美しい目尻を翻し、つるんとした頬に冷たい笑みを浮かべられ、軽蔑した視線とともに嫌味を一つ二つ。

 出会いがしらの挨拶はいつもそうだった。だからその日、いきなりごめんと謝られ、伊東鴨太郎はたいそう動揺した。

「……なにを謝られているのか聞こうか」

 返事は遅れたし眼鏡のフレームを押し上げる指先が定まらず、少しレンズを掠ってしまった。なにもかもをと、先に座敷に通っていた美しい女は言う。

「アンタがまさか湯上りコロンの匂いさせて来るとは思わなかったぜ」

 髪は飾り気のない束髪で着物も染物だが夜の料亭に来る礼儀上、唇と目元には薄化粧がほどこされている。芸妓は呼べるが泊まりは出来ない本当の『料理料亭』の座敷には八寸の前菜と酒が並べられていて、女はその酒器を手に取った。

「盛り上がらせちまって悪かった」

 まあ飲めと酒をさされ杯で受けながら伊藤は訳がわからない。女が銚子を取り上げた時に着物の袖が下がって肘に近い腕の内側がちなりと見えた。雪洞の光に照らされた肌はどきりとするほど白く艶やかで、男の気持ちを無残なほど揺らす。

「こんなに一生懸命、駆けつけてくるとは思わなかったぜ」

この女に思いがけず呼び出されて、確かに浮き上がるような気持ちで、風呂に入って身じまいをして駆けつけたのではあるが。

「ごめん」

「だから、キミは、なにを誤っているんだ」

「アンタの盛り上がりに付き合えねぇんだ、わりぃ。ナンか、すっげぇ、間が悪かった」

「なんの間が?」

 杯をぐっと干しながら、くらりという眩暈を感じたのは錯覚ではない。自分を睨み付けず冷笑を浮かべることもなく、むしろやわらかな表情で、親しげというか真摯な口調で尋常な口をきく女がひどく美しく見えるのも、気のせいではない。

「デキちまったどうしようって、相談したくて、呼んだんだ」

 がちゃん。

 男が、清めて女に注ごうとしていた杯を杯洗の中へ落としてしまう。

「ら、はじまった。ついさっき」

「……そ、そうか」

「ムダ足ふませちまって、悪かった」

「……いや」

 動揺しながらも男はざっと、頭の中でカレンダーを捲る。一ヵ月半が過ぎている。女が困って男に相談をする時期としてはおかしくない。

「腹ン中もびっくりしたんだろーな。久しぶりだったから」

 向き合った相手との情事をそんな風に言うデリカシーのなささえ正直で率直で、女臭くないサバサバしているところが可愛らしいと、目の眩んだ男は思った。

「怒るなよセンセイ。わざとじゃねぇ」

 珍しくしおらしい態度の理由はそれだったらしい。

「怒っては、いない」

 男は答える。嘘ではない。

「女性の体はデリケートだ。そんなこともあるだろう。……、ちょっと、失礼していいかい」

 喉もとに手を掛けながら男は女に尋ねる。キュッと形よく締めてきたネクタイを緩めていいか、と。

「楽にしてくれ。足も崩して、喰って呑んでくれていいぜ。なぁ、悪いと思ってるぜ」

 杯を受けながら殊勝に頭を下げられて男は銚子を持つ手が震えた。陶器が触れ合ってカタカタ音をたてる。この女がこんな風に、柔らかな態度をとるのは本当に初めて。

「キミがボクに相談しようとしてくれたことは嬉しいよ」

 抱いたあの夜さえ終始一貫して、軽蔑と嫌悪を示していたのに。

「浮かれて来てくれたのにガセネタで呼び出した上にヤれもしねぇで、ほんっとに、ごめん」

「いや……」

 露骨なことを言われて男は顔を背ける。下心を指摘されて頬が赤くなっていくのが自分でも分かった。

「キミの体が大切だ。気にしないでくれ」

「そー言ってくれっと気が楽になるぜ。ホントについさっきなんだ。アンタにばっくれられなくって安心したかもな」

「そんなことはしない」

 男がマジな声を出す。女に向かってにじり寄り真剣な抗議をしようとしたが、そこへ膳が運ばれてきて口を閉ざす。吸い物に刺身に平椀、てんぷらに小鍋というお決まりの料理が載せられた膳は大きく、向き合った狭間にそれを置かれると距離が出来てしまう。一品ごとに仲居に出入りされるよりはいいけれど。

「ボクにもちゃんと覚悟はあった。第一もう、キミの兄上に挨拶に行っている。逃げ隠れする必要はどこにもない」

「そーかよ。オレぁ無茶苦茶に動揺したぜ。やべぇって思ったときは貧血おこしてしゃがみこんじまった」

「別段なにも、やばくはいだろう」

 行儀よく手を合わせてから箸を取り、いただきますを言ってから男は膳に手をつける。

「結婚すると約束しているのだから。順序が入れ替わるくらい、なんということはない」

「こっちは離婚調停中なんだよ。不貞行為の動かぬ証拠になっちまう」

「……不貞?」

 男が不機嫌になった。自分とのことをそんな風に表現されるのはひどく不本意だった。

「キミと近藤さんの結婚生活は既に破綻しているだろう。別居何年目だい。君はとっくに独身だよ」

「って、オレも思ってたんだけどよ」

 同じく箸を取りながら女は憂鬱そうな表情。

「違うのかい?」

「違うってさ」

「……近藤さんから、返事が?」

「アニキんとこに、来た」

 この女は近藤勲の江戸の屋敷を出た。愛人と子供とともに京都に住んで、もう何年も会っていない夫に、身を引くから離縁状をくれと仲人だった地元の名主を通して要請した、返事は。

「棄てたつもりは、ねぇってよ」

 離縁するつもりはないという意外なもの。

「いつでも帰ってきていいってさ。オレの部屋はそのマンマで、オレを待ってくれてるって」

「……」

「オレが近藤さんのガキ、認知するならって条件つきだけどな」

「……」

「オレの代わりにガキ産んでくれた別の女に感謝して、ガキをオレの養子にして、近藤さんの嫡子にすんのに協力するなら、いつでも戻っていいってさ」

「……」

 話を聞く男の顔色が青ざめていく。

「……キミは」

 ようやく口を開いたが、口の中が乾いてうまく言葉にならない。

「そんなことを言われて平気なのか」

「平気ってーか、なんか、ぜんぶ、バカらしくなっちまった」

愛し合っていた時期もあった。子供のころから好きだった幼馴染と十代で結婚した。ずいぶん長く一緒に居た。けれど結局、何一つ分かり合えなかった。

正妻の義務として夫が外で作った浮気相手との子供を引き取れと要求されている。そんなことを出来るなら最初からこんなに傷ついてはいないし悲しんでもいない。夫の浮気相手に負けて江戸へ追放されたと思っていた。考え直す時間を与えたつもりで居られたのならば、考え直してくれることを期待して耐えていた数年も全てが無駄で虚しい。

「そんな悠長なことを言っている場合ではないだろう」

「オレにキレんなよ、センセイ」

「冗談ではない、キミは独身だ。そしてボクと結婚する予定だ。なにがいまさら人妻だ、そんなことはあり得ない」

「だなぁ。もう不貞したしなぁー」

 既成事実があることを、有態に言えばセックスをしたことを、そんな風に言われて激昂しかけていた男が少し落ち着く。

「……そうだ」

 目の前の美しい女が悪いのではない。

「結婚の約束をしたよ」

「忘れてねぇけどよ、ちょっと時間かかりそうだ。アンタの事情が変わったらナシにしてくれていいぜ」

「だから、それは、ナシだと言っているだろう」

 せっかく落ち着いたのに、また怒鳴りかける。大きな声を出されて怖がる女ではないが、ぎゅっと掌を握りこんで、男は平常心を保とうと勤める。

「いまさら、彼に未練があると言われても聞かないよ」

 一番怖い事態を怖れて、釘をさしておく。

「言わねぇよ。もうあの人以外のカラダ知ってンだ。戻れやしねぇし戻る気もねぇ」

 さっきよりさらに露骨な表現をされて男の目尻が赤くなる。目の前の女を確かに抱いた。そうしてそれはキチンと契約になっている。単にセックスをしただけではない意義は商売女とは成立しない誓約。厳粛な約束でさえある。

「キミがそう、思ってくれているのならいい」

 はっきりとした気持ちを聞かされて男がやっと、本当に落ち着く。それどころでなくなって忘れていた杯を手に取り女に向かって差し出す。

「メシ食ってるときにチマチマやりとりすんのって面倒だよな」

 酒を嫌いな方ではない女だが杯は受け取らずそんなことを言う。

「そうだね」

 男は逆らわず、伏せて置かれていたコップに銚子の中身をなみなみと注いで渡してやる。女はくいっと、白い喉を見せて半分ほど呷る。無造作だが美味そうに。

「……今日は泊まれないかい?」

 見惚れた男ははっきりした白旗。

「れねぇよ、言ったろ」

「既成事実の上書きはしなくていい」

 口でさらっと言ったが照れて眼鏡を押し上げながらという正直さが、慣れれば愛嬌だ。

「ゆっくり話したい。色々なことを打ち合わせる必要もある」

「オレなぁ、奥勤めするかもしれねぇ」

 突然女がそんなことを言ったのは、話がそういえばあったと思い出したから。

「……は?」

 江戸城の『奥』、つまり将軍の私邸のあるエリアに仕えることを奥勤めという。住み込みが基本で外出や面会も身内に限定されるし、年単位の契約が基本で、一生奉公さえ珍しくない。

「離縁状とるのに、必要になるかもしんねーって話だ」

 武家では基本的に女からの離婚は認められないが、別れることを望む女が大寺院や主君の屋敷に三年の方向をすれは『結婚生活は破綻している』と見なされて公権力によって離婚が認められる、というような習慣が江戸にもある。

「……キミは分派の頭領になるんだよ」

「女なんかに生まれてくるモンじゃねぇなぁー」

「離縁状をとるのに三年も待てないよ」

 本音を言えば、今すぐここで欲しい。なのにそんなに長い『おあずけ』など冗談ではない。

「だから、約束は反故にしていいぜ」

「そんな大事なことを勝手にきめるんじゃない」

「勝手には決めてねぇ。相談してっだろ、いま」

「キミの口調は相談じゃない通達だ。でもキミが相談のつもりならボクの返事は反対だ。いますぐ結婚したいのに三年も待てるものか。冗談じゃない」

 今夜、何度も、口にした言葉を男はまた告げて。

「一緒に、帰ろう」

 確固とした口調で別の解決策を示唆する。

「このままウチにおいで。キミの意思表示はそれで十分だ。後のことはボクが始末をつける」

 この女の『夫』である近藤勲との離婚交渉も、『家出』先である姉の婚家とも。

「アンタに悪いうわさがたつぜ」

「うわさ?」

「上司の女房寝取った、って」

「構うものか。好きな女を寝取って何が悪い。素行不良の士道不覚悟は寝取られた側で、ボクはキミがボクを選んでくれたことを誇りに思うだけだ」

「……」

「一緒に帰ろう。それで全部、すむ」

 嫌だ、とは、女は言わなかった。

「……最終手段だな」

 男の提案に肯定的でさえあって、ひくっと、男は喉を震わせる。

「土方君」

「今日は、やめとく。色々準備してねぇ」

「準備してすることではないだろう」

「覚悟も、してねぇ。ちょっと時間くれ」

「キミの口からそんな台詞を聞く日が来るとは思わなかったよ」

 ばさばさと覚悟のいい姿しか知らない男は、女の躊躇を可愛いと思った。その時はそう思った。

「家出をしておいで。義兄上のところからではなくて」

 優しい身内ではなくひどい夫を棄てて。

「待っている」

「……おぅ」

 

 

 

 

 

 

 引き摺って無理やりにでも連れて買えればよかった、と。

「行き方知れず、なんでさぁ。ご存知ありやせんか」

 ほんの三日後、心から悔いることになった。

「まあ書置き残してるし、動機もハッキリしてんでそう真剣に心配してんじゃありやせんが」

 犯罪に巻き込まれたとかではなく、本人の意思による失踪。

「どうせ偽装で、しらっと帰ってくるに決まっちゃいるんですが一応、オレの立場としては捜さない訳にもいきやせんで」

 近藤勲との流儀上の養子縁組は解消されていない。実子が生まれたことでほぼ意味がなくなっても。

「見かけたら教えてくだせぇ。タチわりぃ男と一緒に居ると思いやすんで、お声はかけねぇマンマで」

 ガンガン、頭の中が割れそうに痛くてうるさい。

「困ったヒトでさぁ」

 そんなものでは、なかった。