物音で目を覚ます。裏のくぐりが開いてそこから低い声のやり取りが聞こえてきた。むくっと、寝床から起き上がる。
暑い夜だった。眠りは浅かった。そうじゃなきゃ起きなかったかもしれない。深夜の物音だったけど剣呑な雰囲気じゃなかった。片方の声は、実家の法事があるってんで故郷の日野に一泊で帰った筈の、俺の、義母。夫に棄てられて一人で江戸に戻されてもう二年、殆ど独り身で居る女。
もう一人は。
「何しようとしていたか、オレの目を見て言ってくださいよッ!」
山崎のものだった。京都時代の部下で、今は真撰組を退職して大阪の米問屋に養子に行ったヤツ。その米問屋が蔵前の札差の株(営業権)を買ったとかで、半年くらい前から江戸に出てきてる。
「そんないい訳が通じると思ってるんですか。こんな夜中に、そんな格好で料亭に、女一人で、何が……ッ」
ああ。
なんとなく、そんな感じは、してた。
嫌な感じだった。しっかりした気性のその女はオレに苦しそうな様子は見せなかったけれど、窮乏をオレは感じていた。オレの養父で女の夫である近藤さんは京都で羽振りがいいらしいが、江戸に戻された俺たちの手元には決まりの扶持米しか収入がなくて、家計は苦しかった。
ゆっくり、起き上がって裏口へ行く。江戸城への登城に便利な清水門わき、大番務めの旗本が集まるこのあたりは地価が高く屋敷と言うにはやや狭い敷地しかない。近所も似たようなもので、あまり騒ぎになるのもどうかと思った。
途中、玄関番の爺の部屋の前を通る。この暑いのに爺は襖をぴたりと閉めて起きて来ない。台所仕事から俺の外出のお供までこまごまとよく働いてくれる律儀な男が、騒ぎが聞こえていない筈はないのに起きて来ないのは不思議だ。いや、そういえばこいつは山崎の世話で雇ったんだっけ。
直参旗本の身分は不自由が多い。無僕、つまり、お供なしでは外出もろくに出来ない。外聞や名誉の問題じゃなく幕府の法でそう決まっている。当主と継嗣が無僕で歩けばお咎めを受けるのだ。小普請(役職につかない自宅待機)であっても。
かといって手元不如意な旗本は若党一人を雇う余裕もなく、片扉の玄関があっても門番はなく、おかげでろくに外出も出来ない不自由な暮らしに閉じ込められる。半年前までの俺がまさにそうだった。そこへ、江戸に出てきました、とか言って山崎が挨拶に来て、数日もしないうちに。
むかし世話になった爺さんを置いてやってくれ、と言ってきた。住むところがあれば給料は要らないからと言って。爺さんは一日中よく働く。そして時々は魔法も使う。米櫃の米が永久に減らなかったり味噌やら茶やらがえらく美味いものになったり、部屋住みながら剣術師範役の召し出しを受けた俺の擦り切れた袴がいつの間にか新品と入れ替わっていたり。
その魔法の種は分かってる。この爺さんを送り込んだ山崎だ。この国の米価っていう為替相場を握りこんでる大阪の米問屋は景気がいいらしい。
「借金札は俺がひくって言ったじゃないですか。なのにどしてこんな真似、しようとしたんです」
江戸の札差は要するに高利貸しで、米と金との換金手数料より担保とっての金利で肥えてる。養父の家禄としてこの家に与えられる扶持米は三年先までその担保に入ってる。借金の金利が払えなきゃ札が流れて、屋敷家財は差し押さえ、家禄競りに出されてしまう。要するに破産宣告だ。
「……ふざけるな……ッ」
女がなんか言ったらしい。オレには聞こえながったが山崎が声を震わせる。殴ったかな、と思いながら廊下の角を曲がる。女は殴られちゃいなかった。代わりに着物の襟を掴まれて、引き寄せられて、唇を重ねられてた。
「……」
オレに気づいた山崎がぱっと手を離す。瞬間、跳ねるような動きで女は山崎を突き飛ばして俺に飛びついてきた。縋りつくみたいに。
なんとなく受け止めながら、俺は女の背中を眺めおろす。手触りのいい絹物を着てる。裏口の薄暗い灯の下でも帯の金糸が光った。娘時代のものだろう。実家に置いてたのを持ってきたんだろう。俺の義母で近藤さんの妻になって十年近いけど年齢は二十八。まだ綺麗だ。売春できる、くらいには。
「夜分に、申し訳ありません」
山崎はくちづけを俺に見られても動じてない。昔から度胸のいい奴だった。京都時代はこの女の手足みたいにこき使われて、でも嬉しそうにしてた。
「お詫びには、明日あらためて参上します。おやすみなさい」
そう言って出て行こうとする山崎を。
「待て」
引き止めたとき、俺は寝巻きの帯を手にしていて。
「待てよ。いい機会だ。お前、こいつヤっちまえよ」
俺の懐に飛び込んだオンナの手首に巻きつける。
「総悟……ッ」
「沖田さん?」
「このまんまじゃ、ナンにも解決しねーだろ」
いい加減もうなんとかしないといけないことは、まだ半分、ガキの俺にも分かってた。
「ヤって、覚悟キメさせてやれよ」
今ならまだ綺麗で愛してもらえるし子供も孕める。この女は意地を張って別れないって言い張ってるけどもう、近藤さんがここに戻ってくることはない。むざむざ、この江戸の隅っこで無為に、歳をとってくことはない。
「嫁に貰いなおしてくれんだろ、山崎?」
正妻にしてくれる気があるんだろうな、という俺の質問に。
「勿論です」
即答する男の目は覚悟がぎらりと輝いて見えた。
「奥、連れて行くぜ。足を持て」
「はい」
「冗談、じゃねぇ。やめろッ」
抱きかかえた身体はふかふかで、しなやかだけど柔らかい。いい弾力だった。
「騒ぐと口も塞ぎますぜ、土方さん」
気が強くて表情がキツいけど美人で、頭が良くて口が悪くてスタイルが抜群。いい女だ。だから腐っていくのを見ているのは辛い。
「総悟、おい、ちよ、てめ……ッ」
「沖田さん、乱暴しないであげてください」
「義理の息子じゃなきゃ」
俺が貰いなおしてやれたけど。
「そ……、っ、……、が……ッ」
当身を食らわして、意識を落として、抱きしめて。
さよなら。