ口調。いつでもそうだ、この人は、誰よりも負けず嫌いで気が強い。勝ち負けの基準が世間と少しズレテいて、おかげでクールと思われることもあるけれど。
「お前もいつかプロになるんなら覚えておけ。トップの言葉が末端までノンストップで響かない組織は、使い物にならない。それぐらいなら一人の方がマシだ」
多分その言葉に嘘はないのだろう。けれど。
「俺や藤原なら思い通りになるってことか」
妙に絡みたい気分だった。
「ガキだから、なんでも言う通りだって?」
けっこうギリギリの挑発だったのに。
「なにか気に入らないのか?」
兄の態度は優しいままだった。不満があるなら聞こう、という風な。まともに相手されてない、ような気がしてむかついた。
「いつ迄もガキ扱いしてくれるなって事さ」
「そんなつもりはないが……、悪かった」
さらっと謝られるとそれも、馬鹿にされてる気がしてカチンときた。要するに虫の居所が悪かったのだ。
……ちがう。
悪かったのは機嫌じゃない。
荒れていたのは気分じゃない。
もっと血腥い衝動。
「啓介」
もう一度、伸びてきた指をはねのける。掴んで引き寄せちまいそうだったから。ようやく真面目な顔をした兄が正視できない。抱き寄せたくなるから。
「どうした。なにが……」
「なんでもねぇよ」
「啓介」
リビングを出ていこうとする弟を兄は引き留める。肩に掛かった手から熱が、下腹にまでもろ伝わってやばかった。乱暴にふりほどく。
「座れ。きちんと話しをしよう」
その時は本当に精一杯だった。昔馴染みだという須藤京一に対するわだかまり、藤原拓海に対する嫉妬。
弟である自分の負けさえデーターとして処理されてしまうことへの不満。
溢れそうな激情を表面張力でようやく押さえ込んでいた。
「だから、なんでもねぇってば」
食いつく前に離れようとしてるのに、追いかけてくる兄に腹が立った。食らいつくのが自分だけの専売特許と思うな。俺はあんたの弟なんだ、牙くらい持ってる。
でも、それをあんたに、向けたくはないんだ……。
「啓介」
名前を呼ばれて腕を掴まれて、限界がきた。 顔をそらしたまま見当で振り回した左拳。意外な手応えがあって慌てた。威嚇のつもりだったのに力が入ってしまった。無意識の敵意が出たのかもしれない。
後ろに半歩。たたらを踏んで涼介は衝撃をこらえる。目の下の急所だった。殴られる、なんて予想もしてなかったから無防備に受けた。反撃なんかおもいつきもしなかった。
驚きで涼介は何も言えなかった。中学の反抗期でさえ、喧嘩どころか逆らったことさえない弟だった。目線を上げて啓介を見た表情にも、戸惑いばかりで、責める気配はなかった。
「……」
啓介の方も何も言わなかった。言えなかった。一言でも喋ったら最後、致命傷を負うことは分かっていた。好きな人が目の前に居る。部屋には他に誰も居ない。毛足の長い絨毯と大きなソファーが視界にちらちらする。どっちでも、さして不自由なく、出来る。
涼介にも、何も言ってほしくなかった。声を聞いたら溢れそうだった。
「……、け」
涼介が口を開く。
限界かなと、覚悟を決めかけた時。
不意に鳴らされる来客チャイム。
「……はい、高橋です」
涼介の方が近くて、出たのは兄だったが。
『高橋ィ〜、助けてくれぇ〜』
聞こえてきたのは大学の悪友の声。
『教授に言われて駅前でレンタのマイクロ借りてきたんだけどさー、もぉ駄目だわ俺、こんなでかいの運転しきれねぇよ。冷や汗もんでここまで辿り着いたんだ。運転替わってくれよぉー』
泣き言に混じってゼミの、別の友人の声もする。じゃ、俺が高橋のセブン運転ちまおうか、とか、でけぇ家だな何坪くらいあんだよ、とか。
「……行っていい。気をつけてな」
兄の言葉に誘われて彼を見た。頷き近づき、インターホンを受け取る。
「時間かかるぞ。俺まだなんも準備してねーから」
声は平静に出せた。
ゼミ担当の教授の専門は運輸交通問題。なかでも高速道路の防災に関してはかなりの研究実績を持つ。ゼミ生は問答無用で自動車部にも入らされ、そこで研究というより、教授の実験を手伝う。
車メーカーにも人脈が豊富で、実験資料の協力要請も多い。高速道路公団との繋がりも強くて、実験中はフリーパスを与えられる。今年の課題は砂礫の被害実験。要するに砂利や砂を積んだトラックが高速を走った場合、どれだけ事故の原因となりうるか、という実験。風向きの関係で幾つものチームに分かれて、一人が砂利を満杯に積んだトラックを運転し、それを更に二人一組で一定距離と速度で追いかける。追う車は車高の高いワンボックスで、普通乗用車のフロント位置に粘土版が取り付けてある。
「高橋君って、うまいよね。車の運転」
今日はワンボックス車の担当だった。助手席ではペアの女がビデオを廻している。時速80キロこえて走っていると、飛礫がフロントに当たっても肉眼では、なかなか捕えきれない。
「でも昨日から、ずーっと機嫌悪い。女の子みんな恐がってるよ。どしたの?」
ちらり、啓介は女に目線を当てる。優しい顔で真っ直ぐ言葉を向けてくる、潔さが少し似ていた。
好きな人に。
「殴っちまったんだ、昨日」
だから言う気になったのだ。
「誰を?彼女?」
「……彼女にしたいヒト」
「ふぅん。そんな人が居るんだ。でもちょっと意外。女のこと殴ったりする男には見えないのに。強そうだけど、育ちよさそうだもん。理由聞いていい?」
「腹がたったから」
「だからってふつう殴っちゃう?しかもそれで、何日も落ち込むくらい大事なコを?」
「あそこで殴らなきゃレイプしてた」
「……」
女は暫く黙った。呆れたのかと思ったら、
「どっちがマシかな」
真剣にそんなことを考えてたらしい。
「あたしだったら高橋君に、殴られるより抱っこされるのがいいな。その人も、きっとそうだと思うよ」
それから暫くの、沈黙。
「どっか行こうか」
「……実験中だぜ」
「そっか。せっかくチャンスと思ったんだけど。好きな人いるんじゃしょーがないね」
「夜、大丈夫か」
ゼミの男子は夜、石灰で粘土版の型をとったりビデオチェックしたりするために高速道路公団の宿舎に泊まり込んでいる。女子は駅の近くのホテルに宿をとり、十時くらいでそっちに帰っている。
「うん。平気。でも部屋、トリプルだよ?」
「十一時くらいにホテル出て駅まで歩け。途中で拾う」
「わかった」
「一往復しても会わなかったらなんかトラブルがあったって事だ。ホテルに戻ってろ」
「通りすがりか。待ち合わせよりぜんぜん目立たないし、知り合いに見られても言い訳しやすい感じ。慣れてるね。こういうことよくやってるの?」
「……たまにな」